海上自衛隊のイージス艦「あたご」が2008年2月、漁船・清徳丸と衝突し、清徳丸の父子が死亡した事故をめぐる刑事裁判で、横浜地裁は11日、業務上過失致死などの罪に問われた2自衛官を無罪とする判決を言い渡した。秋山敬裁判長は、検察の証拠の収集と法廷での説明が杜撰で、最近はやりの「起訴ありき」の捜査と疑ったようだ。しかし、すでに本件では、衝突事故の原因が、「清徳丸」を右にみながら回避行動もとらず直進した「あたご」にあったことは海難審判所の裁決や防衛省の調査報告も認めてきたことである。検察批判の世論に迎合し、自衛隊員を無罪にしておけば自己の地位は安泰と踏んだのかもしれないが、被害者と加害者をさかさまに描く不当判決である。
イージス艦衝突事故とは、千葉県房総半島沖で08年2月19日、横須賀基地に向かって北上する「あたご」が、千葉県勝浦市から三宅島に向かっていた「清徳丸」に衝突、沈没させ、乗組員親子吉清治夫さん=当時(58)=と長男哲大(てつひろ)さん=同(23)=が行方不明となり、死亡認定された事件である。
防衛省は事故直後から「『清徳丸』を右舷に見ていることからして…イージス艦『あたご』に避航の義務があったが、『あたご』は適切な避航措置をとっていない」という事実を認めていた。海難審判での裁決(09年1月)も、「本件衝突は、あたごが、動静監視不十分で、前方を左方に横切る清徳丸の進路をさけなかったことによって発生した」と断定した。被告の「あたご」の元当直士官らが右方から接近する「清徳丸」の動静を監視し、適切な回避行動をとっていれば事故は起こるはずもなかったのだ。しかし、巨大な自衛艦は小さな漁船を見下し、監視を完全に怠っていた。あたご側は、清徳丸を見失っており、当直士官が、両舷停止(両舷のスクリューの回転を止めること)の号令を発したのは衝突のわずか30秒前であった。
「私たちは常識的にあたごに回避義務があると信じてきた。検察、被告、裁判所と三つの航跡図が出されたが検察が一番、真実に近いと思います」。判決後、静かな口調で語ったのは、事故の真相を追ってこの3年余りを費やしてきた新勝浦市漁協元組合長の外記榮太郎さんの言葉である(「しんぶん赤旗」2011年5月12日)。
それがなぜ―。裁判所はあたご側の見張り不十分や当直士官の申し送り情報の誤りなどを認めながら、殊更、検察の航跡図のデータの誤差、証人の証言と航跡図の食い違いなどを強調した被告弁護団の主張を受け容れた。確かに検察の航跡図には、僚船の船長らの「このあたりに見えた」という証言を、「右7度3マイル」と限定するなど陸の事故と、秒単位や距離の証拠に幅があって当然な海難事故との違いを理解しないまずさがあった。被告自衛官側はこの検察調書の強引さ、弱点に乗じて「距離が合わない」などと主張、最近はやりの検察批判の風潮に乗った裁判所はこれを「証拠として信用できない」と恰好をつけ、「清徳丸は、検察が主張する航跡で航行していたとは認められない」として、検察の主張を全面的に否定した。その上、裁判所は、清徳丸が衝突直前の3分前に「理由は不明だが、右転したことが新たな危険を発生させた」と断定。犯罪で言う動機の説明を抜きにして、死人に口なしをいいことに、なぜか清徳丸が自分からぶつかってきたとしたのである。
検察側の立証に不適切な点があったことは否定できないが、検察批判の風潮に迎合するあまり、海難審判所の裁決や防衛省の調査報告まで勝手に覆すことが許されるわけがない。横浜地方海難審判所の裁決は、事故の7分近く前、両船の距離が約4キロになった時点で、衝突の恐れがある「見合い関係」が生じ、清徳丸を右前に見ていたあたご側に衝突回避義務があったのに、怠ったと述べた。衝突をめぐって、防衛省は09年5月に公表した事故調査報告書で「不適切な見張り指揮や、当直員の連携不足が直接的要因」と断定し、38人を処分した。被告2人だけの責任でなく、日ごろの教育や訓練の不足も含め、複数の人為的ミスが重なり、事故は発生したと認識したのだろう。
判決後、無罪となった被告は「地検は有罪ゲームに勝つだけの組織なのか」と訴えた、という(中日新聞2011年5月12日)。調子に乗るなと言いたい。被告らが「清徳丸」に罪をかぶせたのは、巨大な自衛艦が小さな漁船を見下し、「そこのけそこのけ軍艦が通る」といわんばかりにルール無視を押し通す、軍事優先の体質から出たものでないことを祈る。
今回の判決、検察及び弁護側の主張、また、海難審判も、清徳丸は最後に右転しているのは共通しており、この点の評価は、簡単に見合い関係と断言できないところです。