震災から12年目を迎え、広瀬文化センターロビーで「新聞報道の六日間」という展示が行なわれている。
震災後に生まれた人の人口に占める割合が、早くも1割を超えたそうだ。
どんな大災害でも風化するスピードは驚くほど速い。
3月12日の河北新報朝刊。わが家にもまだ取ってある。
1枚だけ(4ページ)だったが、震災の翌朝によく届いたものだ。チラシが入っていた。前々日に用意したものだろう。こんな日はチラシでも嬉しく、丹念に読んだ。
停電だったので、新聞は明るいうちしか読めなかった。
3月12日の夕刊。
日刊スポーツは2面ぶち抜きの写真。
この頃から原発の不安が増して行く。
整然とした被害者の行動は世界に称賛された。
電力不足による計画停電というのもあった。
東電は避難所まで停電にして怒りをかった。
東日本が放射能汚染で住めなくなるのでは、という恐怖に襲われた。
この頃は、もう東日本はだめだと思った。
いざとなれば家財道具を車に積み、とりあえず山形に避難する準備を始めた。
もう原発はこりごりと思ったが、今はまた耐用年数を伸ばし、再稼働し、新設さえ計画されている。
避難者の心を慰めたのは、炊き出しのおにぎりだった。