南三陸町の中心部。八幡川の護岸整備が進む。
賑わっていた港周辺はまだこの通り。
病院には小児科がなく、交通も買い物も不便。
若い世代が復興を待てずにどんどん町を離れている。
若い世代がいなければこの町はいずれ消滅する。
防災対策庁舎。
屋上まで水没し、大勢の犠牲者が出た。
慰霊所。
庁舎の周囲は公園にする工事が行なわれている。
語り部バスの乗客はここで黙祷を捧げる。
続く
南三陸町の中心部。八幡川の護岸整備が進む。
賑わっていた港周辺はまだこの通り。
病院には小児科がなく、交通も買い物も不便。
若い世代が復興を待てずにどんどん町を離れている。
若い世代がいなければこの町はいずれ消滅する。
防災対策庁舎。
屋上まで水没し、大勢の犠牲者が出た。
慰霊所。
庁舎の周囲は公園にする工事が行なわれている。
語り部バスの乗客はここで黙祷を捧げる。
続く
被災地を巡る「語り部バス」に乗った。
高台に建つ戸村中学校。
この1階にまで波はやって来て、数名の方が亡くなった。
時計は2時48分で止まっている。
2時46分の地震のあと、2分間電気は流れていたことが分かる。
この中学は2011年に廃校になった。 今は公民館として利用されている。
時計はそのままにされるようだ。
学校脇には2体のモアイ像が立ち
津波の来た方向を見据えている。
かつての住宅地は一面の原野になり、ただでさえ過疎の地域での復興の難しさを物語っている。
続く
震災後初めて訪れた志津川湾の夕景。
日の出。午前4時51分。
あの日、この海が20mも盛り上がったとは信じられない。
南三陸町でも特に被害が大きかった戸村地区。
奥の高台の家の1階まで津波に襲われた。
今はすっかり草原になった場所に戸村小学校があった。
地震のあと、校長先生の英断で児童はすべて高台まで避難。
さらに右の小山の五十鈴神社まで登った。
児童たちはこの小さな神社とその周りで寒い夜を明かした。
低学年の子が眠らないように、高学年の子は卒業式のために練習した「旅立ちの日に」を何度も歌った。
そして全員が助かった。
6年生は卒業式が出来ずに中学生になった。
5ヶ月後の8月、改めて卒業式が行われた。
そこに歌手の川島愛さんがサプライズ出演して、「旅立ちの日に」をみんなで合唱したという。
続く
犬と暮らす日々
宮城県小児科医会報3月号に「犬と暮らす日々」が掲載されました。
色彩を失くした晩秋の庭に黄色い石蕗が咲き誇る。
ミニチュアダックスフント(MD)のハナコは縁側で横になり、日向ぼっこをしている。
さっきまで孫たちと走り回っていたが疲れたらしい。
ハナコは生まれて2か月でわが家に来たが、もう11歳になった。
人間の年齢でいえば還暦である。
数えてみたら自分は40年ほど犬と一緒に暮らしている。
飼った犬は全部で4匹。3匹はもういない。
最初に飼ったのは小学校3年の時。
オスの雑種で名前はコロといった。
同級生のTさんの犬だったが、Tさん一家が引っ越して行く際にわが家に置いて行ったのだ。
コロはリードを付けたまま逃げ出したことがあった。もしかして、とTさんの家を見に行ったら、空き家の玄関にちょこんと座っていた。
ずいぶん可愛がったつもりだったが、心から懐くことはなかったように思う。
夜になるとコロはずっとTさんの家の方向を見ていた。
ある冬の朝、コロは冷たくなっていた。まだ5歳だった。
コロは前日まで元気だったのであるいは凍死だったかもしれない。
何より一人で逝かせてしまったという悔いが残った。
当時、犬の予防接種といえば狂犬病だけだったし、ドッグフードも手に入らなかった。
犬はほとんど外飼いでよく蚊に刺された。
フィラリア予防の薬もない時代では飼い犬が10歳まで生きることは稀だった。
その後しばらくわが家で犬を飼うことはなかった。
それから20年ほど経ったある日、知り合いから、黒柴の子が生まれたのでもらってくれないかと頼まれた。
「見に行くだけ」という約束だったのに、動物好きの次女がメスの1匹を抱きしめて離さなくなった。
仕方なく連れて帰り、そのまま飼うことになった。それがナナである。
何も準備していなかったので慌てて犬小屋を買いに走った。
次女は犬小屋に入って一緒に寝たりしていた。
子犬は見目麗しく成長し、町内一の美犬と言われるようになった。
子供らが幼稚園から小学生の頃だったので、一緒にキャンプにも行ったりもした。
11歳の時乳がんが見つかり手術を受けた。病状は一旦落ち着いたが、肺転移により呼吸が困難になった。
自宅に酸素ボンベとテントを持ち込み、家人が交代で看護をしたが力尽きた。12歳だった。
3番目に飼ったのがオスのMDで名前はダイスケ。
新聞店で飼われていたが、そこの奥さんが重度の犬喘息になった。
大学病院で犬を隔離するように指示され、わが家に連れて来られた。
「お宅で断られたら明日保健所に連れて行きます」と懇願されては断れず、ナナと2頭飼いになった。
初めての家で遠慮するどころか、天真爛漫、いたずら好きだった。
家人の靴を玄関から持って来るのは毎日。風呂場を走り回って浴槽に落ちたり、台所にあった生の牛肉300gを盗み食いしたりもした。
発砲スチロールの箱をかじって穴を開け、粉々にした。
道に落ちているものは何でも食べるので散歩のときは油断できなかった。
落ちていた冷却剤らしいものを飲み込んだことがある。
かかりつけのO先生に、腸閉塞を起こしたら手術です、と脅かされたが、翌日何事もなく排泄された。
やや気難しいナナとも3年間仲良く暮らし、一番上の孫の良い遊び相手になっていた。
15歳の時、急に後足の筋力が衰え、立ち上がることができなくなった。
O先生によれば老化であり、治療はないとのことだった。
筋力の衰えは日々進行し、やがて前足にも力が入らなくなった。
立てなくなってから3か月目、水を飲ませたときに咳き込み、そのまま呼吸が止まった。
現在わが家にいるハナコは4番目の犬である。近所の家でメスばかり5匹生まれた中の次女。
ダイスケとは9年間一緒に過ごした。
賢い犬で、ケージに鍵をかけても中から口で鍵を外して脱出することを覚えた。
孫と一緒によく昼寝をしていた。
ダイスケのことが大好きで、ダイスケ亡きあとしばらくの間「クーン、クーン」と悲しげに泣いていた。
一人になってからは全く声を出さない日もある。
家族の真ん中に子犬がいた。
談笑する家族の中で犬たちも笑っていた。
家人が帰って来るとちぎれんばかりに尾を振って迎えた。
子供と犬が姉弟のように庭を駆け回っていた。
寒い夜にはどの犬も布団の中にもぐりこんで来た。
私たち夫婦は若かった。子供たちも若かった。
楽しい記憶にはいつも犬が一緒にいた。
やがて子供は成長して家を出て行き、あとには老いた親と老いた犬が残された。
犬は時々いたずらをするが、嘘をついたり人をだましたりはしない。
毎日餌と水をもらわなければ生きられない存在だが、事故で足が不自由になっても悲観することなく、あるがままに歩こうとする強いところも持っている。
犬にとって時間は人間の7倍の速度で流れて行く。
人の1年は犬にとって7年に相当し、これをdog yearと呼ぶ。
初めは子犬でもあっという間に飼い主を追い越して老犬になって行く。
「老犬たちの涙」(児玉小枝著、KADOKAWA、2019)という本によると、行き場をなくして行政施設に連れてこられた犬たちは、「新しい引き取り手の現れる可能性が低い順に」致死処分に回される。
「可能性が低い」とは「老犬」と同意である。
犬を行政施設に連れてくるのは60歳を過ぎてから犬を飼った人、すなわち定年退職、子育て終了などをきっかけに犬を飼い始めた人たちなのだそうだ。
子犬との生活は最初楽しいが、10年もたつと犬も自分も年を取り、病気になったり介護生活になったりする。
そして子供にも知り合いにも老犬の引き取りを拒まれる。
年を取って引き取りを嫌がられるのは人も犬も同じである。
新しい犬を飼い始めるのは50歳まで、そしてハナコが最後の犬、と私は決めている。
わが家では犬を「買った」ことがない。
4匹とも縁あってもらわれて来た犬たちである。
幸いにわが家の家族は誰もが犬好きだった。
コロ以外の3匹はわが家に来て幸運だったのではないかと思っている。
犬には個性がある。頭が良いはずの犬種を選んでもそうでない子にあたることもある。
「マーリー ~世界一おバカな犬がおしえてくれたこと~」(ジョン・グローガン、早川書房、2009)はそんな犬との生活を綴った本である。
どの本にも「ラブラドール・レトリバーは気質は愛らしく穏やかで、子供にやさしく、攻撃性とは無縁。陽気で楽しく、頭が良く臨機応変さは救助犬、盲導犬にも最適」と書いてある。
ところがジョン・グローガンのところにやってきたレトリバーは、落ちているものを何でも飲み込み、網戸は必ず破って出入りする。
大好きな人には体当たりして吹っ飛ばし、留守番をさせればゴミ箱をあさり、家具の足を食いちぎる。
マーリーと名付けられたそのレトリバーは、人間であればADHDと診断されるような犬であった。
しかし返品されかけたその犬と過ごした13年間は何物にも代えがたい宝石のような時間となり、マーリーが死んだ後には家族全員が涙を流し、長い間のペットロスに陥ったという。
思えばマーリーはダイスケとそっくりである。
そしてわが家の誰もがダイスケと過ごした日々を楽しく幸福だったと記憶し、懐かしみ、その頃に戻りたいと思っている。
わが家の歴史の区切りは昭和、平成ではなく、「ナナのいた時代」、「ダイスケのいた時代」、「ハナコの時代」となっている。
犬の名前は、koronanadaisuke @・・・、nanadaisukehanako@・・・のようにメールアドレスに残してある。
楽しい日々にも必ず終わりが来る。最後の時は犬を一人にしないでほしい。
一人で逝くのは犬でも寂しくてたまらないだろう。わが家でもナナとダイスケが旅立つときは24時間、ずっと誰かが付き添っていた。
The Ten Commandments of Dog Ownershipは、作者不詳のまま広く世界に伝わっている英文の詩で、日本では「犬の十戒」として知られている。ペットとして飼われることとなった犬と人間との望ましい関係を、犬が人間に語りかけるという形式で訴えている。
最後にその7項と10項だけを紹介したい。これから犬をパートナーにしようと考えている人のために。
7. 私を殴ったり、いじめたりする前に覚えておいて欲しいのです。私は鋭い歯であなたを傷つけることができるにもかかわらず、あなたを傷つけないと決めているのです。
10. 最後のその時まで一緒に側にいて欲しいのです。このようなことは言わないで下さい、「もう見てはいられない。」、「居たたまれない。」などと。あなたが側にいてくれるから最後の日も安らかに逝けるのですから。忘れないで下さい、私は生涯あなたを一番愛しているのです。
石巻のシンボル、日和山に登ってみる。
山から南側を見ると住宅地が丸ごと消えていた。
石巻市立病院など、コンクリートの建物だけが疎らに残る。
日和大橋は津波をかぶったがなんとか耐えたようだ。
津波とは単なる大波でなく、海底から海上までのすべての水の移動だと初めて知った。
今回の地震が放出したエネルギーは阪神大震災(M7.3)の1,450倍で、津波の遡上高は宮古市重茂姉吉地区で観測史上最大の40.4mに達した。
それにしてもなんという広さに波が来たことだろう。
山を降り、旧北上川の中瀬まで行く。
ここには岡田劇場、ハリストス正教会、石ノ森萬画館、料亭、マリーナなどがあり、石巻観光の中心だった。
地盤沈下で中瀬の大きさは一回り小さくなった。
160年の歴史があった岡田劇場は、基礎を残して跡形もなかった。
石ノ森章太郎が映画を観に中田町から自転車で通った劇場だった。
ハリストス正教会は明治13年に建てられた白亜の建物である。
外壁も内部も被害を受けたが、川の真中の木造の建物が倒壊しなかったのは奇跡といってよい。
萬画館は浸水したものの建物は無事だった。
現在は休館していて、中を見ることはできない。
全国から来た人たちの応援の書き込みがある。
川の東西をつなぐ内海橋は、押波と引波で上流下流から瓦礫がぶつかり、満身創痍となった。
震災直後は大量の漂流物と遺体が橋に引っ掛かっていた。
人々はそれを乗り越えて対岸に渡った。
河畔のプロムナードは柵が壊れ、川の水がベンチの下まで来ている。とてもくつろいで座ってはいられない。
南浜町は海も川も近い日当たりの良い住宅街だったが、1年経たずに草原に変わった。
240号線沿いには手作りの慰霊所があり、手を合わせる人が後を絶たない。
海から強い風が吹いて来る。風が吹くと悲しくなくても涙が出る。
門脇(かどのわき)小学校は由緒ある学校だ。
海岸から700mの距離にある。
建物は残っているが窓は破れ、壁には焼けた跡がある。
地震後、近隣住民が車で避難してきた。
7mの津波が車を押し流し、校舎に衝突させた。
衝撃でガソリンが発火。100台余りが次々に燃え上がり、校舎に引火、全焼した。
学校には児童もいたが、教員が教壇で橋を作って3階から裏山へ避難させた。
プールには今でも大量の海水が貯まっている。
小学校隣りの墓地では墓石が遺骨ごと押し流された。
葬られても死者は安眠を許されなかった。永遠のことなどないと知れば無常感はつのる。
市立病院は旧北上川、太平洋の両方に面して建ち、思えば危険な立地であった。
ここが機能していれば、石巻赤十字病院の負担は半分になった。
新しい市立病院は海から2km離れた石巻駅前駐車場に再建されることが決まった。
日和大橋を越え、女川方面に向かう。
240号線の中央分離帯に巨大な鯨大和煮の缶詰が転がっていた。タクシーを降りて写真を撮っている人がいる。
ここはちょっとした観光名所(?)になっているようだ。
この巨大缶詰は、「鯨の大和煮」からスタートした木の屋石巻水産のシンボルマークだった。
巨大缶詰には20t以上の魚油が入っていたが、元の場所から300mも北に流された。
缶詰はちょうど中央分離帯の真中で止まったため、交通の邪魔にならず撤去を免れた。
岸壁にあった同社は跡形もなくなったが、金華鯖の缶詰が工場跡の泥の中で見つかった。
その缶詰は掘り出されて、避難所の人たちの貴重な食料になったという。
女川街道を万石浦まで来た。
この辺りは万石浦の緩衝作用で津波被害は小さかった。
しかし地盤が80cm沈下したため海面が上昇し、道路と同じくらいの高さに見える。
場所によっては海岸線が数10mも後退した。海岸では浸水防止用の土嚢積みが黙々と行なわれている。
かつては防波堤の下に砂浜があり、潮干狩りもできた。震災後はアサリ採取用の造成干潟も砂州も干出しなくなり、岩礁から貝類が消えた。
満潮になるとマンホールや側溝から海水が逆流し、地区のほとんどが膝下まで浸水する。
台風と大潮が重なった場合、大洪水が懸念される。
沿道に「おさかな市場」が復活していた。
かつては女川港のマリンパルにあったが、津波で壊滅した。廃
業したドライブインを買い取ってここに再興したそうだ。
ホヤ、ナメタ鰈、鮭、カワハギ、金華鯖が安い。ヤリイカ5杯を800円で売っていた。
万石浦沿岸を走るJR石巻線は小牛田~石巻~女川を結んでいたが、現在石巻~女川間は運行されていない。
線路にはロープが張られて立ち入れない。
浦宿駅のホームは基礎の鉄筋がむき出しになった。その下を潮が満ちて行く。潮は刻々と急流になる。見ている間に線路が水没した。
未明、住民は潮が満ちる音で目を覚ますという。
昔、浦宿浜で漁師をしている友人を訪ね、この駅で降りたことがあった。友人の消息はここには書かない。
JRは石巻線の浦宿駅~女川駅間2.5kmのルートを山側に移転する予定だ。
ここは廃駅になる。鉄筋が錆びようが、レールが水没しようが、そのまま朽ちて行くしかないのだ。
万石浦を過ぎ、女川第一小学校脇の高台に出ると景色は一変した。
そこは土色の無人の荒野だった。
女川の中心部だった場所に車を停める。
木造の建物は一軒も残っていなかった。
破壊された鉄筋のビルが何棟か打ち捨てられている。海中に倒れたままのビルもある。
生涯教育センターは窓から車が入り込んだままになっている。
4階建ての商工会館は一時屋上まで水没した。
4人の職員が屋上に逃げた。4人はさらに給水塔に昇り、胸まで水に浸かりながら九死に一生を得た。
カーナビが「女川駅」と教える場所には何もない。駅舎もホームも、レールさえも、一切が何処かへ流失して瓦礫になった。
鷲神浜はSさんの実家があった場所である。
浜は広い更地になっていた。Sさんの母親の遺体は、実家から300mも離れた路上で発見された。
マリンパルは津波で建物全体が水没した。
敷地は水が引かず、そのまま海とつながった。沈み行くヴェネツィアのようである。
違うのは、あたりに人影がまったくないことだ。高さ 6mの防波堤は何の役にも立たなかった。
遠くの高台に女川町立病院が見える。町立病院は海抜18mに位置するが、驚くことに津波は病院1階の1.9mの高さにまで来た。
女川の津波は地震の僅か30分後に襲来した。
その高さは海抜20.3mに達し、16mにあった病院駐車場を飲みこんだ。
駐車場には多くの供花がある。はるか下に海を見降ろす場所である。
ここまで波が来たことも、ここで海を見ていた4人が亡くなったことも、とても想像が及ばない。
病院の掲示には、内科・外科の診療は月~金の午前中だけ、整形・小児科・眼科・皮膚科は週1回、半日だけ、とある。
福島第一原発は5.7mの津波を想定し、海抜10mに建てられた。そこに14mの津波が来て炉心溶融に至った。
女川原発は震源に最も近い原発だった。
想定した津波は9.1mだったが、安全を見込んでそれより5.7m高い海抜14.8mの場所に建設された。
大地は地震で1m地盤沈下し、原発は海抜13.8mに下がった。そこに押し寄せた津波は13m。
差引き僅か80cmの差で、女川はオナガワと呼ばれることを免れた。
女川原発と仙台駅の直線距離は56km、女川原発と石巻駅のそれは僅か17kmである。
波の来方によっては、仙台はセンダイに、石巻はイシノマキになっていた。
「その屍たるや通路に満ち、沙湾に横たわり、その酸鼻言うべからず。晩暮の帰潮にしたがって湾上に上がるもの数十日。親の屍にとりついで悲しむ者あり、子の骸を抱きて慟する者あり、多くは死体変化して父子だもなお、その容貌を弁ずに能わざるに至る。頭、足その所を異にするにいたりては惨の最も惨たるものなり」
これは岩手県気仙郡綾里村村誌に書かれた明治三陸津波の記録である。この津波は、明治29年6月15日、午後8時7分に襲来した。地震自体は震度2~3と軽度であったことで逆に避難が遅れた。
「入浴中の19歳の女性が風呂桶ごと流されたが助かった」と新聞は伝えた。
死者・行方不明者の合計は21,959人。沿岸部の住宅地は壊滅した。
当時にあっても民家を高台へ移動することは不可能ではなかったが、三々五々、元の敷地に家屋が再建され、ついには津波前と同じ集落が形成されてしまった。
そして昭和8年、昭和三陸津波で再び大きな被害を被ることになる。
それは3月3日午前3時に襲来した。深夜であったため、人々は津波の来襲に気づかず、逃げる方向も何も分からなかった。
生存者は「寝ていたら、いきなり唐紙を破って水の塊が入ってきた」と口々に言った。
震度は5で、地震被害は軽度だったが、津波の被害は甚大だった。死者・行方不明者合計は3,064人に達した。
このとき壊滅した集落もまたぞろ同じ場所に修復され、今回の震災を迎えた。
人々が同じ場所に家を再建した理由は、先祖から継承した土地への愛着であり、浜に近いことが漁業に便利であったからであり、津波は天の定めとする諦観のせいであった。
東日本大震災の死者・行方不明者は、19,185人である。
今度こそ高台移転は叶うだろうか。
被災の記憶は一世代と持たないのである。
海を住まいとした先輩は亡くなり、陸(おか)を住まいとしたした自分は助かった。
先輩に「死ぬべき理由」はなかったし、自分に「生かされる理由」もなかった。
あの日の朝、空は澄んで、微風は春の気配を運んでいた。
早春の一日は平穏に過ぎて行くはずだった。
犠牲者の中で、何時間か後、自分が津波で死ぬと思った人は一人もいなかっただろう。
生と死は偶然の結果であるが、両極ではない。生と死はいつも薄紙を挟んで隣り合っている。