daisukeとhanakoの部屋

わが家の愛犬 daisuke(MD、13歳)とhanako(MD、6歳)の刺激的仙台生活

チェレンコフ光

2011年05月02日 17時42分55秒 | 地震

その青白い光が出るときは、紙の束で机をたたくようなバシッという音がするという。
それは原子炉が臨界に達した時に現れ、見た人は早晩死ぬことになっている。

12年前、茨城県東海村の株式会社JCOが起こした原子力事故を覚えていますか。(JCOは日本核燃料コンバージョン。JOCは日本オリンピック委員会。)

1999年9月30日、JCOの核燃料加工施設内で核燃料を加工中に、ウラン溶液が臨界状態に達し核分裂連鎖反応が発生。これにより至近距離で中性子線を浴びた作業員3名中、2名が死亡した。国際原子力事象評価尺度(INES)でレベル4の事故にあたる。

9月30日10時35分、転換試験棟で警報。
事故の第一報は「てんかんの急病人が出た」というものだった。これが「転換試験棟での事故」の聞き間違い、と分かるまで時間がかかった。

11時52分に被曝した作業員3名を搬送するため救急車が出動。

東海村から住民に対し屋内退避を呼びかける広報が始まったのは12時30分から。
次いで事故現場から半径350m以内の住民約40世帯への避難要請、500m以内の住民への避難勧告、10km以内の住民10万世帯(約31万人)への屋内退避および換気装置停止の呼びかけ、現場周辺の県道、国道、常磐自動車道の閉鎖、JR東日本の常磐線水戸 - 日立間、水郡線水戸 - 常陸大子・常陸太田間の運転見合わせ、陸上自衛隊への災害派遣要請といった措置がとられた。

 

本事故の原因は、高速増殖炉の研究炉「常陽」用核燃料を加工を担うJCOのずさんな作業工程管理にあった。
JCOは燃料加工の工程において、国の管理規定に沿った正規マニュアルではなく「裏マニュアル」を運用していた。

原料であるウラン化合物の粉末を溶解する工程において、正規マニュアルでは「溶解塔」という装置を使用するという手順だったが、裏マニュアルではなんと、ステンレス製バケツを用いた手順に変えられていた。

事故当日はしかし、この裏マニュアルをもさらに改悪した手順で作業がなされていた。
つまり、最終工程である製品の均質化作業で、臨界状態に至らないよう形状制限がなされた容器を使用するところを、作業の効率化を図るため、背丈が低く内径の広い、冷却水のジャケットに包まれた容器(沈殿槽)に変更していたという。

その結果、硝酸ウラニル水溶液を(不当に大量に)貯蔵した容器の周りにある冷却水が中性子の反射材となって、溶液が臨界状態となり、中性子線等の放射線が大量に放射された。これは制御不能の原子炉が出現したようなものである。
ステンレスバケツで溶液を扱っていた作業員の一人は、「約16kgのウラン溶液を溶解槽に移している時に青い光が出た」と語った。

事故発生当初、JCO職員は誰も臨界状態を収束させるための作業をしなかった。(逃げることしか頭になかった。)

国からの代理人が「あなた達でやらなければ強制作業命令を出す」と促した。

その結果、「うちが起こした事故はうちで処理しなければならない」と覚悟を決めた同社職員らが数回に分けて内部に突入。冷却水を抜く、ホウ酸を投入するなどの作業を行い、連鎖反応を止めることに成功した。

中性子線量が検出限界以下になったのが確認されたのは、臨界状態の開始から20時間経った、10月1日の午前6時半だった。

この事故では3名の作業員が多量の放射線(中性子線)を浴びた。作業員らはヘリコプターで放射線医学総合研究所へ搬送され、うち2名は造血細胞の移植のため東大病院に転院し、集中治療がなされた。

短時間に8シーベルト以上の被曝をした場合には、最新の医療でもほとんど手の施しようがなく、当初から回復は絶望視されていた。

16-20シーベルトの被曝をした作業員A(当時35歳)は染色体が破壊され、新しい細胞ができない状態となる。まず白血球が生成されなくなったため、実妹から提供された造血細胞の移植が行われ成功したものの、経過と共にその細胞の染色体にも異常が発見され、一旦増加の傾向をみせた白血球数が再び減少に転じた。

事故から約2ヵ月後、この作業員は心停止状態に陥った後に蘇生したものの、心肺停止によるダメージから臓器の機能が著しく低下。事故から83日後、多臓器不全により死亡した。

彼の被曝量は致死量を越しており、入院時から死は時間の問題であったが、本人は「いつ頃退院できるでしょうね?」とのんきに聞いていたという。

6~10シーベルトの被曝をした作業員B(当時40歳)は、造血細胞の移植が一定の成果をあげ、一時は警察への証言を行うまでに回復した。しかしその後容態が急変。事故から211日後の翌2000年4月27日に多臓器不全で死亡した。

推定1~4.5シーベルトの被曝をした作業員C(当時54歳)は、一時白血球数がゼロになったが、放医研の無菌室において骨髄移植を受け回復。12月20日に放医研を退院した。

被曝した3人は臨界の意味さえ分からず、どれだけ危ない仕事をしていたかという自覚もなかった。ウラン濃縮加工という危険な作業を、彼らは風呂の水汲み同然の杜撰さで行なって、いや、行なわされていた。

収束作業を行なった7人が年間許容線量を越える被曝をし、事故の内容を十分知らされずに駆け付けた救急隊員3人の2次被曝が起こった。最大の被曝は120ミリシーベルトで、50ミリシーベルトを超えたものは6名だった。さらに周辺住民207名への中性子線等の被曝も起こった。最大は25ミリシーベルト、年間被曝線量限度の1ミリシーベルト以上の被曝者は112名だった。被曝者総数は667名であった。


日本の原子力史上、初めての死者を出したこの事故は日本社会特有の無責任体制と自己保身、隠蔽体質の結果である。

日本人が原子力を扱うことが無理だと教えている事故である。

 

 

これを書き終わったとき、下記のニュースが飛び込んで来ました。

2011.5.2 19:34
 日本原子力発電は2日、運転中の敦賀原子力発電所2号機(福井県敦賀市、出力116万キロワット)の1次冷却水の放射性物質(放射能)濃度が上昇していると発表した。規制値を大幅に下回る値だが、核燃料から漏れだしている疑いがあるとして今後、原子炉の運転を停止して調べる。同社では、東海第2原発が地震で、敦賀原発1号機が定期点検でそれぞれ停止中。両機が再開しないままだと保有するすべての原発が停止することになる。

 

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1 コメント

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はじめまして (Hakka)
2011-05-04 07:47:26
nanaさんのブログから来ました。

現在は仙台市民ですが、3.11の地震当時、私は茨城県日立市にいて被災しました。
当時は、当然ライフラインが全て止まり、仙台含む東北の惨状を知ったのは、翌日の夕方に配布された新聞を見て…でした。
ダンナからは、津波で荒浜が壊滅状態と聞いてはいましたが、自分の目で見てないので信じ難く…
転勤族育ちの私が一番長く住み、故郷は?と聞かれたら“仙台”と答えるくらい大好きな町がこんな事に…と、戻ってきた今も悲しみは消えません。

日立は、福島と東海の原発に挟まれているので、とても心配です。
現在の30㌔圏内の原町区(南相馬市)には、親しい方もいます。
でも、何もしてあげる事は出来ず、ただただ無事を祈る事しか出来ません。

初めて来たのに、長文で失礼いたしました。
もし良ければ、私もブログ書いてるので遊びに来て下さい。

http://blog.goo.ne.jp/hakka105?guid=ON
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