daisukeとhanakoの部屋

わが家の愛犬 daisuke(MD、13歳)とhanako(MD、6歳)の刺激的仙台生活

「春を恨んだりはしない」  池澤夏樹

2013年03月30日 14時46分00秒 | 地震

 

あの日、私たちは天に叫び、地に泣いた。

 

2年経った今日、東京ではあの震災はほぼ「終わったこと」になりつつあるらしい。

仙台にいる自分でさえ、あの日を思い出さない日もある。

時間がたつほど、被災地から離れるほど、記憶が薄れるのは仕方がないことだとは思う。

しかし・・・

 

震災の報道で日本のメディアは一切遺体を映さなかった。

津波のライブ中継では、波にのまれる人と車が映ったらしいが、後の映像ではそれは跡形もなくなっていた。

大量に出版された震災本には、瓦礫はあっても人は映っていない。

それは死者に対する礼儀だったとしても、極めて不自然だった。

 

テレビ局、出版社には遺体を修正する専門の係りがあるという。

それは本当のことを伝えていると言えるのか。

 

盗人は家財のすべてを持っては行かない。

火事だって燃えたもの、燃え残ったものはそこにある。

津波の酷さは、建物も人も想い出も、そこにあるもののすべてを押し流したことだ。

 

泥の中にアルバムがあり、ランドセルがあり、人間が手だけを出していた。

ガスボンベが音を立てて噴出し、車の中、家の中ではたいてい人が亡くなっていた。 

木の上にくの字型の遺体があった。

 

消防、警察、自衛隊、医療者、検視医、役場関係者、遺族、葬祭業者、解体業者は無数の遺体を見た。

そこは異界であり、テレビ、写真が報じたものとは別の世界だった。

 

被災地では何よりも先に遺体が収容された。

ときには生存者の救出より優先された。

それは死に対する畏れであり、生き残ったことの後ろめたさである。

 

波に巻き込まれた人、家族を失った人、遺体を見た人、見なかった人。

だからそういう人たちの間には見えない壁が出来ただろうと考えていた。

 

 

 

 

その春、桜は慟哭の中、いつものように咲いたが、いつものようには美しいと思えなかった。

あと何回見られるかと数えてきた花が、薄いベールをかぶっているように感じた。

 

しかし昨年は、桜はやはり美しいと思えた。

心が以前と同じように戻って来たのだろう。

それに比例して震災を思い出すことが少なくなった、まだ苦しんでいる人がいるのに。

 

自分も忘れ始めているのに、もっと忘れている人は許せない。

震災以来、整理できないでいた思いだ。

 

自分が戸惑ったと同じ感情を、池澤夏樹の「春を恨んだりはしない」の中に見つけた。

この作家は静かな言葉で条理を尽くす。

 

 

 

春を恨んだりはしない -震災をめぐって考えたこと-  池澤夏樹

2011年9月11日 中央公論社

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日本のメディアは死体を映さなかった。本当に人が死んでゆく場面は巧みに外されていた。カメラはさりげなく目を背けた。

しかし、遺体はそこにあったのだ。

女川に「仮土葬場」という案内と標識があった。

雨に濡れた地面の下に亡くなった人たちがいる。冷たい地面の中で、その地面と同じ温度になってしまっている。もう生き返ることはない。

あの頃はよく泣いた。あの時に感じたことが本物である。薄れさせてはいけないと繰り返し記憶に刷り込む。

津波の映像を何度となく見直し、最初に見たときの衝撃を辿り直す。

しかし背景には死者たちがいる。そこに何度でも立ち返らなければならないと思う。

遺体の捜索に当たった消防隊員、自衛隊員、警察官、医療関係者、肉親を求めて遺体安置所を巡った家族。たくさんの人たちがたくさんの遺体を見た。

彼らは何も言わないが、その光景がこれからゆっくりと日本の社会に染み出してきて、我々がものを考えることの背景となって、将来のこの国の雰囲気を決めることにならないか。

死は祓えない。祓おうとすべきでない。

さらに我々の将来にはセシウム137による死者たちが待っている。

撒き散らされた放射性の微粒子は身辺のどこかに潜んで、やがては誰かの身体に癌を引き起こす。

ういう確率論的な死者を我々は抱え込んだわけで、その死者は我々自身であり、我々の子であり、孫である。この社会は市の因子を散布された。

放射性物質はどこかに落ちてじっと待っている。我々はヒロシマ・ナガサキを生き延びた人たちと同じ資格を得た。

今も、これからも、我々の背後には死者たちがいる。

 

震災以来ずっと頭の中で響いている詩がある。

ヴィスワヴァ・シンボルスカの「眺めとの別れ」。

その最初のところはこんな風だ・・・ 


またやって来たからといって

春を恨んだりはしない

例年のように自分の義務を果たしているからといって

春を責めたりはしない

わかっている わたしがいくら悲しくても

そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと 

 

これはシンボルスカが夫を亡くした後で書かれた作品だという。

この春、日本ではみんながいくら悲しんでも緑は萌え桜は咲いた。

我々は春を恨みはしなかったけれども、何か大事なものの欠けた空疎な春だった。桜を見る視線がどこかうつろだった。

古歌の「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け」を思い出したのは当然の連想だったろう。桜の華やかさは弔意にそぐわない。

 

春を恨んでもいいのだろう。自然を人間の方に力いっぱい引き寄せて、自然の中に人格か神格を認めて、話しかけることができる相手として遇する。

それが人間のやり方であり、それによって無情な自然と対峙できるのだ。

来年の春、我々はまた桜に話しかけるはずだ、もう春を恨んだりはしないと。

今年はもう墨染めの色ではなくいつもの明るい色で咲いてもいいと。 

 


日本の国土は世界でも珍しい四枚のプレートの境界の真上にあり、世界の地震の2割は日本で起こる。

こういう国土で暮らす我々は、自然と対立するよりも「受け流して再び築く」という姿勢を身に着けてきた。


わたしたちは攻撃しない。

わたしたちは執着しない。


意識しないで生きてきたけれど、この姿勢は日本で暮らす必然の知恵、本能に近いものだったのかもしれない。

 


 

池澤さんの文章は静かだ。

私が訪れた被災地も静かすぎて、静寂の音が聞こえるようだった。

3月11日の死。

そして、それから累々と続く死と悲しみ。

これらをすべて忘れないこと。

 

今も、これからも、我々の背後には死者たちがいる。

死をまっすぐに見つめる。

眠りではなく二度と蘇ることのない死を受け入れる。

 

忘れてはいけない。

悲しみの始まりの場所のことを。


忘れない、あの日を、あの人を 11

2013年03月27日 14時46分00秒 | 地震

万石浦を過ぎ、女川第一小学校脇の高台に出ると景色は一変した。

そこは水浸しの荒野だった。

女川の中心部だった場所に車を停める。

 

木造の建物は一軒も残っていない。

破壊された鉄筋のビルが何棟か打ち捨てられているだけである。

 

海中に倒れたままのビルもある。

生涯教育センターには窓から車が入り込んでいる。

車が倒れないようにロープがかけられているが、車を撤去することは難しいのだろうか。

 

4階建ての商工会館は屋上まで水没した。

屋上に逃げた4人の職員がさらに給水塔に昇り、胸まで水に浸かりながら九死に一生を得た。

 

カーナビが「女川駅」と教える場所には何もない。

駅舎もホームも、レールさえも。一切が何処かへ流失していた。

 

鷲神浜は、Sさんの実家があった場所。

浜は広い更地になっていた。

Sさんの母親は実家から300mも離れた路上で発見された。

 

マリンパルは敷地全体が水没し、海の中に悲しげに立つ。

沈み行くベネツィアのようである。

違うのは、あたりに人影がまったくないことだ。

6mの防波堤は何の役にも立たなかった。

 

 

遠くの高台に女川町立病院が見える。

町立病院は海抜18mに位置するが、驚くことに津波は病院1階の1.9mの高さにまで来た。

女川の津波は地震の僅か30分後に襲来した。

その高さは海抜20.3mに達し、海抜16mの病院駐車場を飲みこんだ。

 

駐車場には多くの供花がある。

はるか遠く、はるか下に海を見降ろす場所である。

ここまで波が来たとは、とても想像がつかない。

病院の掲示には、内科・外科の診療は月~金の午前中だけ、整形・小児科・眼科・皮膚科は週1回、半日だけ、とある。 

 

福島第一原発は5.7mの津波を想定し、海抜10mに建てられた。

そこに14mの津波が来て炉心溶融に至った。

 

女川原発で想定された津波は9.1mだったが、安全を見込んでそれより5.7m高い海抜14.8mの場所に建設された。

しかし地震で大地は1m地盤沈下。

原発は海抜13.8mに下がった。

そこに押し寄せた津波は13m。差引き僅か80cmの差で、女川はオナガワと呼ばれることを免れた。

 

・・・その屍たるや通路に満ち、沙湾に横たわり、その酸鼻言うべからず。

晩暮の帰潮にしたがって湾上に上がるもの数十日。

親の屍にとりついで悲しむ者あり、子の骸を抱きて慟する者あり。

多くは死体変化して父子だもなお、その容貌を弁ずに能わざるに至る。

頭、足その所を異にするにいたりては惨の最も惨たるものなり・・・

 

これは岩手県気仙郡綾里村村誌に書かれた明治三陸津波の記録である。

この津波は、明治29年6月15日、午後8時7分に襲来した。

地震自体は震度2~3と軽度であったことが逆に油断を招いた。

「入浴中の19歳の女性が風呂桶ごと流されたが助かった」と新聞は伝えた。

死者・行方不明者の合計は21,959人。沿岸部の住宅地は壊滅した。

当時にあっても民家を高台へ移動することは不可能ではなかったが、三々五々、元の敷地に家屋が再建され、ついには津波前と同じ集落が形成されてしまった。

 

そして昭和8年の昭和三陸津波で再び大被害を被った。

それは3月3日午前3時に襲来した。

深夜であったため、人々は津波の来襲に気づかず、逃げる方向も何も分からなかった。

生存者は「寝ていたら、いきなり唐紙を破って水の塊が入ってきた」と口々に言った。

震度は5で、地震被害は軽度だったが、津波の被害は甚大だった。

死者・行方不明者合計は3,064人に達した。

 

このとき壊滅した集落もまたぞろ同じ場所に修復され、昨年の震災を迎えた。

人々が同じ場所に家を再建した理由は、先祖から継承した土地への愛着であり、浜に近いことが漁業に便利であったからであり、津波は天の定めとする諦観のせいであった。

 

東日本大震災では死者・行方不明者は、19,185人である。

今度こそ高台移転は叶うだろうか。被災の記憶は一世代と持たないのである。

 

陸(おか)を選んだ自分は助かり、海を選んだ友人は亡くなった。

自分に「生かされる」理由などなかった。

生死は偶然の結果である。

 

女川原発が無事だったのは単なる幸運だった。

女川原発と仙台駅の直線距離は56km、女川原発と石巻駅のそれは僅か17kmである。

波の来方によっては、仙台は「センダイ」に、石巻は「イシノマキ」なっていたかも知れなかった。 

 

 

あの年の桜は涙を吸い上げて咲いた

 

春が来るたび、桜梅桃梨は海辺で繚乱せよ

 

死者を眠らせ 荒ぶる海を鎮めよ


忘れない、あの日を、あの人を 10

2013年03月23日 14時46分00秒 | 地震

・・・自分は偶然に死ななかった。

イモリは偶然に死んだ。

自分は淋しい気持になって、暫く足もとの見える道を温泉宿の方に帰ってきた。

遠く町端れの灯が見えだした。

死んだ蜂はどうなったか。

その後の雨でもう土の下に入って了ったろう。

あの鼠はどうしたろう。

海へ流されて、今頃はその水ぶくれのした体を塵芥と一緒に海岸へでも打ち上げられていることだろう。

そして死ななかった自分は今こうして歩いている。

そう思った。

自分はそれに対し、感謝しなければ済まぬような気もした。

然し実際喜びの感じは湧き上がっては来なかった。

生きている事と死んで了っている事と、それは両極ではなかった。

それほどに差はないような気がした・・・

志賀直哉「城の崎にて」

 

 

石巻のシンボル、日和山に登ってみる。

山から南側を見ると住宅地が丸ごと消えていた。

市立病院など、コンクリートの建物だけが疎らに残る。

日和大橋は津波をかぶったがなんとか耐えたようだ。

津波とは単なる大波でなく、海底から海上までのすべての水の移動だと初めて知った。

今回の地震が放出したエネルギーは阪神大震災(M7.3)の1,450倍で、津波の遡上高は観測史上最大の40.4mに達した(宮古市重茂姉吉地区)。

それにしてもなんという広さに波が来たことだろう。

 

 

山を降り、旧北上川の中洲まで行く。

ここには岡田劇場、ハリストス正教会、石ノ森萬画館、料亭、マリーナなどがあり、石巻観光の中心だった。地盤沈下で中洲の大きさは一回り小さくなった。

160年の歴史があった岡田劇場は、基礎を残して跡形もなかった。

石ノ森章太郎が映画を観に中田町から自転車で通った劇場だった。

ハリストス正教会は明治13年に建てられた白亜の建物である。

木造の建物が川の真中で倒壊しなかったのは奇跡といってよい。 

 

萬画館は浸水したものの建物は無事だった。

現在は休館していて、中を見ることはできない。

全国から来た人たちの応援の書き込みがある。

川の東西をつなぐ内海橋は、押波と引波で上流下流から瓦礫がぶつかり、満身創痍となった。

震災直後は大量の漂流物と遺体が橋に引っ掛かっていて、人々はそれらを乗り越えて橋を渡った。

 

河畔のプロムナードは柵が壊れ、川の水がベンチの下まで来ている。

とてもくつろいで座ってはいられない。

 

南浜町は海も川も近い日当たりの良い住宅街だったが、1年経たずに草原に変わった。

240号線沿いには手作りの慰霊所があり、手を合わせる人が後を絶たない。

海から強い風が吹いて来る。

風が吹くと悲しくなくても涙が出る。

 

門脇(かどのわき)小学校は由緒ある学校だ。

海岸から700mの距離にある。

 

建物は残っているが窓は破れ、壁には焼けた跡がある。

地震後、近隣住民が車で避難してきた。

7mの津波が車を押し流し、校舎に衝突させた。

衝撃でガソリンが発火。100台余りが次々に燃え上がり、校舎に引火、全焼した。

学校には児童もいたが、教員が教壇で橋を作って3階から裏山へ避難させた。

プールには今でも大量の海水が貯まっている。

 

小学校の隣りの墓地では墓が遺骨ごと押し流された。

葬られても死者は安眠を許されなかった。

永遠のことなどないと知れば無常感はつのる。 

 

市立病院は旧北上川、太平洋の両方に面して建ち、思えば危険な立地であった。

ここが機能していれば、石巻赤十字病院の負担は半分になった。

新しい市立病院は海から2km離れた石巻駅前駐車場に再建されることが決まった。

 

日和大橋を越え、女川方面に向かう。

240号線の中央分離帯に巨大な鯨大和煮の缶詰が転がっていた。

タクシーを降りて写真を撮っている人がいる。

ここはちょっとした観光(?)名所になっているようだ。

この巨大缶詰は、「鯨の大和煮」からスタートした木の屋石巻水産のシンボルマークだった。

巨大缶詰には20t以上の魚油が入っていたが、元の場所から300mも北に流された。

缶詰はちょうど中央分離帯の真中で止まったため、交通の邪魔にならず撤去を免れた。

 

岸壁にあった同社は跡形もなくなったが、金華鯖の缶詰が工場跡の泥の中で見つかった。

その缶詰は掘り出されて、避難所の人たちの貴重な食料になったという。

 

女川街道を万石浦まで来た。

地盤が沈下したせいか、海面が上昇し、道路と同じくらいの高さに見える。

万石浦の緩衝作用で津波被害は小さかったが、地盤が80cm沈下した。

場所によっては海岸線が数10m後退した。

海岸では浸水防止用の土嚢積みが行なわれている。

 

かつては防波堤の下に砂浜があり、潮干狩りもできた。

震災後はアサリ採取用の造成干潟も砂州も干出しなくなり、岩礁から貝類が消えた。

満潮になるとマンホールや側溝などから海水が逆流し、地区のほとんどが膝下まで浸水する。

台風と大潮が重なった場合、大洪水が懸念される。

 

 

沿道に「おさかな市場」が復活していた。

かつては女川港のマリンパルにあったが津波で壊滅した。

廃業したドライブインを買い取ってここに再興したそうである。

ホヤ、なめた鰈、鮭、かわはぎ、金華鯖が安い。

ヤリイカが5杯で800円。

 

万石浦沿岸を走るJR石巻線は小牛田~石巻~女川を結んでいたが、現在石巻~女川間は運行されていない。

線路にはロープが張られて立ち入れない。

 

浦宿駅のホームは基礎の鉄筋がむき出しになった。

その下を潮が刻々満ちて行く。

潮は次第に急流となり、見ている間に線路が水没した。

未明、住民は潮が満ちる音で目を覚ますという。

 

昔、浦宿浜の知人を訪ね、この駅で降りたことがある。

知人の消息はここには書かない。

 

JRは石巻線の浦宿駅~女川駅間2.5kmのルートを山側に移転する予定だ。

この駅は廃止になる。鉄筋が錆びても、レールが水没しても、そのまま朽ちて行くしかないのだ。

 


忘れない、あの日を、あの人を 9

2013年03月22日 14時46分00秒 | 地震

野蒜小学校の校舎前には仮設住宅が建った。仮設郵便局もできた。

それ以外にはしかし、銀行、病院、スーパー、コンビニ、理髪店・・・生活に必要な施設の一切がない。

 

校舎の左には凄惨な現場となった体育館がある。

この体育館は避難場所に指定されていて、地震後、児童60人を含む300人以上が避難した。

地震の1時間後、体育館を濁流が襲った。壁を破って突然黒い蛇が入ってきたように見えたという。

児童は全員2階観覧席に避難したが、1階にいた住民の多くが波に巻き込まれた。

30名近くが命を落とし、児童たちはその光景を目の当たりにした。

 

校長は壇上でマイクを握っていたところをさらわれ、観覧席から投じられた紅白の幕につかまって助けられた。

住民からは、「体育館でなく、校舎の2階に避難していれば全員助かったのに」という声が上がった。

 

野蒜小学校から海に向かって200m ほど行くと、仙石線の踏切がある。

ここは私の友人が最後に目撃された場所である。

彼は海が好きで、昭和62年にこの地に転居した。

無線、バイクなど多趣味で、麻雀も強かった。

毎週末、当直室で卓を囲み、麻雀の奥義を伝授された。

授業料は高かった。

踏切に供花をして、合掌。

冥福を祈った。

 

野蒜小学校近くの仙石線踏切

 

野蒜駅は辛うじて外観を残したが、内部を2m超の波が通り抜け、設備は壊滅した。

架線の鉄柱は倒壊。プラットホームは随所でコンクリートが崩落。

線路は捻じれ、砂に埋もれた。

 

駅名表示板には嵯峨渓の美しい写真が使われていたが、コンクリートの土台ごと倒された。

米軍兵士と自衛官が協力してこの表示板を引き起こす場面をニュースで見た。

「Operation Tomodachi」である。

 

津波は浅瀬から砂を巻き上げてやって来た。

この地区の溺死者の気管内には大量の砂が入り込んでおり、「溺水」というより「溺砂」という状態だったという。

 

東名と野蒜の間の線路1.6kmは著しい被害を受けた。

JRは3年後に陸前大塚~東名~野蒜~陸前小野の区間を駅ごと500mほど内陸に移設するとしている。

現在の野蒜駅は廃駅と決まった。

待っていても永遠に電車はやって来ない。

電車の来ない駅ほど悲しい風景があろうか。

 

駅構内に菜の花の種を撒く人がいた。

春にはきっと黄色い花がたくさん咲くだろう。

廃墟はやがて花畑となり、昔そこが駅だったことを伝えるだろう。

 

 

野蒜駅

 

東名運河沿いに立っていた道路標識も倒壊したままである。

標識に書かれた「石巻」、「野蒜」、「奥松島」は、どこも大きな被害を被った。

 

明治17年の台風がなければ野蒜港は国際的貿易港として発展し、この辺りは神戸、横浜規模の都市に成長していたはずだった。

東名運河は北上川と松島湾を結ぶ目的で造られたが無用になり、今回津波に襲われた。

歴史の非情を思う。

運河はいまだに瓦礫で埋め尽くされている。

 

東名運河を渡ると野蒜海水浴場に出る。

渚で頭を垂れる人がいる。車は愛知ナンバーだ。

彼が捧げた花束が強風に飛ばされ、砂の上を転がって行った。

 

12月の日暮れは早い。

太陽はすでに山の端に傾いたが、宮戸島まで足を伸ばすことにする。

 

松ケ島橋は本土と宮戸島をつなぐ唯一の命の橋。

現在は通行可能だが、津波直後はこの橋が流され、宮戸島が10日以上孤立した。

自衛隊が応急の橋を架けて重機を投入。瓦礫を除けてようやく橋と道路を修復した。

嵯峨渓観光船乗り場は地盤沈下し、水面下で揺れていた。

 

海に傾き、沈むに任せたビル、一階をぶち抜かれて鉄骨だけになった作業所などが点在する。

応急的に修復されたものの、島の道路は鳥の嘴のように細く、海からようやく顔を出している。

路肩には波が打ち寄せ、ボートで海の中を走っているような錯覚に陥る。

 

 

沈むに任せたビル

 

大高森登山口に到着。

大高森は松島を一望できる山で、松島四大観の一つとされている。

駆け足で頂上に登り、東松島方面を俯瞰した。

松島の島々は緑に見えるが、外洋に面する矢本、野蒜は一帯が土色に変わっている。

津波は松島湾の外側から襲来し、陸地を蹂躙。東名の防波堤を内側から破壊して松島湾内に流れて行ったことが分かる。

 

太陽は西の山に姿を隠した。残照が終われば海から深い闇がやってくる。

急がないと下山できなくなる。

被災地では海岸に幽霊が出るという噂が広がっている。

亡くなった人達が手をつないで月の浜辺を歩いているというのだ。

年末に気仙沼の実家に帰るという知人は、「海岸には行かない、雲丹と蝦蛄は食べない」と言っていた。

 


忘れない、あの日を、あの人を 8

2013年03月20日 14時46分00秒 | 地震

強い寒波が来ている。

今日の最高気温は2℃。

晴れてはいても12月の風は、時に風花を含んで頬を打つ。

年の改まる前に、と思い立ち、慰霊の旅を始めた。

今日は多賀城から北へ、被災地を行ける所まで行ってみよう。

 

栄2丁目交差点に廃車置場がある。

多賀城市内の流失車両がここに集められ、2段積みにされた。

ナンバーが付いたままの車もある。

瓦礫撤去をしているU建設のD君は話していた。

・・・車内で見つかる仏さまは、シートに腰かけた姿勢で硬直しておられる。葬儀屋さんは大したもんですよ。それをマッサージしてまっすぐにするんですから・・・

 

 

栄2丁目の廃車置場

 

Cさんは、3月初めに七ヶ浜に引っ越したばかりだった。

念願の新居が完成したのだ。4月から6歳の長女を亦楽小学校に入れる予定だった。

 

震災当日、Cさんは七ヶ浜の保育園に子供2人を預け、卸町の職場にいた。

地震に驚き、子供たちを迎えに行こうと45号線から23号線に入った。

 

対向車線には車が溢れ、誰もが必死で西を目指していた。

東に向かっているのは自分一人だった。

カーラジオは大津波の襲来を繰返し告げている。

みんな海から逃げて来ている、と分かって、身体が震えた。

前方から津波が押し寄せて来る幻影が見えた(実際、やって来ていた)。

警察官に東行きを止められ、心を残して引き返した。

 

その日は愛子の実家に戻ったが、心配で一睡もできなかった。

翌日、瓦礫を分けて保育園に行ってみると、子供たちが走って抱きついて来た。

保育園は高台にあったので津波が到達せず、保育士たちが一晩園児を守っていてくれたのだった。

 

あの時、無理して保育園に向かっていたら、正面から津波に突っ込むところだった。

新居は小高い場所にあったのが幸いし、あと5mのところで水は止まった。

Cさんが引き返した地点こそ、栄2丁目交差点だった。

 

 

七ヶ浜は冬でも比較的温暖で、夏は海水浴もできるので、別荘を建てる人も多かった。

しかし太平洋に面した住宅地は津波の直撃を受け、見渡す限りの原野になった。

菖蒲田浜海水浴場は堤防より陸側に水がたまって、そこも海のように見える。

 

海水浴場の松林は半分以上が倒れ、砂浜の大部分が海の底となった。

表札だけ残った家のブロック塀に、誰が供えたか、トミカの救急車が置かれていた。

 

 

ブロック塀に置かれた救急車

 

七ヶ浜を一周して塩竈に入る。

JR本塩竈駅も2mの波に襲われた。

昭和の雰囲気を残していた闇市商店街も壊滅状態となった。

ところどころに廃業した店、倒れたブロック塀などを見る。行き交う人も車も少ない。

 

すし哲は営業を再開していた。

親方は、「この歳でまた2000万円を借金した、ネタが地物でなくて済まんな」と苦笑した。

 

田里津庵は無事だった。

牡蛎焼処はプレハブ小屋で営業していた。

 

冬の松島湾は凪いでいる。海は空の青を映して美しい。

多くの島が防潮堤の役割をしたため、松島町の被害は軽微だった。

島のいくつかは崩れて、かつての姿を失った。

 

冬の松島湾

 

仙石線は、仙台~松島~高城町間で運行している。

高城町~矢本駅間が不通で、松島海岸~矢本駅間をバスが代行輸送していた。

仙台から松島まで電車が走っているせいか、観光施設は比較的賑わっていた。

 

東松島市は2005年に矢本町と鳴瀬町が合併して誕生した。

 新しい名称は皮肉なことに、今回の震災で全国に知れ渡った。

 

東名浜は潮干狩りの名所だったが干潟は干出しなくなり、海岸は赤土が露出した。

生態系は大きな影響を免れまい。

津波で裏返しにされた東名駅の鉄路は撤去されていた。

 

海の中に住宅が数軒立っている。

住宅地が海になってしまったのだ。

27号線沿いの野蒜の住宅街はほぼ全滅し、更地と化した。

 

春、一帯の植物は塩害で死に絶えた。

夏になって塩に強い雑草群が立ち上がり、冬が来てその草たちも枯れた。

枯草の中にコンクリートの土台がなければ、ここが住宅地だったことさえ分からない。

 

野蒜の住宅街

 


忘れない、あの日を、あの人を 7

2013年03月17日 14時46分00秒 | 地震

 

U建設に勤めるD君が遊びに来た。仕事の帰りだという。

浦霞の米焼酎持参だ。

D君とは自宅のリフォームを頼んで以来の付き合いである。

彼は日焼けした顔で焼酎を飲りながら喋り続けた。以下はD君の話である。

 

 

ここ数年、不況で仕事が少なかったが、震災後急に忙しくなった。

今の仕事は沿岸部の瓦礫の撤去と損壊した家屋の修繕だ。

仙台市内も折立、緑ケ丘、泉、旭ケ丘あたりの被害がひどいけど、工事は沿岸部優先で後回しにされてる。

 

 

今月は岩沼の海岸で瓦礫撤去をしている。

作業は陽が昇ってから暮れるまで。 土日も無休。

被災地では電気、水道が通ってないし、コンビニもやってないから、水をペットボトルに6リットルとおにぎりを持って行く。

水は飲用以外に、手を洗うのに使うんだ。

 

ウェットティッシュは必須だ。

トイレがないから簡易トイレも持参する。

なんぼ瓦礫の原だって、土の中に仏さまいるかもしれないから、その辺にはできない。

 

今日は水に浸かった家の修繕に出かけた。

門に「危険につき、立ち入り禁止」の札が張ってある。

 

中に入ろうとすると、警官が飛んできた。

「その家は壁に何か所もひびが入っている。余震が来たら危険だから入るな。

入るなら立ち会うから5分で出て来い」と言われた。

結局その家は修繕かなわず、解体することになった。

 

瓦礫の撤去は震災の1週間後から始めた。

その頃は壊れた家を片付けると、ほとんど仏さまがお出ましになった。

津波に流された家の多くは、中に人がいたんだ。

 

流されて行く家の映像見たら、中に人がいると想像してくれ。

テレビでは人が映ってるとこはみな修正されてるけどな。

テレビ局には画像修正を専門にしてる人がいるらしいよ。

人を入れたまま、家は浮き上がって、転がって、瓦礫になったんだ。

 

仏さまはたいてい泥にまみれている。

きれいなのは車の中にいた場合だけだ。

水の中は苦しかったんだべ。

泥は口の中まで入ってて、たいてい目開いてる。

 

仏さまを見つけると、「お願いします」と警察に電話する。

時間が経つと外見では性別も分からない。

警察は着衣と髪の長さで男か女か、推定してる。

 

どなたも水を吸って100kg以上はあるようだ。

身長はともかく、体重は生前とはずいぶん違ってるな。

 

警察と消防が来て、安置所にお連れするまで撤去作業は中断だ。

ユンボもゆっくりゆっくり操作する。

仏さまを傷つけたらまずいからな。

能率は上がらないけど、こればっかりは仕方ない。

ノルマは少しずつ遅れて、結局土日も休めなくなる。

 

震災の3日後、海岸の取引会社を見に行った。

その会社は津波の直撃で跡形もなくなっていた。

どこが道路かも分からず、会社があった場所も判別できなかった。

 

近くでは消防と警察が仏さまに手を合わせていた。

俺たちは2トントラックで行ったので、体育館まで運ぶのを手伝ってくれと頼まれた。

 

その頃の警察は、猫の手も犬の手も借りたい忙しさだった。

俺は、いいっすよ、と答えてトラックの荷台に仏さまを乗せた。

頭は前方に、足が後方になるようにした。

縦に3体を並べて、ブルーシート1枚で全体を覆った。

風でシートが飛んだら大変だから、俺が荷台の一番後ろに乗って押さえて行くことになった。

 

ところが道路には瓦礫があり、ところどころ凹凸になっていた。

段差に来たとき、仏さまが一斉に跳ね上がったのでおれは魂消た。

今でも運転してて段差があると、その光景が浮かぶ。

こういうのをフラッシュバックっていうのか?

 

警官に聞いたら、薬指だけ無い仏さまが珍しくないそうだ。

指どころか手首の無い場合もあるという。

指環とか時計を盗って行く奴がいるということだ。

 

家族を捜す振りして、自衛隊の脇で物色している奴もいるらしい。

盗品を売ってもなんぼにもならないだろうけどな。

 

瓦礫から金属だけ盗んで行くグループもいる。

鉄はキロ10円、銅は600円、アルミは100円が相場だ。

トラックに山盛りに積めば200万になる計算だ。

 

仙石線のレールを売ろうとして捕まった間抜けもいるそうだ。

レールを見たら誰だってJRの物だって分かる。

泥棒だって少しは頭使わないとだめだ。

 

俺は日本人が日本人の物を盗ってるとは思いたくない。

今の仕事は大変だけど、日本のため、郷土のためと、多少の誇りを持ってやってるからな。

 

最初の頃は津波が心配で、ラジオはつけっ放しだった。

でも最近は慣れて来て、ラジオは持って行かないし、津波警報でもいちいち避難しなくなった。

こういう時が危ないんだべな。

 

閖上とか岩沼は高い建物一つもないから、2mの波が来たら殉職だ。

まあ仕事中だったら、瓦礫見物に行って津波に遭った、というほどは恥ずかしくないけどな。

 

最近は暑くなってきたせいか、今までなかった臭いが立ちこめるようになった。

それはヘドロからも、田んぼからも、瓦礫からも湧いてくる。

そういう臭いはテレビでは伝わらない。

 

瓦礫も津波直後よりはずいぶん片付いたけど、4kmも先に海が見えると悲しくなる。

瓦礫だって何にもないよりはましだったかもな。

瓦礫も山の賑わいだ。

 

現場にはアスベストも飛んでるらしくて、会社から防塵マスクを支給された。

あれ着けると暑いし、息苦しいんだ。

でも着けないとおこられる。

 

海岸で作業すると顔と腕が異様に黒くなる。

海の紫外線は強いんだろうけど、それだけではない気がする。

放射能のせいかな。

 

3月15日の雨は放射能が高かったと、今頃聞いた。

俺たちはその頃びしょ濡れで仕事してた。

傘さしては仕事にならないもんな。

 

今何より心配なのは、社長が「原発の仕事を取って来る」と言ってることだ。

社長に「日本のためだ、行ってくれるか?」と言われたら、行きます、と言うしかない。

俺は子供一人だけど、原発に行くなら、その前にもう一人仕込んでおきたいな。

 

 

 

D君は5杯目の焼酎を飲み干すと、帰って行った。 

浦霞の焼酎は珍しい。

浦霞の工場も被害を受け、そこの片付けに行った時にもらってきたものだそうだ。

 

震災から6ヶ月経ち、当初に比べたら被災地もずいぶんきれいになった。

それはD君のような人たちが懸命に働いているからだ。

 

日本人は戦争とか原発事故とかの危機管理は全く不得手だが、瓦礫の片付けは得意だ。

その勤勉さはおそらく瓦礫の最後の一個まで拾うだろう。

 

仙台市は人命救助、瓦礫撤去、遺体捜索を、仙台建設業協会と宮城県解体工事業協同組合に委託している。

それは必ずしもきれいな仕事ではないし、愉快なことでもない。

 

D君のように「国のため、郷土のため」と、誇りと使命感で取り組んでいる現場の人たちに心からエールを贈りたい。

 


忘れない、あの日を、あの人を 6

2013年03月16日 14時46分00秒 | 地震

あのとき

これは大きいな、と感じたが、2分くらいで終わるだろうと思った。

しかし、揺れは収まるどころか、上下方向から東西方向に変わり、ますます激しく、振幅も大きくなった。

とっさに左手でパソコンを、右手で本棚を押さえる。

電気が消えた。

・・・地震が来たら、まず火を止めて、出口を確保する・・・

普段はやっているが、今回ばかりは一歩も足が出ない。

棚を押さえているというより、棚に掴まってようやく立っている。

頭の上を掛け時計が飛んで行った。

窓から見える電柱が右に左に大きく揺れている。

耐震性は十分のはずのビルだが、コンクリートの壁がしなり、繋ぎ目がギシギシと音を立てる。

本棚の突っ張り棒が外れ、窓が平行四辺形に歪んだ。

誰かが邪悪な意思をもって、このビルを引き倒そうとしている。

倒壊する、と思った。

 

震源はどこなのだろう。

犬たちはどうしているだろう。

怖くて走り回ってるかな。

(子供のいる)東京と山形はだいじょうぶかな。

大事なものは貸金庫に入ってることを教えてなかった。

銀行印がどれか、実印がどれか教えてなかった。

もう少し整理しておけばよかった。

いろんな思いが通り過ぎて行く。

 

揺れは本棚と壁の物を落とすだけ落とすと、突然止まった。

居合わせた誰かが、ああ止まった、と言ったが、自分ではまだ揺れていると感じていた。

30分も経ったように思えたが、後日の新聞に、揺れは7分とあった。

 

 

 

津波が来たのが日のあるうちで良かった。

その日の月齢は5.8で、晴れていても暗い夜だった。

停電で、しかも夜だったら、沖に襲来する津波も見えず、逃げる方向も分からない。

闇の中から轟音が迫ってくる恐ろしさはどうだろう。

犠牲者は何倍に増えたことか。

 

映像で見た津波は、何匹もの黒い龍が暴れ、咆哮しているように見えた。

容赦のない凄まじい破壊力に、神の怒りを感じ、震えた。

 

神はなぜその激しい怒りを東北に向けたのだろう。

科学を弄び、全能と過信し、我慾に走ったというのか。

日のある時間にしてくれたのは、せめてもの慈悲だったというのか。

 

龍が通った跡に立ち、答えのない問いを繰り返す。

理由があるなら、龍は必ずまたやって来るだろう。

瓦礫の原の泥だらけのランドセルを見れば、その容赦のなさに身震いするほかない。

 

  

 


忘れない、あの日を、あの人を 5

2013年03月15日 14時46分00秒 | 地震

  

3月某日、パン屋の行列に並んでいたらMさんが前にいた。

行列は10m以上あり、店内に入れるまで、あと20分はかかりそうだった。

私が、(地震は)大丈夫でしたか?、と声をかけると、あまり大丈夫でもなかったです、とMさんは話し始めた。

 

 

 

女川に行って来ました。

女川には母が一人でいるんです。 もう70です。

津波が女川の町を通り抜けたと聞いて、いても立っても居られませんでした。

でも45号線が多賀城から先、ずっと通れなかったんです。

 

パソコンのPerson Finderで調べたけど、避難所の名簿に母の名前はありませんでした。

ようやく道路が開通したと聞いて、車で女川まで行きました。

 

太平洋と万石浦に挟まれた海辺の町は、色を失くしていました。一面が泥色です。

道路の部分だけやっと瓦礫をどけてありました。

マリンパルなんかじゃなくて、高い防波堤を造っておけばいくらか違ったのに、と思いました。

 

町民運動場が遺体安置所になっていました。

ほんとは先に避難所を探すんでしょうけど、家は鷲神浜で、一番外洋に近いところですから、多分だめだと思っていました。

母は外出せず、一日家で過ごす人なんです。

 

安置所には数え切れないほどの遺体がありました。

床は泥だらけ。漂流物も片づけられてない中でマットに寝かされていました。

この世に地獄というものがあるなら、ここだなと思いました。

 

遺体は次々と運ばれて来ました。

自衛隊員は丁寧に遺体を運んでくれていました。

彼らは地震の翌日、山越えして女川に入ったのだそうです。

 

泥にまみれているはずなのに、遺体の顔はきれいにされていました

外のテントでは、運ばれた遺体を検視し、水で洗っていました。

身につけた時計とか免許証があればビニールの袋に入れていました。

DNAを調べるため、血液なども採取していたんだと思います。

 

私は母を探して何体もの遺体を見ました。

遺体を見るのは父が死んだ時以来です。

そんなにたくさんの遺体を見るのは初めてだったので、ずいぶん辛かったです。

 

水に揉まれた遺体は、たいてい服が全部脱げて、真っ白になり、膨らんでいるのだそうです。

母は運転免許も持ってないし、指輪もしません。

身許が分かる物など身につけているはずがありません。

 

100体目くらいの遺体のところに来た時です。

この人は母に似ている、と思ったけど、ちょっと違うかなとも思いました。

母よりは若く見えたのです。

 

次に行こうとした時、もしかしたら、という気持ちがよぎり、もう一度よく顔を覗き込みました。

すると、やっぱりこれは母だ、と直感しました。

少しむくんで見えましたが、よくよく見ると、頬の長生き星がまさしく母でした。

 

死因は溺死と書いてありました。

胸を押して口から水が出れば溺死と判定するのだそうです。

ほとんどの人が溺死で、まれに圧死の人がいました。

番号札がつけてあったのが悲しかったです。

 

ご遺体をどうされますか、と警察の人に聞かれました。

こういう状況なので、遺族が引き取れない場合は墓標を立てて土葬し、後で掘り出して火葬します、との話でした。

母を土の中に置いて帰れるわけがありません。

掘り出した遺体を見る勇気はなおさらありません。

私は、連れて帰ります、と言いました。

 

黒い毛布とブルーシートに包まれた母を車の後席に乗せました。

警察官はドライアイスを多めに入れてくれました。

私は自衛隊も警察も、これまであまり好きではなかったけど、彼らは職務に忠実でした。

 

私にはできない仕事を一生懸命やってくれました。

涙を拭きながら仕事をしていた警察官もいました。

彼らは敬礼して、母と私を送ってくれました。

 

どこをどうやって帰ってきたのか、思い出せません。

道路脇に瓦礫がなくなったと気付いたら、福田大橋まで来ていました。

仙台の市街はいつもと同じように平和そうで、女川とは別世界のように見えました。

 

自宅に着いて、県内の火葬場に電話しました。

電話が通じるところはどこも手いっぱいとのことで断られました。

沿岸部の火葬場は壊滅したのか、電話すら通じません。

 

葬儀社に、順番が来るまで母を冷所に預かってもらえないかと聞いたら、保管料は1日5万円と言われました。

値段以上に、冷たい言い方だったので、諦めました。

 

山形県の火葬場に電話してみました。

山形、天童、新庄、とかけて断られました。

岩手、宮城からどんどん依頼が入っているのだということです。

 

酒田の火葬場がやっと引き受けてくれました。

「 ご愁傷さまです。着いたらすぐに火葬をさせていただきます。何時になってもいいですから、気をつけておいで下さい 」

と言われて、私は久々の温かい言葉に泣きました。

 

48号線はところどころで土砂が崩れ、アスファルトが盛り上がっていたけど、なんとか通れました。

13号線沿いの天童の市街は、全く地震の被害がないようでした。

 

「 お母さん、そこは狭いでしょう、ワゴン車だったらよかったね、もっと早く仙台に呼べば良かったね 」

酒田への長い道、私はずっと母に謝っていました。

 

初めて訪れた酒田の地で、母はお骨になりました。

軽くなった母を抱いたら、ようやく私に悲しみと呼べる感情が湧いてきました。

人間って突然いなくなるんですね、さよならも言わずに。

 

お骨は洋服ダンスの上に置いてあります。

父が死んだ時、母が、「 3日泣いたら4日目には笑え 」と言ったことを思い出しました。

でも笑うのは4日じゃ無理ですよ。

 

葬儀は桜が咲く頃に、と思っています。

四十九日もその頃でしょうけど、今は先のことまで考えが回りません。

 

最初の安置所で母を見つけられた自分は、幸運だと思うようにしています。

岩手で流されて宮城で見つかったとか、見つけられずに何百もの遺体を見てしまった遺族もあると聞きます。

大切な人が海にいるのか田んぼの中にいるのか分からない家族は、ほんとにお気の毒です。

 

長話ししてごめんなさい。

こんなときでも何だかパンが食べたくなって、ここに並んじゃったんです。

おかしいですよね・・・・・ 

 

Mさんの話を聞いていたのだろう。

私の後ろに並んでいた女性が急に嗚咽し始めた。

 

 


忘れない、あの日を、あの人を 4

2013年03月14日 20時16分33秒 | 地震

波の被害にあった地域はまだまだ大変な状況だが、青葉区の西部はたくましく日常生活が戻ってきた。

 

栗生のパン屋「ばーすでい」。

行列も短くなった。3日前は30mも並んでいた。

 

パンの種類は少なく、個数制限もあるが、客には余裕が感じられる。

 

久しぶりのパンは美味しい。しかも食パンは焼き立て。

仙台っ子ラーメンも再開。

この地区はLPGを使っているので、食べ物屋は復旧が早い。

都市ガスに頼る市中心部はまだ調理できない店が多い。

 

山形蕎麦の豆やも再開した。

 

ラーメンみずさわ屋にはもう行列が。

 

空き地で野菜を売る農家の人。たくましい。

 

ただし、ガソリン不足は続き、スタンドにはこの列。

 

八幡町のヤマト屋書店も、崩れた本の整理が済んだ。

そろそろ開店か。週刊誌を2週間読んでない。

 

HM(ホットモット)にも灯りが点いた。

どの店も、いつまでも休んではいられない。

 

しかしよく見ると、地区のあちこちに地震の爪痕が残る。

 

八幡5丁目の広瀬川に崖崩れ。

幸い川をせき止めるには至らなかった。

 

その向かい側の舗道に走る亀裂。

 

崩れた大岩。さらに落ちて来そうなのもある。

 

小学生は今日で終業。明日は卒業式だ。

 

男の子たちはサッカーを始めた。

 

来週都市ガスが出て、ガソリンが行き渡れば、この地区の機能はほぼ震災前に復する。

今度は沿岸部を手伝いたい。

 

気がつけば、梅の花が満開になっていた。

やがて咲く桜はどんな色に見えるのだろう。


忘れない、あの日を、あの人を 3

2013年03月13日 14時46分00秒 | 地震

 

地震から12日が経った。

空気中放射線レベルが落ち着いているので、久しぶりに街中に出かけた。

仙台駅は損傷が激しく、立ち入り禁止になっている。

 

駅には足場がかけられ、修復中。

構内には立ち入れない。

 

工事関係者が多い。

駅が工事中では電車が走らない。

在来線の復旧は4月上旬だそうだ。

 

バスプールはこの通り閑散としている。

 

タクシープールにいるのは工事車両のみ。

 

ロフトの壁が崩落している。

 

ぺディストリアンデッキも修復中。

 

舗道の沈下。地震があると手抜き工事がばれる。

 

Kーのさん御用達の店も立ち入り禁止。

 

計画停電の東京の駅の様子ではありません。

バスの本数が少ないので長蛇の列になっている。

 

これはミスドの行列。そういえば、ずいぶんドーナツを食べていないな。

 

牛タンの店も復活。牛タンと聞くと、思わず並んでしまう仙台人。

 

ヤマダ電機は営業していた。電気と水があってガスが出ないから、IH調理器は完売。

 

 

ホテル・コムズ(元三井アーバンホテル)も壁が損傷した。

 

 

フォーラスはエレベーター棟8,9階のガラスが落下した。

 

路上販売が人気(卵を売る店。)

 

魚屋の出店。

 

お弁当とビールを売る。なんだか、楽しそうだ。

 

今仙台で最も元気なのは壱弐参(いろは)横町。

 

八百屋も、

 

魚屋も、

 

肉屋も、ちゃんと営業している。

 

なつかし屋に灯りが点いた。

というより、昼間から大盛況。店の外まで笑い声が響く。

 

どんちゃんも暖簾を掲げた。

 

「おばちゃん、どんどん焼ぎ、みっつけさいん」

豆やにも常連が戻ってきた。

マック、モス、吉野家、すき家、コンビニといった全国チェーンはどこも閉店中。

本部の指示に沿ってしか動けないのだそうだ。

個人商店はいち早く元気を取り戻した。軽トラにどこからか調達してきた軽油を入れて市場と店を往復する。

このたくましさが仙台を復興させる。頑張れ、仙台商人!!!

みんなで個人商店を応援しよう


忘れない、あの日を、あの人を 2

2013年03月12日 14時46分00秒 | 地震

大震災2日後の仙台の市街。 

電気、ガスが止まっている。

国見地区は昨年、「地震に強い水道管に交換しています」という看板を立てて2か月も工事をしていた。 

それが功を奏し、奇跡的に水道から水は出ている。

市内には消防車、救急車、パトカーのサイレンが鳴りっぱなし。 

空にはヘリコプターが何台も旋回している。

自分の周りは大したことがないのに、サイレンを聞くと1日中不安な気持ちになる。

 
東の空に火災の煙は多賀城の石油コンビナートの火災だという。
 
あの煙の下あたりは惨憺たる事態になっているのだろうが、テレビが映らないので分からない。
  
被災地だけが情報の空白地帯になっている。
 
ラジオでは津波の被害甚大というが、想像がつかない。
  

 

外国からの留学生の安否を心配する張り紙。 

携帯も通じず、アナログの時代に逆戻り。

 

大崎八幡神社の石灯篭の鉄筋はあまりにも貧弱だった。 

鉄筋は僅か7センチしか石に入っていない。 

これでは倒れるのも当然。

 龍宝寺の墓石はもっと危険。 

ただ重ねただけ。

 

石地蔵も転倒。

 

ダイちゃん、危ないよ。




 


忘れない、あの日を、あの人を 1

2013年03月11日 14時46分00秒 | 地震

あの日から2年。

あまり報道されませんが、青葉区にもこんな被害がありました。

 

わが家では散々物が落ちましたが、食器が数枚割れただけで、大した被害はありませんでした。

居間



息子の部屋 (普段と変わらないという感じもありますが・・・)



近所の家のブロック塀。

こんなに尖って割れるとは。

 

 



アパートの中には安普請の物件もあります。

特に学生アパートは危険なようです。



これも学生アパート。上を見て歩きましょう。



鈴虫荘公園には地割れが。



一銭こ屋の塀も倒壊。

子供がいなくて良かった。

国見2丁目には江戸時代に大きな溜池があり、そのあとにできた住宅地にまとまった被害が出ている。 




「お兄ちゃん、地震、怖いね」

「うん」


素晴らしかった日本ー台湾戦(WBC)

2013年03月09日 21時12分04秒 | テニス・野球

3月8日のWBC2次R1組1回戦 台湾3-4日本  東京ドーム)
 
台湾の日本戦初勝利は目前だった。7回を終えて台湾は2―0でリード。

しかし、8回に連打を許して同点とされてから流れが変わる。

その裏に勝ち越したが、9回に再び同点とされ、延長10回に勝ち越し犠飛を許した。

初めて進んだ2次ラウンドで、日本をあと一歩まで追い詰めたが、最後は力尽きた。

▽台湾代表・謝長亨監督 

選手は素晴らしいプレーをしてくれた。

国際試合で日本の高いレベルに近づきたいと思っていた。

尊敬する日本に勝つことこそできなかったが、重圧をかけられた。

残念な結果だが、いつか勝つ日が来ることを願っている。反省から学びたい。

 

9回表、起死回生の同点打を放った井端。

 

試合後、台湾チームの選手たちがスタジアムに集まった日本人に向けて深々とお辞儀。

 

 

中国語で書いたボードを掲げる日本人ファン。

震災後、多大な支援をしてくれた台湾国民に、この機会にお礼のメッセージを伝えよう・・・という声がネット上で広まった。

「感謝TAIWAN」、「3.11支援謝謝台湾」、「日本永遠不會忘記台湾的誠意」などと書いたボードを持参する日本人が続出。

これが試合を中継してた台湾のテレビでも大きく取り上げられ、台湾チームの選手や台湾国民がたいへん感動したという。

 

試合後、大きな台湾国旗に「日本おめでとう」のメッセージを書いて笑顔でエールを送る台湾ファン。

 

過去のスポーツの国際大会で、こんな清々しく、感動的な試合はなかったのではないか?

試合内容も素晴らしかったが、スポーツで大切なのは試合の勝ち負けだけじゃない。

たぶん、誰もがそう感じたことだろう。

 

これが台湾でなく、韓国だったら・・・監督は「審判の判定がおかしい」と言い、選手は「独島は韓国のもの」、「日本の地震をお祝います」と書いたボードを掲げ、マウンドに国旗を立てただろう。

 

シンガポールのセントーサ島で、台湾から来たという旅行者のおばさんに、人懐こく話しかけられたことを思い出した。

初対面なのに、「昔日本人に大変世話になった。今度ぜひ台湾の私の家に遊びに来てくれ」と手を握って言われた。

 

日本のTOMODACHIは台湾、トルコ、アメリカ。

では韓国のTOMODACHIは?

 

 


ハナコ、抜糸してもらう

2013年03月06日 21時15分22秒 | Weblog

避妊手術から1週間。

エリザベスをしなくても、傷をなめたりせず、とても良い子でした。

今日は抜糸してもらいます。

 

病院に行こうと車に乗せたら、ハナコはブルブル震えています。

怖いみたいです。

 

でも吠えもせず大人しく抜糸してもらいました。

 

ハナコ、偉かったね。

これで終わりだよ!

 

ママに抱っこされて家に帰って来ました。

 

安心したのか、ご飯もよく食べます。

 

ママ、デザートもちょうだい!

 

抜糸はしてもらいましたが、傷跡がこれから痒くなることがあるのでまだシャツを着せられています。

 

疲れたのでしょう。

ご飯を食べたら寝てしまいました。

 


プリンターのインクは高い!

2013年03月03日 20時32分32秒 | Weblog

6年間使って来たエプソンのプリンターが壊れた。

ドライブベルトが切れただけなので、簡単に直ると思い、修理に出すことした。

ところがヤマダ電機では、発売から5年過ぎたプリンターは部品がないかもしれないという。

あったとしても修理代は7800円かかる。同じ機能の新品が6700円であるし、一般にプリンターは壊れても修理は勧めないのだそうだ。

 

まだ使ってないインクが一組あったが、泣く泣く一緒に廃棄することにした。

 

最近のプリンターには、パソコンとプリンターを繋ぐケーブルが付いていないのでこれだけは保存した方が良い。

 

これが新しいプリンター。

コピー、スキャナーを兼ねる複合機ながら6700円。

以前のよりずいぶん軽いし、小さいし、静音。

 

但しインクは一組3600円もする。

二組買えば本体を上回ってしまう。

「本体を安く、インクを高く」 が、日本のプリンターの売り方なのだそうだ。