今日はクリスマス。昨日はイブで家に帰ったら妻と子供たちでブッシュドノエルを作っていた。写真を撮ってくれというので先週子供たちが作ったクリスマスリースと一緒にパチリ。ケーキに使ったチョコレートは濃厚なのにビター感が少なくカカオの香りもよかった。食べやすいチョコレートだった。使ったチョコレートは大東カカオのスペリオール・ヴェルジュというカカオ分66%の製品だった。多分、日本人はヨーロッパ人ほどビターなチョコレートを好まないためかヴァローナだと同じカカオ分でももう少しビターな味わいだと思う。70%のスペリオール・エクアトゥールもビター感が抑えられているし大東カカオの苦味を抑えて香りを引き出す技術はすばらしいと思う。
ところで西洋対日本といえば最近、MKさんのブログで日米のクラシック音楽をとりまく環境について議論していたが、クリスマスにあたり日米の「善」「正義」の感覚の違いについて思いをはせた。「正義」というとハーバード大学マイケル・サンデル教授の「正義」に対する講義が昨今話題らしいが、残念ながらその番組を見ていないし、本も読んでいないのでわからない。
「善」の判断基準は個々によって違うし、日本、アメリカと一くくりにするのはいささか乱暴ではあるが、一定の傾向があるように感じる。日本の「善」という概念は相対する他者に対する「善」であるのに対してアメリカでの「善」は相対する他者に対するというよりも自らの原則、信念、あるいは神に対しての「善」であるように思える。これはアメリカでは基本的に基礎にユダヤ・キリスト教的な概念があるためではないかとも思ったが、それだけではないかもしれない。先日の日中の尖閣諸島における対立を見てみると日本政府は中国の事情を鑑みて「善」をなしたつもりでいたのに中国ばかりかロシアまで日本政府の相手に対する「善」につけこんで自国の利益を図ろうと画策した。日本人にとって相手国の事情をくんで行動するのが「善」と信じていたのかもしれないが、中国、ロシアにとって自国の利益を最大限に図ることが「善」であったと思われる。こう見ると日本の「善」という概念は世界標準から考えると特殊なのかもしれない。島国という事情もあるのかもしれない。
ついこの間、医療関係者向けのホームページで患者やその家族による医療関係者への暴力が某県で問題になっているというニュースとそれに関する医療関係者の意見を読んだ。医療機関ということから患者が相手の場合は警察の介入は適当でないとほとんどの医療機関で考えており暴力の犠牲者は泣き寝入りを強いられ、警察に連絡したり告訴したりする事例はきわめて少ないかほとんどないようだった。常識で考えれば相手が患者だろうと弱っていようと「暴力」は「不善・不正義」であろう。それでもその暴力に対して対抗しないのはたとえ暴力を振るうような人間でも相手の事情を考えてあげることが「善」と考えているからに違いない。きわめて日本的な「善」である。この5~6年、接遇教育と称して医療機関で講師を招いて言い回しやお辞儀の角度その他を医療従事者が学ぶのが流行している。診療技術が悪ければ接遇態度でごまかすしかないだろうし、例え技術があったとしても態度が良いほうがいいに決まっている。ただ、自分の基準となる「善」とは何かを考えず、頭を用いず、言われるがまま上辺だけを導入したのでは相手におもねる事がいいことだと思ってしまい、結果的に「不正義」が横行することになりかねないと思う。
ハーバード大学マイケル・サンデル教授の「正義」に対する講義が話題であるということ、そして前述の2つの例を見てもわかるように日本的な「善」対する概念が揺らいでいて通せない時代が来ているのかもしれない。また自分なりの「善・正義」の概念と行動の原則を確立しないと飲み込まれてしまう時代が来ているのかもしれない。
ところで西洋対日本といえば最近、MKさんのブログで日米のクラシック音楽をとりまく環境について議論していたが、クリスマスにあたり日米の「善」「正義」の感覚の違いについて思いをはせた。「正義」というとハーバード大学マイケル・サンデル教授の「正義」に対する講義が昨今話題らしいが、残念ながらその番組を見ていないし、本も読んでいないのでわからない。
「善」の判断基準は個々によって違うし、日本、アメリカと一くくりにするのはいささか乱暴ではあるが、一定の傾向があるように感じる。日本の「善」という概念は相対する他者に対する「善」であるのに対してアメリカでの「善」は相対する他者に対するというよりも自らの原則、信念、あるいは神に対しての「善」であるように思える。これはアメリカでは基本的に基礎にユダヤ・キリスト教的な概念があるためではないかとも思ったが、それだけではないかもしれない。先日の日中の尖閣諸島における対立を見てみると日本政府は中国の事情を鑑みて「善」をなしたつもりでいたのに中国ばかりかロシアまで日本政府の相手に対する「善」につけこんで自国の利益を図ろうと画策した。日本人にとって相手国の事情をくんで行動するのが「善」と信じていたのかもしれないが、中国、ロシアにとって自国の利益を最大限に図ることが「善」であったと思われる。こう見ると日本の「善」という概念は世界標準から考えると特殊なのかもしれない。島国という事情もあるのかもしれない。
ついこの間、医療関係者向けのホームページで患者やその家族による医療関係者への暴力が某県で問題になっているというニュースとそれに関する医療関係者の意見を読んだ。医療機関ということから患者が相手の場合は警察の介入は適当でないとほとんどの医療機関で考えており暴力の犠牲者は泣き寝入りを強いられ、警察に連絡したり告訴したりする事例はきわめて少ないかほとんどないようだった。常識で考えれば相手が患者だろうと弱っていようと「暴力」は「不善・不正義」であろう。それでもその暴力に対して対抗しないのはたとえ暴力を振るうような人間でも相手の事情を考えてあげることが「善」と考えているからに違いない。きわめて日本的な「善」である。この5~6年、接遇教育と称して医療機関で講師を招いて言い回しやお辞儀の角度その他を医療従事者が学ぶのが流行している。診療技術が悪ければ接遇態度でごまかすしかないだろうし、例え技術があったとしても態度が良いほうがいいに決まっている。ただ、自分の基準となる「善」とは何かを考えず、頭を用いず、言われるがまま上辺だけを導入したのでは相手におもねる事がいいことだと思ってしまい、結果的に「不正義」が横行することになりかねないと思う。
ハーバード大学マイケル・サンデル教授の「正義」に対する講義が話題であるということ、そして前述の2つの例を見てもわかるように日本的な「善」対する概念が揺らいでいて通せない時代が来ているのかもしれない。また自分なりの「善・正義」の概念と行動の原則を確立しないと飲み込まれてしまう時代が来ているのかもしれない。
キノコが「キノコの山」小枝が「小枝」ですね。
日米の善について面白い考え方があります。
現在環境関係の活動として(殆ど徒労なのですが)街中でも山奥でも設置されている、清涼飲料の自販機について、コレを無くすことが出来れば、電力消費が減り、幾つかの原発を減らす事ができるとして無駄と知りつつもコレを訴え続けております。
そこで調べてみると、このように滅多矢鱈に自販機だけがぽつんと設置してある国は、本邦以外全く無いとの事ですね。
現金と商品が入っていて、それが野晒しに近い状態で放置されている現状。
コレでは、「どうぞ皆さん盗んでね」と言わんばかり。
他国では絶対考えられないそうです。
本邦は治安が良いというより、他人を信じる事が当たり前の国なんでしょうね。
昨今物騒になったと云っても自販機が野晒しになっている間は安心しましょう。
さて、医療関係のおはなしです。
昔が3つ以上付く頃、現在と違い医療機関は患者に対し、「病気や怪我を治してやるからな」と云った、いわゆる「上から目線」で患者を捉えていたように思います。
亡父が脳梗塞で倒れ、リハビリのため入院させた病院で患者を「患者さん」では無く「患者様」と呼び、患者名も様を付けて呼んでいて、お客様として接していたことに驚いたことがありました。
現在では何処の医療機関でも患者に対し、同様な接し方をしていますが、当時は珍しいなと思っておりました。
昨今の医療関係者と患者とのトラブルに関しても、逆に医療機関を単なるサービス業と捉えた患者側の、行き過ぎた権利の主張があるのではないでしょうか。
いろんな主張があるのでしょうが、やはり昔の用に、教育者と医者は「師」であり、「三歩さがって師の影を踏まず」的な方が良いのではと考えます。
もちろん「師」と仰ぐからにはそれなりの人物であって欲しいのですが(笑)。
うゎー長くなっちゃった!ごめんなさい。
医療のことですが、日米(とはいっても自分の米は10~15年前ですが)間で比べると日本はアメリカと比べ色々な意味で医療関係者の説明は丁寧で細かいと思いました。でも、丁寧な説明にもかかわらず日本の患者はアメリカ人患者と比べ同じような説明を何度でも要求した上、その場で決定できないことが多いようです。つまり、論理的に説明すれば理解してくれ、決断が早い人がアメリカ人には多い印象があり、日本ではいくら論理的に説明しても混乱してしまい、決定できない人が多い印象があります。しかし日本人にインテリジェンスが高い人が多い印象はあります。
自分はアメリカからの帰国子女で大人になってからアメリカに再度行ったのでその経験から感じたことですが、アメリカでは精神的に混乱することはよくないことであり、そのような片鱗を見せず人の力を極力頼らず、速やかに決定をする訓練(要するにタフ)を幼い頃から受けているのに対し、日本では自分をさらけ出して人に甘えても悪い印象はさほどなく、はっきり物事を言わず「あいまい」にしておくことが良いことだ、という教育を受けているためではないかと思います。権利の主張は日本人よりアメリカ人のほうが強いと思いますが、権利の主張をするのに日本の病院で暴力に訴える人が多いというのはこれをしても許されるだろうという一種の「甘え」があるのかもしれません。それにアメリカだと大学病院内では拳銃を持った警官が歩いていますからいくら患者でも暴れれば身の保障はありませんから。
ちょっとまとまりが悪いようですが、まあ、こんなところで。