プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

「自立と共生」  小沢氏と福田氏 なぜ理念が一致するのか

2007-09-25 19:32:11 | 政治経済

中西新太郎・横浜市立大学教授が、「自立と共生」イデオロギーの本質をわかりやすく解説している。
「『自立』という言葉は、小泉内閣のころから、政府・財界によって盛んに使われるようになりました。従来、自立というのは人間にとって望ましいものと受けとめられてきました。しかし、『構造改革』のなかでは、別の意味で使われています。『公的・社会的な支援に頼らずに自己責任で生きていく』という意味であり、生活上・社会上の困難を『社会や政治のせいにするな』『官に頼るな』と公的な支援を切り詰めていく考え方です」(「しんぶん赤旗」9月25日)。
「一人でできる」「自前でできる」という意味で受けとられる自立の観念は、人間の望ましいあり方として肯定的イメージで受けとられている。しかし、よく考えてみると社会的存在である人間が互いに関係をもって生きている以上、誰にも依存することなく生きているなどと豪語できる人間は存在しないはずである。依存がマイナスイメージでとらえられ悪いこと、自立が良いこと、と対比される考え方は、資本主義化の過程で生み出された。20世紀以前の依存という言葉には侮蔑的意味など含まれていなかった。働かなくても生きてゆける有産階級だけが自立した存在と考えられていたわけで、そうであれば、自立できる人間はごくわずかということになる。資本主義の発展による商品市場の拡大は、かつてない規模での人びとの相互依存関係を現出する。他人が生産した商品に依存しないでは生活の存続もおぼつかない。それでも「自立している」とは、どういうことか。他人の商品に依存しているけれども、対価を支払っている、さらに言えば、支払うだけの対価をもっている(私有している)ということだ。こうして、資本主義社会では、対価を支払うという関係・振る舞いだけが自立している証しとして特別に重要視される。この私有型自立観念のもとでは、対価を支払えることが自立であり、他人に依存することは、社会的無力ということになる。私有型自立像は依存を無力の証し、表明とみなし、無力であるがゆえに依存するしかないという把握によって依存を「屈辱的あり方」として再定義する(中西新太郎「『自立支援』とは何か」『格差社会とたたかう』青木書店所収参照)。
「屈辱的あり方」に転落するのがいやなら、必死に努力せよと「自立競争」を煽り、「あなたが不幸なのはあなた自身が競争に負けたのだから仕方がないではないか」という「自己責任」論が横行し、「敗者」を納得させることになる

「自立と共生」の「共生」とは、官の支えに頼るのではなく、民間の助け合い、ボランティアでやろうというもので、「自立」と矛盾しない。両方をセットにすることによって、公的支援を切り詰めようということだ。小沢氏や福田氏の「自立と共生」とは、ともに反福祉国家=新自由主義の「小さな政府」のスローガンであり、イデオロギーである。90年代のはじめ、小沢氏は日本型開発主義国家のもとでの自民党の限界を打破すべく、自民党を割って出た。いまの自民党は「構造改革」推進政党の性格を強くもっていて、民意を受けとめて政策を転換する余地を失っている。小沢氏が90年代のはじめに目指したことが、小泉「構造改革」によって自民党で実現したのだ。日本型開発主義国家はヨーロッパの福祉国家とは異なるが、グローバル資本主義化が進むもとで、克服されなければならない新自由主義「構造改革」のターゲットであることをいち早く悟ったのが小沢氏であった。
「自助」に対する「公助」という言葉は、日本では公=官と受けとめられ、「お役所に助けてもらう甘えた考えだ」として侮蔑的に受けとられる。しかし、北欧などでは、公=社会であって、自分たちで仕組みをつくり、それで生活を支えていくのだということが社会的了解になっている(中西新太郎「「しんぶん赤旗」同上」)。

新自由主義イデオロギーは現実の資本主義社会に存在根拠をもっているので、知らず知らずのうちにわれわれを支配しがちである。「意識が存在を規定するのではなく、存在が意識を規定する」。その意味で、イデオロギー批判のためには、資本主義批判=自己批判が不可避である


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