daisukeとhanakoの部屋

わが家の愛犬 daisuke(MD、13歳)とhanako(MD、6歳)の刺激的仙台生活

歳末雑感 2011

2011年12月31日 17時49分24秒 | 地震

「12月の被災地」 の連載中ですが、一時中断して歳末のご挨拶です。

 

 

2011年はひどい年だった。

震災はもちろんだが、政治も悲惨だった。


子ども手当は「23年度から1人当たり月2万6千円」との公約を早々と放棄。

現在は1万~1万5千円の支給にとどまり、所得制限の導入も検討されている。

前原氏は自民、公明両党との政調会長会談で、「子どものための手当」との姑息な名称変更案を提示したが、あっさり拒否された。当然だ。

 

ガソリン税など暫定税率廃止の公約は削除され、高速道路無料化も原形をとどめていない。

被災地では1年だけ無料化されたが、それも3月で終わる。 

 

国家公務員の総人件費2割削減も実現は困難。

マニフェストでは25年度までに人件費などの削減だけで1兆1千億円の財源を生み出す計算だった。

しかし国家公務員給与を平均7.8%削減する特例法案も成立を断念。

12月のボーナスは昨年よりも増額となった。

 

順調に見えた高校無償化と農業の戸別所得補償も制度変更を迫られている。

 

鳩山元首相が訴えた米軍普天間飛行場の国外、県外移設も迷走。名護市辺野古への移設計画に回帰した。

この2年で失った沖縄の信頼の回復は容易でない。

 

衆院比例定数80削減についても前原氏は、「約束したことは法律でしっかりと実行する。民主党だけでも法案を出す」と明言したが、見通しは立っていない。


民主党が平成21年衆院選のマニフェストに掲げた最重要政策の一つである「八ツ場ダム建設中止」さえ撤回が決定された。

  

建設中止は「コンクリートから人へ」と訴えた政権交代の柱だった。


が、最大の公約違反は最後の最後にやってきた。

年末になって野田佳彦首相は、公約になかった消費税増税を決定した。

省庁の無駄を徹底的に省けば増税は必要ない、と言っていたのに。


政権の正当性さえ疑われる事態であるが、日本の不幸はここにいたっても選ぶ政党がないことである。

 

先日、芸能人もボランティアもいなくなった被災地を訪ね、知人が亡くなった野蒜の踏切に手を合わせてきた。

瓦礫は減ったものの、地盤沈下により陸地は海に変わり、No Man's Land と化していた。

 

「震災は何も終わっていない」

このことを全国の皆さんに伝えるため、死者を慰霊するため、いましばらく震災の記事を続けます。

「生き残った者」の義務として。

 

私は年賀状をやめて4回目の正月になります。このブログを以て新年の御挨拶に代えさせていただきます。

今年も私から年賀状は届きません。

その代わり、「daisukeとhanako の部屋」は6年9ヶ月目に入り、記事総数は6,989項目になりました。

 


2012年が皆様にとって平穏で、幸多き一年でありますよう、お祈り申し上げます。

また来年、「daisukeとhanako の部屋」でお会いしましょう。

良いお歳を。

 

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12月の被災地 14 東松島 1

2011年12月29日 16時42分40秒 | 地震

この交差点を右に曲がると東松島市に入る。

東松島市は2005年、「平成の大合併」で矢本町と鳴瀬町が合併して誕生した。 

 

東名。

内部がすっかり破壊されたコンビニ。

この辺りの海岸を東名浜といい、潮干狩りの名所である。

わが家もかつて春に来て、アサリをバケツ一杯採ったことがある。

そのあと3日ほどアサリ料理が続いた。

 

 

 

震災直後の東名駅。  

野蒜。

かつての住宅街はただの原っぱと化した。

 

野蒜小学校。

校舎の1階まで冠水した。

手前に仮設住宅が建つ。

左には凄惨な現場となった体育館がある。 

 

仮設の隣りに郵便局の仮設もできた。

確かに近くに郵便がないと年賀状も出せないし、預金も下ろせない。

一帯には銀行、病院、スーパー、床屋、コンビニ・・・考えうるものすべてがない。 

 

昇降口の校歌碑。

土台のコンクリートが新しいので、修復されたようだ。

 

 

震災直後の野蒜小学校体育館。 

 


震災直後の体育館内部。

 

東松島市が避難場所に指定した野蒜小体育館には、地震の後、児童約60人を含め300人以上が避難していた。

体育館を津波が襲ったのは震災の発生から約1時間後の午後3時50分。

突然、がれきとともに黒い濁流がなだれ込んだ。

水位は一気に約3メートルまで上昇。2階観覧席のわずか10センチ下まで迫った。

 

児童らは全員2階に避難していたが、ピアノや跳び箱とともに住民が渦に巻き込まれる光景を見た。

2階にいた教師たちは、卒業式に備えて張っていた紅白幕を引きはがしてロープ代わりに投げ入れ、何人かを救出。

しかし10人ほどは浮いたまま動かなくなっていた。

 

2階は避難者ですし詰めだった。

ずぶぬれで救出された人の中には低体温症でそのまま息を引き取る人もいた。

窓の外はもの凄い吹雪だった。

 

ある主婦は荒波にもまれながらもステージのカーテンにしがみつき、一命を取り留めた。

「体育館を出るときは、床で亡くなっている人たちをまたいで逃げた。初めから(高い場所にある)校舎に逃げていれば…」と、言葉を詰まらせた。

 

主婦の言う通り、校舎の2階以上に避難していれば犠牲者は出なかった。

この小学校では、「津波の危険がある時はとにかく高い場所へ」という危機意識がなく、「避難所は体育館」という固定観念に支配されていた。

 

野蒜地区では、3月13日に200人以上の遺体が発見された。

そのうち50~60名はこの体育館で発見されたものだ。

 

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12月の被災地 13  塩釜~松島

2011年12月28日 20時08分31秒 | 地震

七ヶ浜から23号線、45号線に戻り、塩釜の町に入る。

七ヶ浜ほど甚大な被害はないが、ところどころ廃業した店、倒れたブロック塀などを見る。

 

右手は塩釜港。

以前と違って、行き交う人も車も少ない。

 

カキ焼処は健在なようだ。

ただしプレハブ小屋で営業中。

 

松島海岸に出た。

冬の海は静かで美しい。

多くの島が防波堤の役割をしたため、松島町の被害は軽微だった。

ただ島のいくつかは崩れて、かつての姿ではなくなった。

 

松島海岸も地盤沈下のせいか、波が階段の上まで打ち寄せる。

 

 

 

観光施設には比較的客が入っていたのが救いだ。

 

仙石線は、仙台~松島~高城町間で運行中。(仙台から松島まで電車で来れます。)

高城町~矢本駅間が不通。

松島海岸~矢本駅間でバス代行輸送を実施している。

 

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12月の被災地 12  七ヶ浜 2

2011年12月27日 20時52分29秒 | 地震

 

菖蒲田浜海岸で海に祈る人。

砂浜が以前より明らかに狭くなっている。

 これから海水浴は難しいか。

 

南側の砂浜は完全に消失した。

 

地盤沈下のせいか、砂浜に降りる石段が海側に落ち込んで、水平でなくなっている。

 

海水浴客のための公衆トイレ。

外観は無事なようだが・・・

 

入口が海に向いていたため、瓦礫が流入し、この有様。

 

分かりやすい防火水槽だったが、津波には無力だった。

 

まだ水の引かない観音堂付近。

 

 

Cさんが子どもを預けていた汐見台保育所。

高台にあったので波が来なかった。

Cさんはあの日、無理して迎えに来ないで正解だったのだ。

 

子どもの使う三輪車が砂場にまとめられていた。

この保育所は休園してしまったのだろうか。

(休園はしていないそうです。)

 

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12月の被災地 11  七ヶ浜 1

2011年12月26日 19時41分53秒 | 地震

 七ヶ浜の汐見台南2丁目。

冬でも比較的温暖で、夏は海水浴もできるので、別荘を建てる人もいた。

太平洋に面したきれいな住宅地は津波の直撃を受け、見渡す限りの原野になった。

船が陸にある光景にも慣れてしまった。

小高い丘だったのだろうが、周囲が波で削られて松島に似た姿に変わった。

 

菖蒲田浜海水浴場。

ここは海ではない。海は奥に見える堤防の向こうである。

堤防を越えた水がたまっていて、海のように見える。

傾いている建物は公衆トイレ。

原形を保ったまま何mか移動した。

 

トミカの救急車。

ここに住んでいた子供のおもちゃか。

誰かが拾ってブロックに置いたのだろう。

その子は元気なのか。

 

「渡邉」の表札だけが残った家。

コンクリートの部分だけしか残っていない。

住民は避難できたのだろうか。

海水浴場のシンボルだった松林は半分以上倒れた。

 

倒された電柱がそのまま放置されてある。

右端の松は途中から折れた。

 

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12月の被災地 10 多賀城

2011年12月25日 17時52分29秒 | 地震

12月23日。今日は東北地方に強い寒波が来ている。

風も強く、正午でこの気温だ。

しかしS先輩が亡くなった東松島を、どうしても年内に見ておきたくて出発した。

 

国道45号線を多賀城に向かう。

黒い雲が青空を隠そうとしている。

中野栄を過ぎた辺り。

ここにも波は来たが、痕跡は見えない。

 

23号線の八幡地区で、初めて被災した建物を見た。

このハードオフは廃業したようだ。

 

栄の廃車置場。

多賀城市の各所から集められた流失車両がここに集められた。

 

場所がないので2段積みにされている。

ナンバーが付いたままの車も。

 

栄2丁目交差点。

この先は七ヶ浜。 

七ヶ浜は避暑地であり、菖蒲田浜という海水浴場もある。

 

Cさんは、3月の初めに七ヶ浜に引っ越したばかりだった。

念願の新居が完成したのだ。

近くの保育園に6歳の長女と、3歳の次女を預けて、卸町に仕事に来ていた。

地震に驚き、子供を迎えに行こうと45号線から23号線に入った。

対向車線には車が溢れ、誰もが必死で西を目指していた。

東に向かっているのは自分一人だった。

ラジオは東から津波の襲来を告げている。

みんな海から逃げてきているのだと分かって、恐ろしかった。

前方から津波が押し寄せてくる幻影が見えた。

(実際、押し寄せてきていた。)

警察官に東行きを止められ、心を残して引き返した。

その日は仙台の実家に泊ったが、子供らのことが心配で一睡もできなかった。

 

翌日瓦礫の中を保育園に行ってみると、子供たちが走って抱きついてきた。

高台の保育園まで津波は到来せず、保育士さんが園児全員を一晩守っていてくれたのだった。

あの時、無理して保育園に向かっていたら、津波と正面衝突したところだった。

新居は小高い場所にあったのが幸いし、あと5mのところで水は止まった。

 

Cさんが引き返した交差点こそ、この栄2丁目交差点である。

 

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12月の被災地 9  まさかここまで

2011年12月24日 17時50分31秒 | 地震

女川の被害は甚大である。

人口が減り、陸地が減り、港がなくなった。

人気のない町を包む深い闇を見ていると、はたして再興がかなうのか、危ぶまれる。

 

2011年08月26日の河北新報に、女川を襲った津波の迫真のルポが載った。

 

東日本大震災で港に面した中心市街地が壊滅した宮城県女川町では、津波による浸水が海抜約20メートルに達した。

港周辺に立つ商業施設や公共施設はほとんど水没。

津波は鉄筋の建物をなぎ倒すほどの威力で、多くの町民が逃げた高台の町立病院にも押し寄せた。

 

 ◎「まさか、ここまで」避難の車、次々と流された

<噴出>

 3月11日。最初の揺れが収まってから約30分後、宮城県女川町鷲神浜の女川町立病院駐車場で見た光景に、経営する港近くの中華料理店から避難してきた鈴木康仁さん(39)=女川町女川浜=は目を疑った。

 

はるか遠くの岬の先端にあった高さ6メートルの防潮堤を白波がのみ込み、大きなうねりとなって街に迫ってきた。
 

病院は女川港を見下ろす海抜16メートルの高台に立つ。

「まさか、ここまで津波は来ないだろう」。鈴木さんは駐車場にとどまり、港の周りの様子を見ていた。

商業ビルなどが立ち並ぶ港の一帯では、至る所で噴水のように水が噴き出していた。

一気に水かさが増し、何棟かのビルで、屋上に避難する人が見えた。

<水没>

 「ここではだめだ」。鈴木さんは駐車場を後に、病院西側のさらに高い場所にある熊野神社を目指し、階段を駆け上がった。

パキパキパキ。階段を上る途中、不気味な音が聞こえた。

津波が濁流となり、建物を壊す音だった。

踊り場で、後ろを振り返った。3、4棟を除いて、港近くにあったビルは水没していた。

目をこらすと、4階建ての商工会館が見えた。

屋上に人影があった。

次の瞬間、会館の屋上も水中に消えたように見えた。

数分前までいた病院駐車場にも、津波が迫っていた。

避難した人たちが乗ってきた車が次々と濁流に浮き、流された。
 

「高台に逃げろ」。女性の声で避難を呼び掛けていた防災無線が急に男性に代わり、叫び声が聞こえた。

その声を最後に、無線は途絶えた。


「皆、死んだ」。鈴木さんはその場にぼうぜんと立ちつくした。町立病院に逃げた人たちの安否が気掛かりだった。

<必死>

 そのころ、町立病院。職員が患者や逃げてきた町民を2階より上に誘導していた。駐車場に津波が迫っていた時、1階フロアにはまだ、約20人がいた。

 当時、院内で働いていた阿部ゆかりさん(39)=同町浦宿=もその一人。

「病院にいれば、安全だろう」。

本震後約20分は、病院の内外を行ったり来たりしていた。

駐車場から、車や民家などが濁流に押し流されているのが見えた。

震えが止まらなくなった。

院内に戻ると、男性の声が聞こえた。

「津波が来たぞ」。

阿部さんは階段に向かって走った。

階段の幅は約1.3メートル。上り口に人が集中し、立ち往生していた。

 階段の約2メートル手前で、駐車場にあった車が濁流とともに玄関のガラスを突き破って入ってきた。

数秒であごの下まで水に漬かり、体が浮いた。高さ2.5メートルの天井がすぐ真上に見えた。

 なすすべなく流された。すぐそばで浮いていた自動販売機に必死にもがいて、つかまった。

販売機にはほかに4人がつかまった。

 やがて、ゆっくりと水が引いた。

10分ほどたつと、床に足が付いた。

「助かったんだ」。全身の力が抜けた。

女川町や町立病院によると、町内の津波浸水の最高位は海抜20.3メートル。

町立病院1階の浸水は高さ約2メートルに達した。

3月11日、町立病院は職員や入院患者、避難者ら653人を収容した。

後日、敷地内で4人の遺体が見つかった。

 

◎給水塔登り 九死に一生/商工会館、屋上も冠水

 港近くにあった建物のほとんどが津波にのみ込まれた宮城県女川町で、4人の男性が一時は建物全体が水没した商工会館の屋上にいた。

屋上の給水塔に登って助かった4人は、間近で津波の威力を目の当たりにした。

 商工会館は鉄筋コンクリート4階建て。

屋上には高さ約5メートルの給水塔があり、1.5メートル四方の台座に立つ4本の支柱が給水タンクを支えていた。

本震が発生した当時、会館には商工会職員の青山尊博さん(38)ら男女7人がいた。女性職員や外部の関係者を先に逃がし、青山さんら4人が屋上に登った。

青山さんらが屋上にたどり着いた時には既に、津波が4階に達していた。

4人はそれぞれ支柱にしがみついた。足元で、目の前で、建物などが流される様子を見た。

青山さんと商工会職員の遠藤進さん(55)は、しがみついた柱を挟んで向かい合う形になった。

 「病院もだめだ」
 「皆、死んだべや」
 「終わるときはこんなものか。あっけない」

あぜんとしながらも、気持ちを落ち着かせるために、努めて互いに言葉を掛け合った。

引き波で陸から流れてきた木造家屋などが、倒壊を免れた他の建物にぶつかると、ごう音とともに水しぶきが上がった。
 

ばらばらの木片になる建物、燃えながら流される民家。

波音や建物が壊れる音とともにプロパンガスの噴出音も聞こえ、2人とも「次第に言葉が出なくなった」(遠藤さん)。

水位はじわじわと上がり、屋上も水につかった。

水面は一時、4人の足元約50センチにまで迫った。

 「もう、だめだ。死ぬな」。

家族に形見を残そうと、青山さんは身に着けていたネクタイを支柱に結び付けた。

屋上に達した水は15分ほどで引き、夕方にはさらに水位が下がった。

4人は3階に下り、四方の壁が残っていたトイレにこもった。

座ると、衣服がぬれてさらに寒くなると思い、立ったまま夜を明かした。

 女川町は女川港周辺にある3、4階建ての建物のうち、商工会館と女川消防署、観光施設のマリンパル女川を津波避難ビルに指定していたが、今回の津波で屋上まで水没しなかったのはマリンパル女川だけだった。

◎「高台に逃げろ」叫ぶ/町役場、直前まで無線放送

宮城県女川町中心部に津波が押し寄せている最中、町役場では2人の職員が防災無線で町民に避難を呼び掛けていた。

役場庁舎の最上階、3階にある無線室が浸水するまで、放送は続いた。

気象庁が大津波警報を発令した3月11日午後2時50分ごろ、女川町企画課の臨時職員(当時、4月末で退職)の八木真理さん(36)は無線室に駆け込み、防災無線の放送を始めた。

「大津波警報が発令されています。沿岸部の人はただちに高台に避難してください」。

警報発令に備えて用意していた原稿を手に、備え付けのマイクに向かって、繰り返し呼び掛けた。

放送を始めて約20分後、企画課防災係長の阿部清人さん(45)は庁舎2階にいた。海側の様子を眺めていると、沖にある高さ6メートルの防潮堤よりはるかに高い波しぶきが上がるのが目に入った。


すぐに、無線室に向かった。「大きな津波が押し寄せています。至急高台に避難してください」と放送用の原稿を替え、「余計なことは言わなくていい」と八木さんに伝えた。

すぐさま、1階に駆け下りた。「全員、屋上に待避」。声の限り、職員に指示を出した。

無線室は庁舎西側にある。港の反対側に位置し窓からは海側の様子が見えない。

「役場周辺の状況が全く分からず、すぐそばまで津波が来ていることも知らなかった」と八木さん。淡々と放送を続けた。

やがて役場も浸水し、2階に海水が上がってきた。阿部さんは再び、無線室に駆け込んだ。

 「すごい水だ。放送を代わる」。八木さんは無線室を飛び出し、屋上に向かった。

阿部さんはマイクを握り、「高台に逃げろ」と2度、叫んだ。

次の瞬間、無線室に海水が流れ込んできた。

「これが最後の放送です」。

阿部さんが次に言おうとした言葉を発する間もなく、放送機材と固定マイクが水没した。

阿部さんは腰まで水につかりながら無線室を出て、屋上にたどり着いた。

職員ら当時庁舎内にいた約100人は屋上に逃げ、全員無事だった。屋上に登った最後の1人が阿部さんだった。

 


津波の直後の動画↓

http://news4vip.livedoor.biz/archives/51768034.html

 

 

現在午後4時半。

冬の日暮れは早い。道路の冠水も心配で、女川から逃げるように石巻まで戻ってきた。

瓦礫は片付けたが、復興は計画も何も決まっていない。

 

 三陸道石巻河南ICより仙台に向かう。

 

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12月の被災地 8  80cmの差で助かった女川原発

2011年12月23日 19時37分15秒 | 地震

 

海を見下ろす町立病院の駐車場には慰霊の花束。

ここを越えて津波は来た。

 

町立病院の診療時間。

内科、外科は月~金の半日だけ。

整形、小児科、眼科、皮膚科は週に半日だけの診療だ。

 


女川では津波がなんと海抜約20mに達した。

港のシンボルだったマリンパルは水没。

津波は木造の建物を流し去り、鉄筋の建物をひっくり返した。

JR女川駅は跡形もなく破壊された。

 

多くの町民は高台の町立病院に逃げたが、そこにまで津波は押し寄せた。

町役場も最上階まで浸水。防災無線は市街地が津波にのみ込まれている最中に途絶えた。 

 

女川原発は海抜14.8mの場所に建設された。

想定された津波は9.1mだったが、安全を見込んでそれより5.7m高いところが選ばれた。

しかし地震で大地は1m地盤沈下。原発は海抜13.8mに下がった。そこに押し寄せた津波は13m。

差引き、僅か80cmの差で宮城県と仙台市はフクシマ化を免れたのだ。

 

(福島第一原発では、想定した津波は5.7m。原発の海抜は10m。そこに14mの津波が来た。)

 

12月2日現在、女川の行方不明者は364人。

気仙沼では346人、南三陸町では308人。

 

行方不明の家族を抱える家では、どんなイブを過ごすのだろうか。 

 

「海辺の風景7 女川」   http://blog.goo.ne.jp/daisuke-nana/m/201104

 

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12月の被災地 7  女川 No Man's Land

2011年12月21日 21時21分25秒 | 地震

女川港付近。

津波をかぶり、打ち捨てられたビル。

木造の建物は一軒も残ってない。

もちろん人の住んでいる家はない。

 

土台ごとひっくり返ったビル。

しかも周りは地盤沈下し、海の中に頭を突っ込んだ状況になっている。

 

 

車が入り込んだままの生涯教育センター。

車が倒れないようにロープがかけられているが、町にはこの車を片づける余力もないのだろうか。 

 

カーナビで見るとここが女川駅なのだが、駅だった痕跡は何もない。

レールも駅の看板も流失した。

 

かつての女川駅。

 

広い範囲が地盤沈下して、海が陸側に寄ってきた。

一帯にはコンクリートの建物しか残っておらず、それはすべて廃墟である。

なにより人の姿が見えないのが恐ろしい。 

  

住宅も人も消えた鷲神浜。

 

マリンパルは敷地全体が水没していた。

まるでベニスのような風景。

時刻は午後4時。カメラの露出を最大にしているから明るく見えるが、辺りはもう薄暗くなっている。

 

露出をノーマルにすると、このように写る。

灯りのない世界。もうすぐ漆黒の闇が降りてくる。

 

 

 

かつてのマリンパル。

このように賑わっていた。

 

けっして海の中ではなかった。 

万石浦に移転した「おさかな市場」もここにあった。

 

遠くの高台に建つのは町立病院である。

病院は海抜18mに位置するが、驚くことに津波は病院の1階の1.9mの高さにまで来た。

 

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12月の被災地 6  石巻線

2011年12月20日 19時55分48秒 | 地震

万石浦沿岸を走るJR石巻線。

小牛田~石巻~女川を結んでいた。

現在は運行されておらず、線路はロープで立ち入り禁止になっている。

 

石巻線の路線図↑

 

これは浦宿駅のホーム。

昔、浦宿浜の友人を訪ねて、この駅で降りたことがある。

万石浦の風景を満喫できる路線だった。

 

今午後3時。

満潮に向かう時刻なのだろうか。

万石浦からひたひたと潮が満ちて来る。

線路は今にも水没しそうだ。線路は既に赤く錆びている。

 

JRは石巻線の浦宿駅―女川駅間2.5キロのルートを山側に移転する予定だ。

この駅も廃止になる(もうなった)。

レールが錆びても、駅が水没しても、もうどうでもいいのだ。

 

 以前の石巻線。浦宿駅付近で撮影。

海より大分高い場所を走っていた。

 

万石浦を過ぎ、女川第一小学校を脇に見て、女川港を見晴らすところに出ると景色は一変する。

「天国と地獄」と言っていいほどの違いである。 

 

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12月の被災地 5  鯨大和煮缶

2011年12月18日 19時55分13秒 | 地震

旧北上川、太平洋の両方に面して立つ石巻市立病院。

もとより津波を考慮しない危険な場所にあった。

ここがちゃんと機能していれば、石巻日赤の負担は半分になったのだが、津波に直撃され、被害は甚大。

現在も休院中。

当初同じ場所に再建される方針と聞いて耳を疑ったが、その後内陸部に再建されることになった。。

 

 

日和大橋を越え、女川方向に向かうと、巨大な缶詰が転がっていた。

 

タクシーを停めて写真を撮っている人もいる。

ここはちょっとした観光名所になっている。 

 

この巨大缶詰は、「木の屋石巻水産」のシンボルマークだった。

木の屋石巻水産は、「鯨の大和煮」からスタートしたが、津波で工場は流され、跡形もなくなった。

「巨大鯨大和煮缶詰」には20t以上の魚油が入っていたが、元の場所から300mも北に流されていた。

それはちょうど240号線の中央分離帯のまん中に位置していたため、交通の邪魔にならず撤去を免れた。 



木の屋石巻水産の作った金華鯖の缶詰が、工場跡の泥の中に残っていた。

その缶詰は掘り出されて、避難所の人たちの貴重な食料になった。

 

 

女川街道を万石浦まで来た。

海面が目の高さにあるように見えて怖い。

かつては防波堤の下に砂浜があり、潮干狩りもできた。

地盤が沈下したせいか海面が上昇し、浸水防止の土嚢積みが行なわれている。

 

この地区は万石浦の緩衝作用で津波の影響は小さかったが、地盤が80cm沈下した

万石浦は干潮でも干潟が出現しなくなり、海岸線が場所によっては数10m後退した。

アサリ採取用に造成された砂州も干出しなくなり、岩礁の貝類がほとんどいなくなったという。

 

地震後、満潮になるとマンホールや家の風呂などから徐々に海水が逆流するようになった。

最終的に地区のほとんどが大人の膝下ぐらいまで浸水してしまう。

浸水によって家が腐り、汚水が逆流する。

台風と大潮が重なった場合洪水の恐れもある。

 

 

沿道にできた「おさかな市場」。

かつては女川港のマリンパルにあったのだが、廃業したドライブインを買い取り、10月7日、ここに再興した。

 

ホヤ、なめた鰈、鮭、かわはぎ、金華鯖が安い。

 

ヤリイカが5杯で800円。

 

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12月の被災地 4  門脇小学校

2011年12月17日 20時42分38秒 | 地震

南浜町は、海も川も近い日当たりの良い住宅街だったが、この9ヶ月で草原に変わってしまった。

津波で破壊されたガソリンスタンドもそのままです。

 

半分だけ無残に破壊された新築の家。

住民は何日ここに住んだのだろうか。

 

門脇(かどのわき)小学校。

石巻では由緒ある学校だ。

一見、建物は大丈夫なようだが・・・

 

3階の窓が黒い。

プールには水がたまっている。海水だろうか。

 

1階、2階の窓ガラスは残っているが、3階の窓は破れ、燃えた跡がある。 

 

3階の教室の内部。

 

地震の後、近隣の住民が門脇小学校に自動車で避難してきた。

そこに津波が押し寄せてきて、校庭に駐車していた自動車を校舎に衝突させた。

衝撃でガソリンが発火し、校舎に引火した。

1階、2階は水没していたので燃えなかったのだ。

 

墓標のように立つ家。

 

 小学校の西側の墓地。

北側に向かって墓石が倒れている。

全く手が付けられていない。

お盆、彼岸のお参りはどうしたのだろうか。

 

南からやってきた津波が墓石を押し倒す光景を想像してみる。

 

12月2日現在、石巻市の不明者は645人。

 

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12月の被災地 3  南浜町のサンタ

2011年12月16日 19時11分06秒 | 地震

日和山山頂にある蛇の目寿司。

ここで昼食にする。

 

以前の建物は地震で倒壊した。現在は仮の建物で営業している。

 

これがランチ。

寿司7貫と小鉢(千切り山芋のイクラ和え)、鮭の粕汁、漬物で1000円。

さすが魚の町。

寿司はもちろん、熱い粕汁がとても美味しかった。

 

以前の店内の写真が看板になっている。

「こんなに立派だったんですよ」・・・看板が泣いていた。

 

240号線沿いの南浜町に慰霊所がある。

ここから海岸まで600mあるが、何もなくなってしまったので海が望める。

 

多くの献花。手を合わせる人が後を絶たない。

 

クリスマスツリーも立った。

夜は点灯するのだろうか。

 

もうすぐクリスマス。

被災地にもサンタクロースはやってくる。

 

天気は良いが海の風は肌に突き刺さるように冷たい。

 

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12月の被災地 2  石巻・岡田劇場

2011年12月15日 19時42分09秒 | 地震

日和山を降りて、旧北上川の中州にやってきた。

これは川の東西をつなぐ内海橋。

津波の際、流された瓦礫とか家屋がぶつかってあちこちが傷んでいる。

 

震災直後の内海橋。

川を流れてきた瓦礫が乗っていて、人はそれを乗り越えて通っていた。

 

 

石ノ森萬画館は浸水したが、建物は無事だった。

現在休館していて、中を見ることはできない。

 

全国からやって来た人の書き込みがある。

 

岡田劇場があった場所。

石ノ森章太郎が映画を見るため、自転車で毎日通ったという。

今は跡形もない。

 

 

風格あった岡田劇場。

 

岡田劇場は川のすぐそばに立っていた。

思えば危険な立地だった。

 

過去記事参照↓

  http://blog.goo.ne.jp/daisuke-nana/m/201104

 

これは修復中の旧石巻ハリストス教会。 

 

看板が土台ごとひっくり返った。

 

看板もまだ泥だらけだ。

石巻市の重要文化財に指定されている。

 

以前の旧石巻ハリストス教会。

 

河畔のプロムナード。

柵は傾き、地盤沈下のため水がベンチの目の前まで迫る。

とてもくつろいで座ってはいられない。

 

中州を歩く水鳥のつがい。

どこに行くにも一緒。

 

嫁が突然、「ふふふ、私たちみたいね」とつぶやいたので私はひっくり返った。

 

 

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12月の被災地 1  石巻・日和山

2011年12月14日 20時28分48秒 | 地震

今日で震災からちょうど9カ月。

被災地の様子が気になり、三陸道で石巻に向かう。 

 

石巻河南ICで降りて、石巻市内へ。

これは石巻市役所。

ここはかつて石巻ビブレだったが、撤退後市役所が中に入った。

ここにも波はやってきた。

この辺りの建物は大丈夫そうだが、

 

市内はどこもシャッター通りになっている。

この辺りは水没したが、ようやく残った建物である。

しかし人通りは全くない。

 

石巻のシンボル、日和山に登ってみる。(ここは車で上まで行ける。)

日和山の南側。

市立病院などの鉄筋コンクリート建物などを残して、住宅地が丸ごと消えていた。

称法寺の伽藍はかろうじて残った。

 

日和大橋は津波を被ったがなんとか残った。

この青い海が、あの日牙を剥いた。

 

北西側に見える旧北上川中州。

劇場、料亭、料亭、マリーナなどがあり、かつては石巻のシンボルだったが、ただの砂地になっってしまった。

地盤沈下で中州の大きさも一回り小さくなった。

 

石ノ森萬画館。

隣には岡田劇場があったが、跡形もない。

 

かつてはこのように、水と緑の美しい風景だった。

 

日和山の神社の飼い猫。

誰にでも懐く。

 

「海辺の風景8 石巻」 http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=e178c239700d06bc223ca1be57db97f1

 

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