daisukeとhanakoの部屋

わが家の愛犬 daisuke(MD、13歳)とhanako(MD、6歳)の刺激的仙台生活

忘れない、あの日を、あの人を 9

2013年03月22日 14時46分00秒 | 地震

野蒜小学校の校舎前には仮設住宅が建った。仮設郵便局もできた。

それ以外にはしかし、銀行、病院、スーパー、コンビニ、理髪店・・・生活に必要な施設の一切がない。

 

校舎の左には凄惨な現場となった体育館がある。

この体育館は避難場所に指定されていて、地震後、児童60人を含む300人以上が避難した。

地震の1時間後、体育館を濁流が襲った。壁を破って突然黒い蛇が入ってきたように見えたという。

児童は全員2階観覧席に避難したが、1階にいた住民の多くが波に巻き込まれた。

30名近くが命を落とし、児童たちはその光景を目の当たりにした。

 

校長は壇上でマイクを握っていたところをさらわれ、観覧席から投じられた紅白の幕につかまって助けられた。

住民からは、「体育館でなく、校舎の2階に避難していれば全員助かったのに」という声が上がった。

 

野蒜小学校から海に向かって200m ほど行くと、仙石線の踏切がある。

ここは私の友人が最後に目撃された場所である。

彼は海が好きで、昭和62年にこの地に転居した。

無線、バイクなど多趣味で、麻雀も強かった。

毎週末、当直室で卓を囲み、麻雀の奥義を伝授された。

授業料は高かった。

踏切に供花をして、合掌。

冥福を祈った。

 

野蒜小学校近くの仙石線踏切

 

野蒜駅は辛うじて外観を残したが、内部を2m超の波が通り抜け、設備は壊滅した。

架線の鉄柱は倒壊。プラットホームは随所でコンクリートが崩落。

線路は捻じれ、砂に埋もれた。

 

駅名表示板には嵯峨渓の美しい写真が使われていたが、コンクリートの土台ごと倒された。

米軍兵士と自衛官が協力してこの表示板を引き起こす場面をニュースで見た。

「Operation Tomodachi」である。

 

津波は浅瀬から砂を巻き上げてやって来た。

この地区の溺死者の気管内には大量の砂が入り込んでおり、「溺水」というより「溺砂」という状態だったという。

 

東名と野蒜の間の線路1.6kmは著しい被害を受けた。

JRは3年後に陸前大塚~東名~野蒜~陸前小野の区間を駅ごと500mほど内陸に移設するとしている。

現在の野蒜駅は廃駅と決まった。

待っていても永遠に電車はやって来ない。

電車の来ない駅ほど悲しい風景があろうか。

 

駅構内に菜の花の種を撒く人がいた。

春にはきっと黄色い花がたくさん咲くだろう。

廃墟はやがて花畑となり、昔そこが駅だったことを伝えるだろう。

 

 

野蒜駅

 

東名運河沿いに立っていた道路標識も倒壊したままである。

標識に書かれた「石巻」、「野蒜」、「奥松島」は、どこも大きな被害を被った。

 

明治17年の台風がなければ野蒜港は国際的貿易港として発展し、この辺りは神戸、横浜規模の都市に成長していたはずだった。

東名運河は北上川と松島湾を結ぶ目的で造られたが無用になり、今回津波に襲われた。

歴史の非情を思う。

運河はいまだに瓦礫で埋め尽くされている。

 

東名運河を渡ると野蒜海水浴場に出る。

渚で頭を垂れる人がいる。車は愛知ナンバーだ。

彼が捧げた花束が強風に飛ばされ、砂の上を転がって行った。

 

12月の日暮れは早い。

太陽はすでに山の端に傾いたが、宮戸島まで足を伸ばすことにする。

 

松ケ島橋は本土と宮戸島をつなぐ唯一の命の橋。

現在は通行可能だが、津波直後はこの橋が流され、宮戸島が10日以上孤立した。

自衛隊が応急の橋を架けて重機を投入。瓦礫を除けてようやく橋と道路を修復した。

嵯峨渓観光船乗り場は地盤沈下し、水面下で揺れていた。

 

海に傾き、沈むに任せたビル、一階をぶち抜かれて鉄骨だけになった作業所などが点在する。

応急的に修復されたものの、島の道路は鳥の嘴のように細く、海からようやく顔を出している。

路肩には波が打ち寄せ、ボートで海の中を走っているような錯覚に陥る。

 

 

沈むに任せたビル

 

大高森登山口に到着。

大高森は松島を一望できる山で、松島四大観の一つとされている。

駆け足で頂上に登り、東松島方面を俯瞰した。

松島の島々は緑に見えるが、外洋に面する矢本、野蒜は一帯が土色に変わっている。

津波は松島湾の外側から襲来し、陸地を蹂躙。東名の防波堤を内側から破壊して松島湾内に流れて行ったことが分かる。

 

太陽は西の山に姿を隠した。残照が終われば海から深い闇がやってくる。

急がないと下山できなくなる。

被災地では海岸に幽霊が出るという噂が広がっている。

亡くなった人達が手をつないで月の浜辺を歩いているというのだ。

年末に気仙沼の実家に帰るという知人は、「海岸には行かない、雲丹と蝦蛄は食べない」と言っていた。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする