プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

自立的労働時間制度  プロレタリアと奴隷の違い

2006-11-23 18:24:09 | 政治経済
「労働者の中には、仕事を通じたより一層の自己実現や能力発揮を望む者であって、自律的に働き、かつ、労働時間の長短ではなく成果や能力などにより評価されることがふさわしいものが存在する」、「その労働者本人が、労働時間に関する規制から外れることにより、より自由で弾力的に働くことができ、自らの能力をより発揮できると納得する場合に、安心してそのような選択ができる制度を作ることが、個々の労働者の更なる能力発揮を促進する」――これが「自立的労働時間制度」(日本版ホワイトカラーエグゼンプション)導入のうたい文句である。程度の高い頭脳労働者は、一日8時間、週40時間などという労働基準法の労働時間規制から除外する(使用者は労働者が何時間働いていようが責任をとらない―残業代の支払いはしないし、過労死になっても自己責任である)というわけである。

ここではっきりさせておかなければならないことは、いくら仕事を通じてより一層の自己実現や能力発揮をし、あたかも自律的に働いているかに見える労働者でも、一生食べていけるだけの生産手段や生活手段を持たず、どこかで雇われる(自己の労働力を売る)以外に生存の手段のない者はプロレタリアである。自由で弾力的に働くといっても自分の好きなことができるわけではない。使用者の指揮命令の目的範囲から逸脱することはできないし、働かない自由はまったくない。代替労働者との競争に敗れ、解雇の危険があるからである。

プロレタリアは奴隷とどこが違うか?答「一人の主人の財産である個々の奴隷は、この主人の(財産保全の)利益によって、みじめであってもすでに生存を保障されているが、いわばブルジョア階級全体の所有物である個々のプロレタリアは、だれかが彼の労働を必要とするときにのみ、彼の労働力が買い取られるのであって、なんら生存は保障されない」古代の奴隷は、資本主義の賃金労働者であるプロレタリアより、「生存の保障」でくらべたら、安定しているというわけである。潮流子は言う。「現実をみれば思い当たることばかり。仕事を探してもみつからない人たち。リストラにおびえる現役の労働者。“もう会社にこなくていい”と、いつ告げられるか分からない派遣や請負の労働者」―まことに「生存の保障」の不安にさられる、安あがりで不安定な労働者が溢れている。

資本主義はその利潤追求と競争の仕組みのうちに、法的規制をはずせば、限りなく労働者の労働時間を延長しようとする衝動を内包している。使用者と個々の労働者との労働力売買をめぐる市場取引は決して対等の関係ではない。とりわけ、グローバル資本主義のもとでは、先進国労働者の労働条件は何らかの歯止めをかけない限り、引き下げられる一方である。労働時間規制を除外された賃金労働者には、賃金が高かろうが安かろうが、無権利の果てしなき長時間労働の運命がまっている。

プロレタリアは「生存の保障」という面では、奴隷より劣るが、「奴隷が一個の物として市民社会の一員とは、みとめられていないのにたいして、一個の人格として、市民社会の一員とみとめられている。プロレタリアは奴隷よりも社会のいっそう高い発展段階のものであって、またそれ自身としても奴隷よりは高い段階に立っているのである」(エンゲルス『共産主義の原理』大月書店国民文庫1)
人間らしい労働、よりよい社会を求めて運動する労働者は奴隷ではない。労働力を売っても労働者としの人格を売っているわけではない。労働基準法改悪の真の狙いを学習し、団結して、改悪阻止に立ち上がるから奴隷より高い段階に立っているのである。

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