プロメテウスの政治経済コラム

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横浜・米軍機墜落 30年  日米安保は強化され、屈辱的「地位協定」はそのまま

2007-10-01 19:06:39 | 政治経済
1977年9月、横浜市緑区(現・青葉区)の住宅地に米軍機が墜落し、幼い二人の子と母親の土志田(旧姓・林)和枝さんの命が奪われた事件から三十年を記念する集会が9月29日、同市青葉区内で開かれた。 主催は「米軍ジェット機墜落事件30周年行事実行委員会」。三百人を超える人たちが集い、事件を語り継ぎ、「二度とこういう不幸で不条理な事件がおこらないようにする運動を、幅広く進めてゆきましょう」とのアピールを採択した(「しんぶん赤旗」9月30日)。
事故を起こしたのはアメリカ海軍の戦闘機(RF-4Bファントム戦術偵察機611号機)であった。厚木基地から太平洋上の航空母艦ミッドウェーに向かっての訓練飛行の直後、ジェット燃料を満載したまま墜落した。乗員2名全員がパラシュートで横浜市緑区(現・青葉区)鴨志田町付近に脱出後、機体が5kmほど離れた同区荏田町(現・青葉区荏田北三丁目・大入公園付近)の住宅地に墜落、機体と燃料は火を噴いて住宅地を襲った。林一久さん宅では裕一郎ちゃん(3)と康宏ちゃん(1)の兄弟と、その母親・和枝さん(26)らが、椎葉寅生さん宅では妻、悦子さん(35)が全身大やけどを負った。全身を包帯で巻かれた幼い兄弟は、「ポッポッポッ・・・」と大好きな鳩ポッポの歌を口ずさみながら、当日深夜と翌朝未明、相次いで息を引き取った。和枝さんは、皮膚の8割が焼けた。子どもたちの死を知らされなかった和枝さんは、早くよくなって子どもたちの看病をしてあげなくてはの思いでがんばった。事故から1年4ヶ月後、子どもたちの死を知らされた和枝さんは、皮膚移植手術とリハビリを繰り返す長期入退院の末1982年1月26日、呼吸困難で亡くなった。
当時、真っ先に和枝さんを見舞った元共産党県議の斉藤淑子さんは、「和枝さんは、自衛隊が米軍のパイロットだけを助けて飛び去ったことが許せませんでした。裁判に訴えたいと思っていたに違いありません。でも林家は、考え抜いた末、防衛庁と和解した。和枝さんはそのことを後で知らされました」と語っている(「しんぶん赤旗」10月1日)。

病院から、妻の悦子さんが収容されていることを知らされた椎葉寅生さんは、妻を病院に見舞った後、すぐ自宅を見に行った。現場では、米兵たちが機体の残骸を次々、回収しており、中に入ろうとすると日本の警官に制止された。ここは私の家。なぜ私の出入りは規制され、加害者の米軍が自由に立ち入れるのか。なぜ、日本の警察は現場検証もせず、米軍を守るのか(「赤旗」日曜版9月30日号)。
椎葉さんは、国の姿勢に抗議して1978年1月、日本政府と米兵を刑事告訴した。しかし、横浜地裁は「公務中の米軍事故で、(米兵に対する)日本の裁判権はない」「裁判を維持するだけの証拠が集まらなかった」と不起訴処分にしてしまった。米軍駐留に関する「日米地位協定」では、公務執行中の米軍の事件・事故の第一次裁判権は米国がもつ(第17条3項a)。
事故の証拠は、事故直後に米軍が回収して、エンジンは本国に持ち帰った。パイロットも帰国してしまった。椎葉さんは、最後の手段として国と米兵を相手とする民事訴訟で事故原因や責任を追及することにした。事故から10年後の1987年、横浜地裁は国に総額4580万円の支払いを命じ、米軍人に対しては、賠償責任は負わないが「合衆国軍隊の構成員が公務中の行為によって日本国内で損害をあたえた場合でも日本国の民事裁判権に服するものであり、米兵パイロット2人は被告として適格」だとした。当時の新聞各紙は「『安保の壁』に風穴が開いた」(朝日)、「報われた苦難の日々」(読売)などと報道した(「赤旗」日曜版 同上)。

2004年8月、沖縄国際大学に米軍ヘリコプターが墜落した事故でも、火災は宜野湾市の消防が消したあと、米軍は現場一帯を強制封鎖し、警察、消防、大学関係者を一切近づけさせずに証拠の残骸を回収してしまった。日本政府は、基地内だけではなく基地外の民間の土地も、日本の主権を及ぼそうとしない。航空機が基地外に落ちたとき日米双方の権限をどうするかは、「地位協定」に規定がないのだから、交渉は可能である。にもかかわらず、なにもしない。要するに、日本政府は、安保についてはすべて、米国いいなりなのだ。

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