daisukeとhanakoの部屋

わが家の愛犬 daisuke(MD、13歳)とhanako(MD、6歳)の刺激的仙台生活

忘れない、あの日を、あの人を 8

2013年03月20日 14時46分00秒 | 地震

強い寒波が来ている。

今日の最高気温は2℃。

晴れてはいても12月の風は、時に風花を含んで頬を打つ。

年の改まる前に、と思い立ち、慰霊の旅を始めた。

今日は多賀城から北へ、被災地を行ける所まで行ってみよう。

 

栄2丁目交差点に廃車置場がある。

多賀城市内の流失車両がここに集められ、2段積みにされた。

ナンバーが付いたままの車もある。

瓦礫撤去をしているU建設のD君は話していた。

・・・車内で見つかる仏さまは、シートに腰かけた姿勢で硬直しておられる。葬儀屋さんは大したもんですよ。それをマッサージしてまっすぐにするんですから・・・

 

 

栄2丁目の廃車置場

 

Cさんは、3月初めに七ヶ浜に引っ越したばかりだった。

念願の新居が完成したのだ。4月から6歳の長女を亦楽小学校に入れる予定だった。

 

震災当日、Cさんは七ヶ浜の保育園に子供2人を預け、卸町の職場にいた。

地震に驚き、子供たちを迎えに行こうと45号線から23号線に入った。

 

対向車線には車が溢れ、誰もが必死で西を目指していた。

東に向かっているのは自分一人だった。

カーラジオは大津波の襲来を繰返し告げている。

みんな海から逃げて来ている、と分かって、身体が震えた。

前方から津波が押し寄せて来る幻影が見えた(実際、やって来ていた)。

警察官に東行きを止められ、心を残して引き返した。

 

その日は愛子の実家に戻ったが、心配で一睡もできなかった。

翌日、瓦礫を分けて保育園に行ってみると、子供たちが走って抱きついて来た。

保育園は高台にあったので津波が到達せず、保育士たちが一晩園児を守っていてくれたのだった。

 

あの時、無理して保育園に向かっていたら、正面から津波に突っ込むところだった。

新居は小高い場所にあったのが幸いし、あと5mのところで水は止まった。

Cさんが引き返した地点こそ、栄2丁目交差点だった。

 

 

七ヶ浜は冬でも比較的温暖で、夏は海水浴もできるので、別荘を建てる人も多かった。

しかし太平洋に面した住宅地は津波の直撃を受け、見渡す限りの原野になった。

菖蒲田浜海水浴場は堤防より陸側に水がたまって、そこも海のように見える。

 

海水浴場の松林は半分以上が倒れ、砂浜の大部分が海の底となった。

表札だけ残った家のブロック塀に、誰が供えたか、トミカの救急車が置かれていた。

 

 

ブロック塀に置かれた救急車

 

七ヶ浜を一周して塩竈に入る。

JR本塩竈駅も2mの波に襲われた。

昭和の雰囲気を残していた闇市商店街も壊滅状態となった。

ところどころに廃業した店、倒れたブロック塀などを見る。行き交う人も車も少ない。

 

すし哲は営業を再開していた。

親方は、「この歳でまた2000万円を借金した、ネタが地物でなくて済まんな」と苦笑した。

 

田里津庵は無事だった。

牡蛎焼処はプレハブ小屋で営業していた。

 

冬の松島湾は凪いでいる。海は空の青を映して美しい。

多くの島が防潮堤の役割をしたため、松島町の被害は軽微だった。

島のいくつかは崩れて、かつての姿を失った。

 

冬の松島湾

 

仙石線は、仙台~松島~高城町間で運行している。

高城町~矢本駅間が不通で、松島海岸~矢本駅間をバスが代行輸送していた。

仙台から松島まで電車が走っているせいか、観光施設は比較的賑わっていた。

 

東松島市は2005年に矢本町と鳴瀬町が合併して誕生した。

 新しい名称は皮肉なことに、今回の震災で全国に知れ渡った。

 

東名浜は潮干狩りの名所だったが干潟は干出しなくなり、海岸は赤土が露出した。

生態系は大きな影響を免れまい。

津波で裏返しにされた東名駅の鉄路は撤去されていた。

 

海の中に住宅が数軒立っている。

住宅地が海になってしまったのだ。

27号線沿いの野蒜の住宅街はほぼ全滅し、更地と化した。

 

春、一帯の植物は塩害で死に絶えた。

夏になって塩に強い雑草群が立ち上がり、冬が来てその草たちも枯れた。

枯草の中にコンクリートの土台がなければ、ここが住宅地だったことさえ分からない。

 

野蒜の住宅街