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後発メーカーとしてのDanelectro

2016-07-06 20:16:14 | Dano Column
エレクトリック・ギターに限ったことではないのだが、アメリカのものづくりを見てみると、手仕事をよしとする中世から続くクラフトマンシップはヨーロッパからの移民によって受け継がれていて、リッケンバッカーやグレッチといったメーカーやディアンジェリコのようなルシアーにその精神を感じることができる。その一方で機械にできることは機械に任せ、規格を揃え、シンプルな構造で職人芸を必要とせず、効率的に誰でも組み上げることができるという生産システムが発達し、それによって誰もが安く製品を手に入れることができるという「大量生産、大量消費」が実現していくというわけだが、こうしたシステムの中で生まれたのがダンエレクトロということになるだろう。

それでは蛇足ながらギブソンやフェンダーはどうなのかといえば、廉価なものから一流クラフトマンによるカスタムメイドまでを幅広く取り揃え、大手メーカーとしてあらゆるニーズに応えている。

こんなふうにメーカーの立ち位置を見てみることで、それぞれの特徴が浮かび上がってくるのを確認したところで本題に入ることにする。

ダンエレクトロの製品といえば、レトロでかわいらしいデザインが「売り」ということになっている。現在から見れば、1969年にいったん幕を下ろしたダンエレクトロに対してレトロという表現は妥当であるだろうし、1999年頃にダンエレクトロが復活したのも、当時のギター業界のレトロスペクティブな流行の中で起きたことであるわけだ。しかし、忘れてはいけないことは、1947年に、ということはつまり、フェンダーと同じ年にアンプメーカーとして創業したダンエレクトロが最初のエレクトリック・ギターを開発、製品化したのは1954年のことであり、このときにはギブソンのレスポールもフェンダーのストラトキャスターもすでに世に出ていたということだ。

現在にあってもエレクトリック・ギターを代表するモデルが未だにレスポールとストラトキャスターであることを踏まえれば、エレクトリック・ギターの歴史は1954年頃には一つのピークをすでに迎えていたといっても過言ではないわけで、ダンエレクトロはそのピークの後にギターの開発・製造を始めた後発のメーカーということになるのである。

ダンエレクトロにとって幸いだったのは、アンプメーカーとしてすでにシアーズと取引があり、その販路を持っていたこと、そしてシアーズにはジョセフ・フィッシャーという優秀なバイヤーがいたことだ。また、創業者のネイサン・ダニエルがジョン・ディアンジェリコのようなルシアーと友人関係にあったことと、そして法螺吹きではあるが(であるがゆえに、というべきか)豊かな発想力を備えた発明家気質のスタジオ・ミュージシャンであるヴィンセント・ベルと協力関係を築けたことも大きい。

ダンエレクトロはエレクトリック・ギターの後発メーカーとして新たにマーケティング戦略をしなければならなかったが、それはつまり、プロミュージシャンではなく、初心者や子供をターゲットに廉価なギターを販売するということであった。シアーズではすでにシルバートーンというブランド名で廉価なギターを販売していたが、そこに製品を供給していたメーカーはハーモニーであり、ケイであり、日本のテスコなどであった。当時シルバートーンのギターで一番売れていたものはハーモニー製のアコースティック・ギターでH605というモデルであった。ジョセフ・フィッシャーはネイサン・ダニエルにH605と同じように初心者向けの低価格のエレクトリック・ギターをつくることはできないかと尋ね、それを引き受けたネイサンが生み出したもの、それがアンプを内蔵したケースにギターを収納することができるという発想の「アンプ・イン・ケース」モデルであった。



このほかにもニッチを狙ったモデルの製品化がなされた。通常のギターを1オクターブ低くした6弦ベース、通常のギターと同じサイズの15フレットまでしかない4弦ベース、マンドリンの音域をカバーした31フレットのギター(ギターリン)などなど。その中で、ヴィンセント・ベルと協力しながら開発した12弦ギター「ベルズーキ」(ブズーキをモチーフにしたティアドロップ型のボディを持つ)や独自に開発したブリッジで弦を点ではなく面で支えることでシタールに似た倍音成分を発生させ、それを電気的に増幅することができる「エレクトリック・シタール」はダンエレクトロを象徴するモデルとなっている。

ダンエレクトロはともすれば奇妙なデザインだったり、使い道が良くわからなかったり、そのようなギターを製造した変態的なメーカーとされることも多いのだが、実際に製造に関わった人たちはそんな思いで製造したわけではなかったはずだし、他のメーカーが考えたこともない、ギターという楽器の新たな可能性を追求した結果、そうなってしまったというだけのことである。

例えばメゾナイトをギターのトップ材に使用するということについても、このことを単にコストカットのためとしか見ないのはあまりに一面的な見方であって、メゾナイトを採用した背景にあるのは、ナショナルがエアラインやスプロというブランドで製造したレゾグラスをボディの材にしたギターや、マキャフェリのようにプラスティックをボディの材にしたギターと同様、当時の新素材を使ってつくられたギターであるという側面があったことに気がつけば、ダンエレクトロはむしろモダンで未来志向的であろうとしていたことがおのずと理解されるだろう。

「だのじゃん」的にはダンエレクトロが潜在的に持っている可能性を未来へ向けて開いていくことがその商標権を持っている企業の義務だと思うわけで、モズライトのコピーモデルなどをつくっている場合ではないだろうと思うわけで。

あらためて「ビザール本」

2015-11-18 17:17:28 | Dano Column



リットーミュージックの「60’s BIZARRE GUITARS」は、それまで粗悪品と考えられ、顧みられることのなかった60年代の日本産エレクトリック・ギターを大量に集め、整理した。インターネットが普及する前の、ある意味それゆえに、と言うべきか、地道で丁寧な取材により、質・量ともに充実した内容となっている。「ビザール・ギター」という新たなカテゴリーも定着し、この本をきっかけにビザール・ギターの虜となった者も多い。

「だのじゃん」的にも、この本はダンエレクトロについて多くのページが割かれていて、資料として貴重なものである。例えば、カワイのギターを製造していた遠州工芸の杉浦陽吉氏、田中恒太郎氏のインタビューの中で、1967年の7月にダンエレクトロの工場を訪問したことが語られていたり、デヴィッド・リンドレーのインタビューでもテスコの話が大半ながらダンエレクトロについても触れられていたりする。

また、テスコ・デル・レイ氏によるダンエレクトロの年代記的な記事、宇賀田裕氏によるロングホーンの仕様変遷に関する記事、あるいはダンエレクトロの創業者ネイサン・ダニエルやその協力者でもあったヴィンセント・ベルへのインタビューなど、記事量が他のメーカーと比べても多い。その理由の一つとしては、当時、スティーヴ・ソーストやジム・ウォッシュバーンらによって結成されたダンエレクトロ・クラブがあり、その会報的なものとして「THE FEVER」が発行されていたことが挙げられるだろう。利用できるテキストが他のメーカーよりも多かったというわけだ。おそらくは1980年代後半くらいからアメリカのギターマニアの間でダンエレクトロのブームのようなものがあったのだろう。トラヴェリング・ウィルベリーズの「End of the Line」のプロモーション・ヴィデオがやたらダノ度の高いものになっているのもその反映なのかもしれない。

この本が発行されたのは1993年3月というわけで、すでに20年以上も前のことになるのだと、今さらながらに驚いた。古書価も高く、数年前までは復刊を望む声も多かったように記憶しているが、ビザールギター・ブームが終焉して久しい今となっては、例え復刊したとしてもそれほど売り上げは見込めないだろう。とはいえ、この本の価値は未だに失われてはいない。

ピックガードデザイン試論

2015-08-30 18:19:02 | Dano Column
ギターについているピックガードは文字通り、ボディの塗装をピッキングから守るためのものであるが、それだけにとどまらず、様々な素材やユニークな形状によって装飾的な役割を担うこともあれば、ギターの見た目の印象を決定づける「顔」としての役割を担うこともある。



ダンエレクトロのショートホーンモデルのピックガードも他にはないユニークな形状を備えている。この形こそがダンエレクトロをダンエレクトロたらしめていると言っても過言ではないわけだが、このピックガードの形が一体どこから来たのか、そのデザインの源泉は何か、というのが「だのじゃん」的に未だに解けない謎なのである。



謎は謎として、改めてダンエレクトロのギターを眺めてみると、そのボディの黒とピックガードの白とのコントラストは陰陽太極図を思わせるが、ネイサン・ダニエルが道教に関心を抱いていたというような事実はないわけで、これは単なる偶然に違いないと思われる。



また、その曲線は雲形定規のようにも見え、そのものズバリのテンプレートがあったりするのではないかと思ったのだが、ネットの画像を探しても当たらずとも遠からじ、といった感じであった。



ボディとピックガードの曲線の重なりという面から見れば、同時代の自動車のボディとフェンダー部分の曲線の重なりと通じる部分があるような気もするが、気がする以上の決め手には欠けるのがもどかしいところである。

ショートホーンのピックガードは一般に Seal(アシカ)ピックガードと呼ばれている。その形状がアシカに見えるからだが、アシカやイルカの流線型的な体型は、これまでも様々に造形的なモチーフとなってきた。例えばロイ・スメックのウクレレにはサウンドホールがアシカの形をしたものがある。



そもそも弦楽器にはヴァイオリンに代表されるようにf字のサウンドホールが施されていて、普通は具象的なものからそれが抽象化されていくのであるが、この場合は、すでに抽象的なf字からアシカやイルカのような具象へと逆に進んでいくというわけで、このような、生物的・有機的な曲線を導入するアール・ヌーヴォー的バイオモルフィックな発想がダンエレクトロのデザインの源泉の一つであると考えることはできるかもしれない。

これらのことは要するにアール・ヌーヴォーからアール・デコへというデザイン潮流の変遷の中にあって、ダンエレクトロもそれらに影響を受けながらギターのデザインをしていたということを示すものではあるのだが、1950年代アメリカの工業製品であればそれは当然のことでもあるわけで、何ら新しい視点を与えてくれるものではないのである。

そんなわけで、まだまだあてどない思索の彷徨は続くのである。

過去と現在

2015-07-07 21:24:37 | Dano Column


在りし日のダンエレクトロの社屋の写真については以前記事にしたことがあるが、最近になって、その現在の姿をおさめた画像がフェイスブックのタイムラインに飛び込んできた。建物自体解体されて、すでにこの世には存在しないものと勝手に思っていたもので、意外にもほぼそのまま残っていることに驚く。


リチャード・ヘルに倣いて

2015-03-23 23:04:08 | Dano Column
ダンエレクトロのベース3412の弦交換をしようと思い立った。手に入れてから一度も交換したことがなかったからだ。ダンエレクトロのベースにはラベラのLB760-FDが最適なので今回もそれに張り替えることにしたのだったが、ブリッジを改めて見てみるといつもと様子が違うことに気がついた。弦のボールエンドを引っかける溝の部分が削られ、三角に拡げられていたのだった。もちろんこれには理由があって、普通のベース弦というものはボールエンドも大きく、弦自体も太いのでこうした加工をしたほうがいい場合もある。

しかし、ラベラの場合はダンエレクトロ用につくられた弦であり、弦自体も細いし、ボールエンドも普通のギターと同じくらいなので、こんな風な加工をされてしまうとボールエンドが引っかからないということになってしまう。折り曲げてブリッジの下にもぐらすようにすれば引っかかるかと思いやってみると、手で引っ張るくらいなら大丈夫だったのだが、ペグで巻き始めて張力が高まってくると見事にはずれてしまった。

こんな風にブリッジを加工した前のオーナーを私は呪詛し、口汚く罵ったりもしたが、ラベラの弦をこのままオシャカにするわけにもいかないので、なんとかならないかとあれこれ考えをめぐらせていると、ふとボールエンドに安全ピンを通せばうまくひっかかるのではないかと思いついた。このアイデアは不意に浮かんできたものではあるのだが、おそらく潜在的にはリチャード・ヘルのおかげなのだろうと私は思っている。リチャード・ヘルはテレヴィジョンの頃にこのダンエレクトロの3412を使っていたし、リチャード・ヘルといえばパンク・ファッションの元祖であり、ガーゼのシャツと安全ピンというわけだ。





そんなわけで、安全ピンを通してみたところ、弦を無事に張ることができた。ギターと違って、ベースの弦はそれほど張り替えることもないので、しばらくはこのままでいけると思う。もちろんオリジナルのベース用ブリッジが手に入ればそれが一番いいので、これからebayを探し回る日々が続きそうな予感。

Making Masonite Guitars

2015-02-02 22:45:52 | Dano Column


この本は文字通りメゾナイトが使われたギター、つまりはダンエレクトロのギターの作り方を説明した本である。
著者はヤン・ファン・カペレというオランダのギター職人であるが、そういえばオランダのビート・バンドでは意外にダンエレクトロの利用率が高かったような記憶があるので、ヤンさんにとってもダンエレクトロは昔から馴染みのあるギターなのかもしれない。

ヤンさんは安い材料と簡単な工具でつくることができるダンエレクトロのようなギターを題材に、ギター製作に関わる様々な秘密を惜しげもなく明かしてくれている。このことは「良い材を使って良いギターをつくる」というギター職人の一般的なイメージとは異なっているが、ヤンさんは安い材でも良いギターをつくることができるのが良い職人なのだということを、この本を出すことで主張してもいるのである。

中を開くと丁寧に書かれた手書きの文字とイラストが素晴らしく、眺めているだけでも楽しい。
しかしヤンさんは言うのだ、「夢見ることをやめ、(ギターを)つくり始めよ!」と。

   

JAVACA Luthierのサイト

ジミー・ペイジの功罪

2014-12-21 23:12:14 | Dano Column
このブログの「動画で楽しむDano」では130人ほどのダンエレクトロ・プレイヤーを紹介しているが、多くの人々にとってダンエレクトロといえばいまだにジミー・ペイジなのである。それは彼が世界的に有名なギタリストであるからだが、ダンエレクトロの演奏法について極めて理にかなったやり方を発見したからに他ならない。

ジミー・ペイジがダンエレクトロを手にしたのは、シド・バレットが使っているのを見たことがきっかけだったとのこと。いくつかのインタビューで、シド・バレットについては「素晴らしいひらめきに満ちた天才」と発言しているし、いずれにせよジミー・ペイジがシド・バレットから大きな衝撃を受けたことは確かで、ヤードバーズ時代に丸いミラーをテレキャスターに貼っていたのもシド・バレットを真似してのことであっただろうし、シド・バレットが使っていたダンエレクトロは前衛的で実験的なサウンドを生み出す魔法の杖のようなものに見えたのかもしれない。



ジミー・ペイジがダンエレクトロを使い始めたのはいつの頃からかといえば、すでにセッション・ギタリスト時代にそれを演奏している写真が残っている。ヤードバーズ時代ではジェフ・ベックが脱退した後、「ホワイト・サマー」をステージで演奏するためにダンエレクトロを使用した。この曲はいわゆるDADGADチューニングで演奏される曲で、ジミー・ペイジがフォーク・クラブに足繁く通っていた時期にアン・ブリッグスやバート・ヤンシュの影響を受けて出てきたものである。スタジオ盤ではアコースティック・ギターで演奏されているが、ステージではダンエレクトロが使用された。「ホワイト・サマー」はレッド・ツェッペリンでも引き続き演奏されたが、そこでもやはりダンエレクトロが使われた。ダンエレクトロを変則チューニングで演奏すること。これこそがジミー・ペイジが発見した理にかなった活用法なのである。

ダンエレクトロのオリジナルはそのブリッジ構造ゆえ、チューニングの際に弦を1本ずつ合わせることができないという弱点があった。現行品では金属製の6連サドルやバダスブリッジを搭載したモデルがあり、チューニングの問題をある程度克服することができるようになったが、ジミー・ペイジはこの問題に対してはDADGADのような変則チューニングにしたり、スライドバーで演奏したりすることでうまく回避することに成功した。さらに「ホワイト・サマー」や「カシミール」のようなオリエンタルな雰囲気の楽曲においてはちょっとしたピッチのずれがかえってそのサウンドに神秘性を与えることにもなった。

この発見はジミー・ペイジの大きな影響力と相俟って、ダンエレクトロは民族楽器的なアプローチをするもの、しなければいけないものという先入観を与え、その呪縛に多くの人がからめとられてしまったことは否めない。ダンエレクトロ自体がエレクトリック・シタールやベルズーキのように見た目が民族楽器的なエレクトリック・ギターをいくつかつくっていたということもこの呪縛をますます解きがたいものにしたのかもしれない。

ダンエレクトロのような楽器さえへヴィでラウドなサウンドの中に生かしていくジミー・ペイジの素晴らしいひらめきが、それゆえに多くの人を先入観でがんじがらめにしてしまう。ジミー・ペイジの功罪はこんなところにあったと思う。

必要は発明の母

2014-10-08 20:57:06 | Dano Column
ポップ・ミュージックに初めてシタールが使われたのは1965年、ビートルズの「ノーウェジアン・ウッド」だといわれている。彼らが主演した2作目の映画である「ヘルプ!」にはインド料理店のシーンがあるのだが、そこで演奏されていたシタールにジョージが興味を持ったことがそもそものきっかけだった。

このシタールの導入について、完成された楽曲として公表したのは確かにビートルズが最初なのだが、それよりも先にレコーディングで使用したのはヤードバーズだったという話もある。さすがにそこはイギリス、映画に出てきたようなインド料理店も数多く存在し、シタールを演奏できるインド人など実はそれほど珍しいというわけでもなく、ラジオではインド音楽を放送する番組も制作されていた。こうしたなか、シタールを導入してみたら面白そうだと考えたミュージシャンも当時少なからずいたということなのだろう。

ともあれ、ビートルズがシタールを導入したことの影響は大きく、ローリング・ストーンズやキンクスなど他のグループも次々とシタールサウンドを取り入れるようになり、それらはやがて「ラーガ・ロック」と呼ばれる大きな潮流となっていった。さらにモンタレー・ポップ・フェスティヴァルやウッドストックにおけるラヴィ・シャンカルのシタール演奏が当時のロックミュージシャンやロックファンに与えたインパクトは計り知れない。

このようにシタールサウンドが広く受け入れられた背景には1950年代のビート・ジェネレーションと呼ばれた人たちの存在があったと思われる。彼らは西洋の物質文明を否定し、老荘思想や仏教などの東洋的な思想や自然観に共感したが、こうした彼らの存在は1960年代後半のヒッピームーヴメントの先駆けであり、当時の若い世代が東洋的なものを受容するための意識の変化を準備したと言えるだろう。

この1960年代に多忙なセッション・ミュージシャンとしてあっちこっち飛び回っていたヴィンセント・ベルは、「ラーガ・ロック」流行のさなかにあってシタールを演奏する仕事も増えてきたのだったが、彼にとってシタールはとても面倒な楽器だった。チューニングも面倒、壊れやすい、場所を取るので保管に困るといったことだけでなく、直接床に座って弾かなければならないのがつらかったようだ。

「必要は発明の母」というわけで、そこで文句ばかり言っているだけでなく、なんとか問題を解決するべく工夫をこらすのがヴィンセント・ベルの面白いところ。彼はギターと同じチューニングで、ギターと同じように演奏しながらもシタールの音を出すことができて、ホーンなど他の楽器に負けないよう電気的に増幅できるものをということで、1961年のベルズーキ以来関わりのあるダンエレクトロとともにエレクトリック・シタールを開発してしまったのであった。このような、ギター自体に手を加えて音を変えるというのは当時の発想で、今ならモデリングやシミュレーターのような感じでソフト的にやってしまうところだろうけどね。

社屋の写真

2014-07-13 17:27:29 | Dano Column


Doug TullochのFacebookページ「DANELECTRO GURU」に、おそらくはダンエレクトロの社屋と思われる写真がアップロードされている。入口のところに駐まっているバンは車種がわからないのが残念だが、ドアのところにダンエレクトロのロゴが確認できる。

ダンギターズのサイトにアップされている社屋設計時のパースと比較してみても、建物の全体的な構造や入口のところの植え込みなどが一致しているので、まず間違いないだろう。



このような写真を眺めていると、いつしか想像は時空を超えて、ネイサン・ダニエルの息吹きのようなものさえ感じられ、何やら気分が高揚してくるのだが、それと同時に今は失われてしまった夢の跡であるこの写真に、いいようのないせつなさも感じてしまう。

ダンエレクトロの首

2014-04-05 22:57:39 | Dano Column
    

ランディ・ローズの「ポルカドットV」のネックがダンエレクトロだということはよく知られている。エドワード・ヴァン・ヘイレンもその初期にはダンエレクトロのネックがついたギター(通称「スター」)を使っていた(ESPの「ランダムスター」はそのコークボトル・ヘッドの形状までコピーした)。

この二人がダンエレクトロのネックを採用したのはなぜか、そのことにどんな理由があるのか、「だのじゃん」的に以前から気になっていたのである。

調べてみると、知りたいことのほとんどは以下のサイトに出ている。
http://www.premierguitar.com/articles/the-guitars-of-randy-rhoads-1

このサイトではランディの「ポルカドットV」を製作したカール・サンドヴァルが当時の思い出を語っている。この人はエディーの「バンブル・ビー」や「メガゾーン」の製作もしたので、今回の私の疑問を解消してくれる、いわばキーマンということになるだろう。

そもそもの発端はランディがジョージ・リンチと知り合ったことから始まったそうだ。二人はギターやアンプのことなど語り合っていたらしいのだが、あるときジョージがVシェイプのギター(これもネックはダンエレクトロ)を持ってきた。それはギブソンのフライングVとは違い、シングルコイルピックアップとトレモロアームのついた、ギブソンとフェンダーをミックスしたようなものであった。これを製作したのがカール・サンドヴァルその人であり、このギターにランディは興奮さめやらず、ジョージを介してランディはカールと知り合うこととなったのである。

カールはフェンダーやシャーベルに在籍したこともあるクラフトマンで、若い頃からダンエレクトロのネックを使ってギター製作をしていたという。ダンエレクトロのネックは安く手に入るということもあるが、どうやら指板がフラットだということが気に入った一番の理由のようだ。おかげで弦高をできるかぎり低くできるし、それによるチョーキング時の音詰まりもないというわけだ。

エディーの「フランケン」も自分で指板をフラットに加工したわけだから、「スター」でダンエレクトロのネックを採用したのもカールと同様の理由からだろう。ランディもクラシックギターの先生になりたいと思うくらいだから、フラットな指板を好みそうだ。
そのほかの理由として考えられることは二人ともそれほど手が大きいわけではなさそうなので、フェンダースケールより短いダンエレクトロのほうが手になじんだのかもしれない。

フラットな指板はテクニカル系のギタリストに好まれるが、その源流にダンエレクトロのネックが存在しているということがとても面白い。



ちなみに「ポルカドットV」のネックはドルフィンノーズと呼ばれるヘッドを持つタイプで、その下の部分に木材をつぎたしてやじりのような独特のヘッドにしている。