daisukeとhanakoの部屋

わが家の愛犬 daisuke(MD、13歳)とhanako(MD、6歳)の刺激的仙台生活

東日本大震災 新聞報道の六日間

2023年03月31日 21時26分30秒 | 地震
 
 

震災から12年目を迎え、広瀬文化センターロビーで「新聞報道の六日間」という展示が行なわれている。

 

震災後に生まれた人の人口に占める割合が、早くも1割を超えたそうだ。

どんな大災害でも風化するスピードは驚くほど速い。

 

3月12日の河北新報朝刊。わが家にもまだ取ってある。

1枚だけ(4ページ)だったが、震災の翌朝によく届いたものだ。チラシが入っていた。前々日に用意したものだろう。こんな日はチラシでも嬉しく、丹念に読んだ。

停電だったので、新聞は明るいうちしか読めなかった。

 

3月12日の夕刊。

 

日刊スポーツは2面ぶち抜きの写真。

 

この頃から原発の不安が増して行く。

 

整然とした被害者の行動は世界に称賛された。

 

電力不足による計画停電というのもあった。

 

東電は避難所まで停電にして怒りをかった。

 

東日本が放射能汚染で住めなくなるのでは、という恐怖に襲われた。

 

この頃は、もう東日本はだめだと思った。

いざとなれば家財道具を車に積み、とりあえず山形に避難する準備を始めた。

 

もう原発はこりごりと思ったが、今はまた耐用年数を伸ばし、再稼働し、新設さえ計画されている。

 

 

避難者の心を慰めたのは、炊き出しのおにぎりだった。


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南三陸の旅 9  聖地

2019年05月14日 19時08分27秒 | 地震

 

スピーカーも波で破損している。

 

いつも語り部の人がいる。

学校正門が慰霊台として使われている。

 

裏山に立つ浸水高の立て札。

その上の人がいるところまで登れば助かった。

 

希望の天使の像。

 

8年たっても献花は絶えない。

ここは震災犠牲者慰霊の聖地となった。

この先何度も訪れることになるだろう。

 

南三陸の旅 終

 


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南三陸の旅 7  山の中の追分温泉

2019年04月28日 20時13分47秒 | 地震

 

南三陸から県道68号線で北上に向かう。

車一台がようやく通れるくねくねした山道。

対向車が来ないことを祈りながら走る。(幸い一台もすれ違わなかった!)

峠を下り、途中で追分温泉に立ち寄る。

 

主人はきれい好きで館内はピカピカに掃除されている。

スポーツカーが大好きなんだそうだ。

1泊2食7000円くらいで、食事は大判振る舞い。

 

いつか機会を見つけて訪れたい。

 

続く

 

 

 

 


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南三陸の旅 6 ハマーレ歌津

2019年04月18日 13時42分00秒 | 地震

 

 

歌津に作られた商店街「ハマーレ歌津」。

 

あまり活気がない。

 

 

移動郵便局!

郵便局がないのだ!

 

まったくお客さんがいない。

45号線沿いにあったが、道路が移動したためお客さんが通り過ぎてしまうのだそうだ。

一番右の店舗は佐藤酒店。夜は居酒屋になるのだそうだが、周りは真っ暗で寂しそうだ。

呑んだらどうやって家に帰るのだろう。

 

 

美味しいものもあるんですが。

 

なにかイベントがあるようで、準備中。 

 

続く

 

 

 

 

 


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南三陸の旅 5  BRT

2019年04月08日 20時26分25秒 | 地震

 

 

不思議な風景である。鉄道のトンネルなのにレールがない。

かつての気仙沼線の線路はレールが外され、舗装されて専用バス(BRT)が走るようになった。

 

BRTの停留所。

地元の人にとってはBRTは鉄道の代わりにはならない。

仙台、東京につながる鉄道があることが地域存続の生命線なのだ。

気仙沼線は請願してから完成まで80年かかったという。

これから80年かかっても鉄道を復活させたいとしている。 

 

続く

 

 

 

 

 


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南三陸の旅 4  高野会館

2019年04月03日 21時26分21秒 | 地震

 

かつて志津川病院のすぐ海側にあった高野会館。

病院の建物も取り壊された。

 

結婚式場だった。

支配人が地震後、客を返さず屋上に登らせた。

その結果全員が助かった。

津波のモニュメントとして保存される。

4階に浸水ラインがある。

 

2018年3月12日の空撮 http://www9.nhk.or.jp/archives/311shogen/summary/local/06/

 

 続く


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南三陸の旅 3  防災対策庁舎

2019年03月26日 21時16分32秒 | 地震

 

南三陸町の中心部。八幡川の護岸整備が進む。

 

 

賑わっていた港周辺はまだこの通り。

 

病院には小児科がなく、交通も買い物も不便。

若い世代が復興を待てずにどんどん町を離れている。

若い世代がいなければこの町はいずれ消滅する。

 

防災対策庁舎。

屋上まで水没し、大勢の犠牲者が出た。

 

  

慰霊所。

庁舎の周囲は公園にする工事が行なわれている。

 

語り部バスの乗客はここで黙祷を捧げる。

 

続く

 

 

 


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南三陸の旅 2 戸村中学校

2019年03月21日 21時43分00秒 | 地震

 

被災地を巡る「語り部バス」に乗った。

 

高台に建つ戸村中学校。

この1階にまで波はやって来て、数名の方が亡くなった。

時計は2時48分で止まっている。

2時46分の地震のあと、2分間電気は流れていたことが分かる。

この中学は2011年に廃校になった。 今は公民館として利用されている。

時計はそのままにされるようだ。

 

学校脇には2体のモアイ像が立ち

 

 

津波の来た方向を見据えている。

 

 

かつての住宅地は一面の原野になり、ただでさえ過疎の地域での復興の難しさを物語っている。

 

続く

 

 


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南三陸の旅 1 戸村小学校

2019年03月16日 17時54分31秒 | 地震

  

震災後初めて訪れた志津川湾の夕景。

 

日の出。午前4時51分。

あの日、この海が20mも盛り上がったとは信じられない。

 

 

南三陸町でも特に被害が大きかった戸村地区。

奥の高台の家の1階まで津波に襲われた。

今はすっかり草原になった場所に戸村小学校があった。

地震のあと、校長先生の英断で児童はすべて高台まで避難。

さらに右の小山の五十鈴神社まで登った。

 

児童たちはこの小さな神社とその周りで寒い夜を明かした。

低学年の子が眠らないように、高学年の子は卒業式のために練習した「旅立ちの日に」を何度も歌った。

そして全員が助かった。

6年生は卒業式が出来ずに中学生になった。

5ヶ月後の8月、改めて卒業式が行われた。

そこに歌手の川島愛さんがサプライズ出演して、「旅立ちの日に」をみんなで合唱したという。

 

 続く


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14時46分 黙祷

2018年03月11日 22時26分30秒 | 地震

 

 

3月11日、14時46分。

仙台ではサイレンが鳴り、各所で黙祷が行なわれる。

 

皆、海の方角に手を合わせる。

 

 

震災から7年。

 

いろんな悲しみがあった。

 

私たちは1日1日それに耐え、少しずつだが前を向いて歩いてきた。

 

それを誇りに思って良いと思う。

 

 

3月は多くの命が奪われ、ナナ、ダイスケが天に召された悲しみの月。

 

 


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荒浜(仙台市若林区) 2016年8月

2016年08月14日 22時39分59秒 | 地震

 

お盆に仙台市若林区の荒浜を訪ねた。

震災から5年たっても海岸周辺はこの通り。

押しつぶされた金属のネットがそのまま転がっており、立ち枯れた樹木は今でも海から陸側に傾いている。

 

 

海に背を向けて、立派な白御影石製の観音像が立っていた。

 

「荒浜慈聖観音」と刻まれた観音像は平成25年3月11日に完成。

土台も含めた像の高さは約9メートルで、ほぼ津波の高さだとのことです。

 

右手にある慰霊碑は高さ1.7メートル、幅2.4メートルの黒御影石製です。

この地区で津波の犠牲になった190名の方のお名前が彫られています。

お名前と一緒に年齢も刻まれている。

「2歳」という年齢が胸を突く。

 

廃校になった荒浜小学校。

平成28年3月31日をもって閉校,4月1日より仙台市立七郷小学校と統合した。

 

4階建ての同小は津波で2階まで浸水、児童や近隣住民約300人が屋上などに避難して助かった。

校舎については県の有識者会議が、「学校と集落がセットで残った遺構はこれだけで、津波がそこにあった生活や伝統も破壊することを知る上でも貴重」と評価。

仙台市は2015年春、保存を決めた。 

 

8月20日の16時、灯篭流しが行われます。 

 

IRODORI(彩)せんだい

東北生活文化大学が行っている農地復興、再生プロジェクト。

同時に、ボランティアの人材育成も行おうというグループ。

黄色いハンカチは荒浜に残りたい希望を表現している。

 

夕暮れの荒浜地区。

5年前まで800世帯の街並みがあったとは信じられない。

県道10号線より海側は居住禁止になった。

 

 


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「三月を愛さない」 照井翠

2016年03月11日 14時46分00秒 | 地震

「三月を愛さない」  

ここ被災地では、私達は三月を愛さないし、

三月もまた私達を愛さない。

 

三月は凄惨な記憶を蘇らせ、私達の心をずたずたに引き裂く。

二月の後が、すぐに四月であったならと思う。


            照井翠 「釜石の風」より

 


照井翠(てるいみどり)

大震災を題材に俳句を詠む。1962年生れ。岩手県生れ。岩手県遠野市在住。高等学校教諭。俳歴17年。
平成2年「寒雷」入会。以後加藤楸邨に師事。同年「草笛」入会。
5年「草笛」同人。8年「草笛」新人賞、「寒雷」暖響会会員(同人)。
10年第一句集「針の峰」上梓。
13年「草笛賞」優秀賞受賞、第二句集「水恋宮」上梓。
現代俳句協会会員。

 


照井 翠 『龍 宮』 自選五十句


  喪へばうしなふほどに降る雪よ


  津波より生きて還るや黒き尿


  泥の底繭のごとくに嬰と母


  双子なら同じ死顔桃の花


  春の星こんなに人が死んだのか


  なぜ生きるこれだけ神に叱られて


  毛布被り孤島となりて泣きにけり


  津波引き女雛ばかりとなりにけり


  朧夜の泥の封ぜし黒ピアノ


  つばくらめ日に日に死臭濃くなりぬ


  石楠花の蕾びつしり枯れにけり


  気の狂れし人笑ひゐる春の橋


  もう何処に立ちても見ゆる春の海


  しら梅の泥を破りて咲きにけり


  牡丹の死の始まりの蕾かな


  春昼の冷蔵庫より黒き汁


  三・一一神はゐないかとても小さい


  唇を嚙み切りて咲く椿かな


  漂着の函を開けば春の星


  ありしことみな陽炎のうへのこと


  花の屑母の指紋を探しをり


  卒業す泉下にはいと返事して


  骨壺を押せば骨哭く花の夜


  屋根のみとなりたる家や菖蒲葺く


  ほととぎす最後は空があるお前


  蜉蝣の陽に透くままに交はりぬ


  初螢やうやく逢ひに来てくれた


  蟇千年待つよずつと待つよ


  同じ日を刻める塔婆墓参


  流灯にいま生きてゐる息入るる


  大花火蘇りては果てにけり


  人類の代受苦の枯向日葵


  片脚の蟻くるくると回りをり


  すすきに穂やうやく出でし涙かな


  鰯雲声にならざるこゑのあり


  柿ばかり灯れる村となりにけり


  死にもせぬ芒の海に入りにけり


  半身の沈みしままや十三夜


  廃屋の影そのままに移る月


  迷ひなく来る綿虫は君なのか


  雪が降るここが何処かも分からずに


  太々と無住の村の青氷柱


  釜石は骨ばかりなり凧


  寒昴たれも誰かのただひとり

  春の海髪一本も見つからぬ

   浜いまもふたつの時間つばくらめ


  亡き娘らの真夜来て遊ぶ雛まつり


  なぜみちのくなぜ三・一一なぜに君


  ふるさとを取り戻しゆく桜かな


  虹の骨泥の中より拾ひけり


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「春を恨んだりはしない」 池澤夏樹

2016年03月07日 21時37分00秒 | 地震

 

あの日、私たちは天に叫び、地に泣いた。

 

5年経った今日、東京ではあの震災はほぼ「終わったこと」になりつつあるらしい。

仙台にいる自分でさえ、あの日を思い出さない日もある。

時間がたつほど、被災地から離れるほど、記憶が薄れるのは仕方がないことだとは思う。

しかし・・・ 

 

震災の報道で日本のメディアは一切遺体を映さなかった。

津波のライブ中継では、波にのまれる人と車が映ったらしいが、後の映像ではそれは跡形もなくなっていた。

大量に出版された震災本には、瓦礫はあっても人は映っていない。

それは死者に対する礼儀だったとしても、極めて不自然だった。

 

テレビ局、出版社には遺体を修正する専門の係りがあるという。

それは本当のことを伝えていると言えるのか。

 

盗人は家財のすべてを持っては行かない。

火事だって燃えたもの、燃え残ったものはそこにある。

津波の酷さは、建物も人も想い出も、そこにあるもののすべてを押し流したことだ。

 

泥の中にアルバムがあり、ランドセルがあり、人間が手だけを出していた。

ガスボンベが音を立てて噴出し、車の中、家の中ではたいてい人が亡くなっていた。

木の上にくの字型の遺体があった。

 

消防、警察、自衛隊、医療者、検視医、役場関係者、遺族、葬祭業者、解体業者は無数の遺体を見た。

そこは異界であり、テレビ、写真が報じたものとは別の世界だった。

 

被災地では何よりも先に遺体が収容された。

ときには生存者の救出より優先された。

それは死に対する畏れであり、生き残ったことの後ろめたさである。

 

波に巻き込まれた人、家族を失った人、遺体を見た人、見なかった人。

だからそういう人たちの間には見えない壁が出来ただろうと考えていた。 

 

その直後の春、桜は慟哭の中、いつものように咲いたが、いつものようには美しいと思えなかった。

あと何回見られるかと大事に数えてきた花が、薄いベールをかぶっているように感じた。

 

しかし翌年、桜はやはり美しいと思えた。

心が以前と同じように戻って来たのだろう。

それに比例して震災を思い出すことが少なくなった。

まだ苦しんでいる人がいるのに。

 

自分も忘れ始めているのに、もっと忘れている人は許せない。

震災以来、整理できないでいた思いだ。

 

 

 

自分が戸惑ったと同じ感情を、池澤夏樹の「春を恨んだりはしない」の中に見つけた。

この作家は静かな言葉で条理を尽くす。  

 

春を恨んだりはしない -震災をめぐって考えたこと-  池澤夏樹

2011年9月11日 中央公論社

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日本のメディアは死体を映さなかった。本当に人が死んでゆく場面は巧みに外されていた。カメラはさりげなく目を背けた。

しかし、遺体はそこにあったのだ。

女川に「仮土葬場」という案内と標識があった。

雨に濡れた地面の下に亡くなった人たちがいる。冷たい地面の中で、その地面と同じ温度になってしまっている。もう生き返ることはない。

あの頃はよく泣いた。あの時に感じたことが本物である。薄れさせてはいけないと繰り返し記憶に刷り込む。

津波の映像を何度となく見直し、最初に見たときの衝撃を辿り直す。

しかし背景には死者たちがいる。そこに何度でも立ち返らなければならないと思う。

遺体の捜索に当たった消防隊員、自衛隊員、警察官、医療関係者、肉親を求めて遺体安置所を巡った家族。たくさんの人たちがたくさんの遺体を見た。

彼らは何も言わないが、その光景がこれからゆっくりと日本の社会に染み出してきて、我々がものを考えることの背景となって、将来のこの国の雰囲気を決めることにならないか。

死は祓えない。祓おうとすべきでない。

さらに我々の将来にはセシウム137による死者たちが待っている。

撒き散らされた放射性の微粒子は身辺のどこかに潜んで、やがては誰かの身体に癌を引き起こす。

ういう確率論的な死者を我々は抱え込んだわけで、その死者は我々自身であり、我々の子であり、孫である。この社会は市の因子を散布された。

放射性物質はどこかに落ちてじっと待っている。我々はヒロシマ・ナガサキを生き延びた人たちと同じ資格を得た。

今も、これからも、我々の背後には死者たちがいる。

 

震災以来ずっと頭の中で響いている詩がある。

ヴィスワヴァ・シンボルスカの「眺めとの別れ」。

その最初のところはこんな風だ・・・

 


またやって来たからといって

春を恨んだりはしない

例年のように自分の義務を果たしているからといって

春を責めたりはしない

わかっている わたしがいくら悲しくても

そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと

 

これはシンボルスカが夫を亡くした後で書かれた作品だという。

この春、日本ではみんながいくら悲しんでも緑は萌え桜は咲いた。

我々は春を恨みはしなかったけれども、何か大事なものの欠けた空疎な春だった。桜を見る視線がどこかうつろだった。

古歌の「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け」を思い出したのは当然の連想だったろう。桜の華やかさは弔意にそぐわない。

 

春を恨んでもいいのだろう。自然を人間の方に力いっぱい引き寄せて、自然の中に人格か神格を認めて、話しかけることができる相手として遇する。

それが人間のやり方であり、それによって無情な自然と対峙できるのだ。

来年の春、我々はまた桜に話しかけるはずだ、もう春を恨んだりはしないと。

今年はもう墨染めの色ではなくいつもの明るい色で咲いてもいいと。

 


日本の国土は世界でも珍しい四枚のプレートの境界の真上にあり、世界の地震の2割は日本で起こる。

こういう国土で暮らす我々は、自然と対立するよりも「受け流して再び築く」という姿勢を身に着けてきた。


わたしたちは攻撃しない。

わたしたちは執着しない。


意識しないで生きてきたけれど、この姿勢は日本で暮らす必然の知恵、本能に近いものだったのかもしれない。

 


 

池澤さんの文章は静かだ。

私が訪れた被災地も静かすぎて、静寂の音が聞こえるようだった。

3月11日の死。

そして、それから累々と続く死と悲しみ。

これらをすべて忘れないこと。

 

今も、これからも、我々の背後には死者たちがいる。

死をまっすぐに見つめる。

眠りではなく二度と蘇ることのない死を受け入れる。

 

忘れてはいけない。

悲しみの始まりの場所のことを。


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野蒜駅 2014.08.17-3

2014年09月11日 15時35分51秒 | 地震

 

 

東名運河は土手が壊れたまま。

 

これは震災直後↑

 

土手の松は津波で傾いたままになっている。

波の進行方向がよく分かる。

 

完全に瓦壊した土手にはとりあえずの土嚢が積まれた。

風光明媚なところです。

リタイヤしたらこの辺りに住みたいと思っていた。

 

野蒜小学校。

惨事のあった体育館は撤去された。

 

野蒜小学校前の線路。

「もう電車は来ない」

と決まって、線路上にスーパーハウスが建てられた!

 

 

手入れをしないと、3年余りでこのように草ぼうぼうになってしまう。

 

45号線を南下。

被害の少なかった松島はこの賑わい。

 

仙台~松島までは復興著しいが、東松島、石巻、女川、南三陸、気仙沼はまだまだ。

仙石線の全線開通が待たれる。

 

 


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野蒜駅 2014.08.17-2

2014年09月08日 14時30分46秒 | 地震

 

海岸から北に向かい、野蒜駅に出た。

駅舎は津波で1階が大破したが、修復されていた。

しかし、あの日以来電車は来なくなり、廃駅となった。

駅の右側に隣接していたYamazaki Daily は更地になっていた。

 

駅だった建物は「地域交流センター」となった。

しかしいまだに「野蒜駅」の表示がある。

仙石線は内陸側に移設されることが決まり、野蒜駅と東名駅は廃駅となる。

新しい野蒜駅が完成する日までは、ここが野蒜駅なのだろう。

 

駅中にファミリーマートが出来た。

駅中のコンビニとは言っても、廃駅ではお客さんは少ない。

 

飲食・談話スペースもある。

周辺に全く店がないので、このスペースは貴重だ。

 

自衛隊が撮影した震災時の写真が展示されている。 

 

野蒜駅の被害。

 

東名の被害。

私の知り合いの家が写っていたのでびっくり。

 

橋の手すりは壊れたまま。

子供は落ちそうで危険。

 

ホームはそのままだが、線路は撤去された。

 

 


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