3月某日、パン屋の行列に並んでいたらMさんが前にいた。
行列は10m以上あり、店内に入れるまで、あと20分はかかりそうだった。
私が、(地震は)大丈夫でしたか?、と声をかけると、あまり大丈夫でもなかったです、とMさんは話し始めた。
女川に行って来ました。
女川には母が一人でいるんです。 もう70です。
津波が女川の町を通り抜けたと聞いて、いても立っても居られませんでした。
でも45号線が多賀城から先、ずっと通れなかったんです。
パソコンのPerson Finderで調べたけど、避難所の名簿に母の名前はありませんでした。
ようやく道路が開通したと聞いて、車で女川まで行きました。
太平洋と万石浦に挟まれた海辺の町は、色を失くしていました。一面が泥色です。
道路の部分だけやっと瓦礫をどけてありました。
マリンパルなんかじゃなくて、高い防波堤を造っておけばいくらか違ったのに、と思いました。
町民運動場が遺体安置所になっていました。
ほんとは先に避難所を探すんでしょうけど、家は鷲神浜で、一番外洋に近いところですから、多分だめだと思っていました。
母は外出せず、一日家で過ごす人なんです。
安置所には数え切れないほどの遺体がありました。
床は泥だらけ。漂流物も片づけられてない中でマットに寝かされていました。
この世に地獄というものがあるなら、ここだなと思いました。
遺体は次々と運ばれて来ました。
自衛隊員は丁寧に遺体を運んでくれていました。
彼らは地震の翌日、山越えして女川に入ったのだそうです。
泥にまみれているはずなのに、遺体の顔はきれいにされていました
外のテントでは、運ばれた遺体を検視し、水で洗っていました。
身につけた時計とか免許証があればビニールの袋に入れていました。
DNAを調べるため、血液なども採取していたんだと思います。
私は母を探して何体もの遺体を見ました。
遺体を見るのは父が死んだ時以来です。
そんなにたくさんの遺体を見るのは初めてだったので、ずいぶん辛かったです。
水に揉まれた遺体は、たいてい服が全部脱げて、真っ白になり、膨らんでいるのだそうです。
母は運転免許も持ってないし、指輪もしません。
身許が分かる物など身につけているはずがありません。
100体目くらいの遺体のところに来た時です。
この人は母に似ている、と思ったけど、ちょっと違うかなとも思いました。
母よりは若く見えたのです。
次に行こうとした時、もしかしたら、という気持ちがよぎり、もう一度よく顔を覗き込みました。
すると、やっぱりこれは母だ、と直感しました。
少しむくんで見えましたが、よくよく見ると、頬の長生き星がまさしく母でした。
死因は溺死と書いてありました。
胸を押して口から水が出れば溺死と判定するのだそうです。
ほとんどの人が溺死で、まれに圧死の人がいました。
番号札がつけてあったのが悲しかったです。
ご遺体をどうされますか、と警察の人に聞かれました。
こういう状況なので、遺族が引き取れない場合は墓標を立てて土葬し、後で掘り出して火葬します、との話でした。
母を土の中に置いて帰れるわけがありません。
掘り出した遺体を見る勇気はなおさらありません。
私は、連れて帰ります、と言いました。
黒い毛布とブルーシートに包まれた母を車の後席に乗せました。
警察官はドライアイスを多めに入れてくれました。
私は自衛隊も警察も、これまであまり好きではなかったけど、彼らは職務に忠実でした。
私にはできない仕事を一生懸命やってくれました。
涙を拭きながら仕事をしていた警察官もいました。
彼らは敬礼して、母と私を送ってくれました。
どこをどうやって帰ってきたのか、思い出せません。
道路脇に瓦礫がなくなったと気付いたら、福田大橋まで来ていました。
仙台の市街はいつもと同じように平和そうで、女川とは別世界のように見えました。
自宅に着いて、県内の火葬場に電話しました。
電話が通じるところはどこも手いっぱいとのことで断られました。
沿岸部の火葬場は壊滅したのか、電話すら通じません。
葬儀社に、順番が来るまで母を冷所に預かってもらえないかと聞いたら、保管料は1日5万円と言われました。
値段以上に、冷たい言い方だったので、諦めました。
山形県の火葬場に電話してみました。
山形、天童、新庄、とかけて断られました。
岩手、宮城からどんどん依頼が入っているのだということです。
酒田の火葬場がやっと引き受けてくれました。
「 ご愁傷さまです。着いたらすぐに火葬をさせていただきます。何時になってもいいですから、気をつけておいで下さい 」
と言われて、私は久々の温かい言葉に泣きました。
48号線はところどころで土砂が崩れ、アスファルトが盛り上がっていたけど、なんとか通れました。
13号線沿いの天童の市街は、全く地震の被害がないようでした。
「 お母さん、そこは狭いでしょう、ワゴン車だったらよかったね、もっと早く仙台に呼べば良かったね 」
酒田への長い道、私はずっと母に謝っていました。
初めて訪れた酒田の地で、母はお骨になりました。
軽くなった母を抱いたら、ようやく私に悲しみと呼べる感情が湧いてきました。
人間って突然いなくなるんですね、さよならも言わずに。
お骨は洋服ダンスの上に置いてあります。
父が死んだ時、母が、「 3日泣いたら4日目には笑え 」と言ったことを思い出しました。
でも笑うのは4日じゃ無理ですよ。
葬儀は桜が咲く頃に、と思っています。
四十九日もその頃でしょうけど、今は先のことまで考えが回りません。
最初の安置所で母を見つけられた自分は、幸運だと思うようにしています。
岩手で流されて宮城で見つかったとか、見つけられずに何百もの遺体を見てしまった遺族もあると聞きます。
大切な人が海にいるのか田んぼの中にいるのか分からない家族は、ほんとにお気の毒です。
長話ししてごめんなさい。
こんなときでも何だかパンが食べたくなって、ここに並んじゃったんです。
おかしいですよね・・・・・
Mさんの話を聞いていたのだろう。
私の後ろに並んでいた女性が急に嗚咽し始めた。