万石浦を過ぎ、女川第一小学校脇の高台に出ると景色は一変した。
そこは水浸しの荒野だった。
女川の中心部だった場所に車を停める。
木造の建物は一軒も残っていない。
破壊された鉄筋のビルが何棟か打ち捨てられているだけである。
海中に倒れたままのビルもある。
生涯教育センターには窓から車が入り込んでいる。
車が倒れないようにロープがかけられているが、車を撤去することは難しいのだろうか。
4階建ての商工会館は屋上まで水没した。
屋上に逃げた4人の職員がさらに給水塔に昇り、胸まで水に浸かりながら九死に一生を得た。
カーナビが「女川駅」と教える場所には何もない。
駅舎もホームも、レールさえも。一切が何処かへ流失していた。
鷲神浜は、Sさんの実家があった場所。
浜は広い更地になっていた。
Sさんの母親は実家から300mも離れた路上で発見された。
マリンパルは敷地全体が水没し、海の中に悲しげに立つ。
沈み行くベネツィアのようである。
違うのは、あたりに人影がまったくないことだ。
6mの防波堤は何の役にも立たなかった。
遠くの高台に女川町立病院が見える。
町立病院は海抜18mに位置するが、驚くことに津波は病院1階の1.9mの高さにまで来た。
女川の津波は地震の僅か30分後に襲来した。
その高さは海抜20.3mに達し、海抜16mの病院駐車場を飲みこんだ。
駐車場には多くの供花がある。
はるか遠く、はるか下に海を見降ろす場所である。
ここまで波が来たとは、とても想像がつかない。
病院の掲示には、内科・外科の診療は月~金の午前中だけ、整形・小児科・眼科・皮膚科は週1回、半日だけ、とある。
福島第一原発は5.7mの津波を想定し、海抜10mに建てられた。
そこに14mの津波が来て炉心溶融に至った。
女川原発で想定された津波は9.1mだったが、安全を見込んでそれより5.7m高い海抜14.8mの場所に建設された。
しかし地震で大地は1m地盤沈下。
原発は海抜13.8mに下がった。
そこに押し寄せた津波は13m。差引き僅か80cmの差で、女川はオナガワと呼ばれることを免れた。
・・・その屍たるや通路に満ち、沙湾に横たわり、その酸鼻言うべからず。
晩暮の帰潮にしたがって湾上に上がるもの数十日。
親の屍にとりついで悲しむ者あり、子の骸を抱きて慟する者あり。
多くは死体変化して父子だもなお、その容貌を弁ずに能わざるに至る。
頭、足その所を異にするにいたりては惨の最も惨たるものなり・・・
これは岩手県気仙郡綾里村村誌に書かれた明治三陸津波の記録である。
この津波は、明治29年6月15日、午後8時7分に襲来した。
地震自体は震度2~3と軽度であったことが逆に油断を招いた。
「入浴中の19歳の女性が風呂桶ごと流されたが助かった」と新聞は伝えた。
死者・行方不明者の合計は21,959人。沿岸部の住宅地は壊滅した。
当時にあっても民家を高台へ移動することは不可能ではなかったが、三々五々、元の敷地に家屋が再建され、ついには津波前と同じ集落が形成されてしまった。
そして昭和8年の昭和三陸津波で再び大被害を被った。
それは3月3日午前3時に襲来した。
深夜であったため、人々は津波の来襲に気づかず、逃げる方向も何も分からなかった。
生存者は「寝ていたら、いきなり唐紙を破って水の塊が入ってきた」と口々に言った。
震度は5で、地震被害は軽度だったが、津波の被害は甚大だった。
死者・行方不明者合計は3,064人に達した。
このとき壊滅した集落もまたぞろ同じ場所に修復され、昨年の震災を迎えた。
人々が同じ場所に家を再建した理由は、先祖から継承した土地への愛着であり、浜に近いことが漁業に便利であったからであり、津波は天の定めとする諦観のせいであった。
東日本大震災では死者・行方不明者は、19,185人である。
今度こそ高台移転は叶うだろうか。被災の記憶は一世代と持たないのである。
陸(おか)を選んだ自分は助かり、海を選んだ友人は亡くなった。
自分に「生かされる」理由などなかった。
生死は偶然の結果である。
女川原発が無事だったのは単なる幸運だった。
女川原発と仙台駅の直線距離は56km、女川原発と石巻駅のそれは僅か17kmである。
波の来方によっては、仙台は「センダイ」に、石巻は「イシノマキ」なっていたかも知れなかった。
あの年の桜は涙を吸い上げて咲いた
春が来るたび、桜梅桃梨は海辺で繚乱せよ
死者を眠らせ 荒ぶる海を鎮めよ