daisukeとhanakoの部屋

わが家の愛犬 daisuke(MD、13歳)とhanako(MD、6歳)の刺激的仙台生活

忘れない、あの日を、あの人を 10

2013年03月23日 14時46分00秒 | 地震

・・・自分は偶然に死ななかった。

イモリは偶然に死んだ。

自分は淋しい気持になって、暫く足もとの見える道を温泉宿の方に帰ってきた。

遠く町端れの灯が見えだした。

死んだ蜂はどうなったか。

その後の雨でもう土の下に入って了ったろう。

あの鼠はどうしたろう。

海へ流されて、今頃はその水ぶくれのした体を塵芥と一緒に海岸へでも打ち上げられていることだろう。

そして死ななかった自分は今こうして歩いている。

そう思った。

自分はそれに対し、感謝しなければ済まぬような気もした。

然し実際喜びの感じは湧き上がっては来なかった。

生きている事と死んで了っている事と、それは両極ではなかった。

それほどに差はないような気がした・・・

志賀直哉「城の崎にて」

 

 

石巻のシンボル、日和山に登ってみる。

山から南側を見ると住宅地が丸ごと消えていた。

市立病院など、コンクリートの建物だけが疎らに残る。

日和大橋は津波をかぶったがなんとか耐えたようだ。

津波とは単なる大波でなく、海底から海上までのすべての水の移動だと初めて知った。

今回の地震が放出したエネルギーは阪神大震災(M7.3)の1,450倍で、津波の遡上高は観測史上最大の40.4mに達した(宮古市重茂姉吉地区)。

それにしてもなんという広さに波が来たことだろう。

 

 

山を降り、旧北上川の中洲まで行く。

ここには岡田劇場、ハリストス正教会、石ノ森萬画館、料亭、マリーナなどがあり、石巻観光の中心だった。地盤沈下で中洲の大きさは一回り小さくなった。

160年の歴史があった岡田劇場は、基礎を残して跡形もなかった。

石ノ森章太郎が映画を観に中田町から自転車で通った劇場だった。

ハリストス正教会は明治13年に建てられた白亜の建物である。

木造の建物が川の真中で倒壊しなかったのは奇跡といってよい。 

 

萬画館は浸水したものの建物は無事だった。

現在は休館していて、中を見ることはできない。

全国から来た人たちの応援の書き込みがある。

川の東西をつなぐ内海橋は、押波と引波で上流下流から瓦礫がぶつかり、満身創痍となった。

震災直後は大量の漂流物と遺体が橋に引っ掛かっていて、人々はそれらを乗り越えて橋を渡った。

 

河畔のプロムナードは柵が壊れ、川の水がベンチの下まで来ている。

とてもくつろいで座ってはいられない。

 

南浜町は海も川も近い日当たりの良い住宅街だったが、1年経たずに草原に変わった。

240号線沿いには手作りの慰霊所があり、手を合わせる人が後を絶たない。

海から強い風が吹いて来る。

風が吹くと悲しくなくても涙が出る。

 

門脇(かどのわき)小学校は由緒ある学校だ。

海岸から700mの距離にある。

 

建物は残っているが窓は破れ、壁には焼けた跡がある。

地震後、近隣住民が車で避難してきた。

7mの津波が車を押し流し、校舎に衝突させた。

衝撃でガソリンが発火。100台余りが次々に燃え上がり、校舎に引火、全焼した。

学校には児童もいたが、教員が教壇で橋を作って3階から裏山へ避難させた。

プールには今でも大量の海水が貯まっている。

 

小学校の隣りの墓地では墓が遺骨ごと押し流された。

葬られても死者は安眠を許されなかった。

永遠のことなどないと知れば無常感はつのる。 

 

市立病院は旧北上川、太平洋の両方に面して建ち、思えば危険な立地であった。

ここが機能していれば、石巻赤十字病院の負担は半分になった。

新しい市立病院は海から2km離れた石巻駅前駐車場に再建されることが決まった。

 

日和大橋を越え、女川方面に向かう。

240号線の中央分離帯に巨大な鯨大和煮の缶詰が転がっていた。

タクシーを降りて写真を撮っている人がいる。

ここはちょっとした観光(?)名所になっているようだ。

この巨大缶詰は、「鯨の大和煮」からスタートした木の屋石巻水産のシンボルマークだった。

巨大缶詰には20t以上の魚油が入っていたが、元の場所から300mも北に流された。

缶詰はちょうど中央分離帯の真中で止まったため、交通の邪魔にならず撤去を免れた。

 

岸壁にあった同社は跡形もなくなったが、金華鯖の缶詰が工場跡の泥の中で見つかった。

その缶詰は掘り出されて、避難所の人たちの貴重な食料になったという。

 

女川街道を万石浦まで来た。

地盤が沈下したせいか、海面が上昇し、道路と同じくらいの高さに見える。

万石浦の緩衝作用で津波被害は小さかったが、地盤が80cm沈下した。

場所によっては海岸線が数10m後退した。

海岸では浸水防止用の土嚢積みが行なわれている。

 

かつては防波堤の下に砂浜があり、潮干狩りもできた。

震災後はアサリ採取用の造成干潟も砂州も干出しなくなり、岩礁から貝類が消えた。

満潮になるとマンホールや側溝などから海水が逆流し、地区のほとんどが膝下まで浸水する。

台風と大潮が重なった場合、大洪水が懸念される。

 

 

沿道に「おさかな市場」が復活していた。

かつては女川港のマリンパルにあったが津波で壊滅した。

廃業したドライブインを買い取ってここに再興したそうである。

ホヤ、なめた鰈、鮭、かわはぎ、金華鯖が安い。

ヤリイカが5杯で800円。

 

万石浦沿岸を走るJR石巻線は小牛田~石巻~女川を結んでいたが、現在石巻~女川間は運行されていない。

線路にはロープが張られて立ち入れない。

 

浦宿駅のホームは基礎の鉄筋がむき出しになった。

その下を潮が刻々満ちて行く。

潮は次第に急流となり、見ている間に線路が水没した。

未明、住民は潮が満ちる音で目を覚ますという。

 

昔、浦宿浜の知人を訪ね、この駅で降りたことがある。

知人の消息はここには書かない。

 

JRは石巻線の浦宿駅~女川駅間2.5kmのルートを山側に移転する予定だ。

この駅は廃止になる。鉄筋が錆びても、レールが水没しても、そのまま朽ちて行くしかないのだ。

 

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