プロメテウスの政治経済コラム

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放送の「公平性」 政治が判断することか

2016-02-20 20:57:15 | 政治経済

高市早苗総務大臣は、2月8日の衆議院予算委員会で、野党議員の「憲法9条改正に反対する内容を相当の時間にわたって放送した場合、電波停止になる可能性があるか」との質問に対し、「放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返し、行政指導しても全く改善されない場合、それに対して何の対応もしないと約束するわけにいかない」と述べ、政府が放送局に対し放送法4条違反を理由に電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性に言及した。

 

日本の放送行政は、電波行政も含めて戦前の逓信省、戦後の郵政省、現在の総務省と一貫して内閣の支配下に置かれてきた(GHQ占領下で1950年6月―1952年7月「電波監理委員会」が存在した時期を除く)。国民の思想、情報、宣伝に重大な影響を持つ放送の監理行政を内閣の統制下に置くことは、支配階級にとって緊要な統治手段であるからだ。資本主義社会のような階級社会において、もともと「政治の公平性」など存在するはずがない。放送・通信にかかわる行政機関をどう位置付けるかという問題は、国民の「言論の自由」「報道の自由」という権利保障の在り方を巡る階級闘争の一環なのだ。

 

放送の「公平性」を確保するためには、放送を規制・監督する機関は、政党や団体、政府機関から支配を受けない「自治機関」でなければならない。民主主義を建前とする多くの国々が放送を規制・監督する機関として曲がりなりにも「独立行政委員会」を設置しているのは、そのためである。日本は、吉田内閣が「電波監理委員会」を廃止して以来、制度的には旧逓信省時代(大本営発表)に戻ったのだ。これまで、何度も放送への政治介入が行われながら、民主主義の建前のもとで、国民を騙しつづける抑制があったが、軍事大国化への自己の野望に執着する安倍政権は、あらゆる制度をその目的完遂のために徹底的に利用する方向に転換した。高市総務大臣の「停波」発言は、ある意味、当然の帰結であった。

 

国民の公共財である電波(周波数)の監理については、たしかに行政府の捌きが必要かも知れない。しかし、放送の内容の如何は、国民の自治機関によって規制・監督すべきものである。放送規律(コンテンツ部分)の自主自律を確保できるかどうかは、そのための制度設計も含めて国民の階級闘争の力量にかかっている。放送規律(コンテンツ部分)と電波監理(インフラ部分)との峻別は、教育行政の自主自律と似ている。

教育行政は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべき(国民との間にいかなる政治勢力も介入の余地はない)ものである。教育行政は、教育の目的を達成するために必要な諸条件(インフラ)の整備確立を目指すだけである。

放送の「公平性」は政治が判断することではないのである。


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