人に「坐禅の要領」を尋ねるのではありません。
「坐禅に因って坐禅の要領を覚える」ということです。
このことを「唯務坐禅(ゆいむざぜん)」といいます。
どうか、そのように務めて頂きたいと思います。
人に「坐禅の要領」を尋ねるのではありません。
「坐禅に因って坐禅の要領を覚える」ということです。
このことを「唯務坐禅(ゆいむざぜん)」といいます。
どうか、そのように務めて頂きたいと思います。
自分の考えというものを先に立てて、それに沿って行こうということは、別の言葉で言えば「考え」というレールを敷いて、そのレールの上を走って行こうということです。
くれぐれもそういう考えを止めて頂きたく思います。
「坐禅は坐禅なり」とのお示しだから「これで善いんだ、このままで善いんだ」という、そういう「人の考え」が入れば、それは間違いだという事です。
このことは容易な事ではありませんが、迷いながらそれを務めていきます。
「唯務(ゆいむ)(ただ務む)」と、「坐禅が坐禅の方法を示してくれる」のです。
車の運転をする方は、「信号」も「参禅功夫」に成ります。
赤信号になると止まり、黄信号になると注意、青信号になると発進するのは何故でしょうか。
「五陰(ごいん)、五蘊(ごうん)、色・受・想・行・識の機能」を通じて、いちいち「止まりなさい、進みなさい、注意しなさい」と言われなくても私たち衆生は、青色を見ればそれだけ、赤色を見ればそれだけ、黄色を見ればそれだけの「心意識の働き」があるはずです。
しかし、疲れてくるとその機能は弱るという事は確かにあります。
そのくらい私たち衆生は、「因縁生だけ」で「人の働き」ということは何処にもありません。
そういうことが「坐ることだけ」で全部解決するというのが「禅の力」です。
ですから何事を為すにも一所懸命になって、そのものに成り切る必要があるのです。
そして成り切ることを忘れ、「忘れたことも、もう一つ忘れる必要」があるのです。
そうすると「何も無くなる時節」があります。
それが「今(空)」いうことです。
「今(空)」というのは自分で絶対に意識出来ませんが、そういう事が生まれながらにして備わっているのが「法」というものです。
車の運転をする方は、「信号」も「参禅功夫」に成ります。
赤信号になると止まり、黄信号になると注意、青信号になると発進するのは何故でしょうか。
「五陰(ごいん)、五蘊(ごうん)、色・受・想・行・識の機能」を通じて、いちいち「止まりなさい、進みなさい、注意しなさい」と言われなくても私たち衆生は、青色を見ればそれだけ、赤色を見ればそれだけ、黄色を見ればそれだけの「心意識の働き」があるはずです。
しかし、疲れてくるとその機能は弱るという事は確かにあります。
そのくらい私たち衆生は、「因縁生だけ」で「人の働き」ということは何処にもありません。
三番目に「戒法の護持」ということです。
「今という、手の付けられない処(今の事実)」を守っていくという事です。
それぞれの人が、それぞれに一杯一杯なのですから、どんな状態であろうとも、それぞれの人には「それその物」ではありませんか。
「法」あるいは「認識以前の自分」という者(事)がきちんと現成(げんじょう)しているのです。
今度は自分が坐って「実証(理論においても事実においても証明する)」をする、そういう坐禅修行をして頂かなければいけません。
「戒法の護持」を別の言葉でいえば「現成公案そのままに成っている」ということです。
「現成(今の事実)」に少しでも手を付けたり、守るべき者(事)が出たり、「そうあるべきだ」という者(事)が出て来るということは、このことは全て「戒を破った(破戒)、戒を汚した事」になるわけです。
それほど私たち衆生は「既に戒の中での日常生活をしている」という事です。
二番目には、「法」を実際に「なるほど、その通りだ」と実際に修行して自分自身で納得することです。
それを「坐禅功夫(ざぜんくふう)」といいます。
「只(ただ)坐っているだけではいけない」ということです。
それには「祇(只)管打坐(しかんたざ)、公案功夫(こうあんくふう)」、この二つのみが真に「解脱する道」です。
道元禅師も「意根を坐断する(意識の根源を坐って断ち切る)」とはっきりお示しになっておられます。
自分の知識や考えで以って、坐っているだけでしたら、それは「只(ただ)そういう事をしているに過ぎない」ということです。
それではいつまでたっても「法」を明らめる事は出来ません。
「坐禅修行」をする上で、三つの大切な事(三要件)を知らなければならないと、昔から言われています。
その第一番目は、「参師聞法(さんしもんぽう)」ということがあります。
「師に参じて、法を尋ねる」ということです。
自分は「東に向かって歩いている」と信じて、そのように歩いていると思っている人が居るとします。
ところが師に参じて、「自分は東に向かって歩いています」と話しても、師から「いやいやとんでもない、あなたは今、西に向かって歩いているんだよ」と言われたならば直ちに「自分は間違っていた」という事を「自覚」しないといけないのです。
しかし、師がそういう指摘をしても、なかなかそれが受け入れてもらえないものです。
どれだけ誤りを指摘しても自分の考えを以ってそのままに聞いているだけなのです。
ですから、「参師聞法」というのはどうしても必要な事です。
「法を求めて師に聞法する」という、そういう姿勢がないと「自分の考えで以って坐禅をしている」ということですから、それではいけないのです。
「坐禅というのは、自己に参じる事だ」と、はっきりしていないと、おシャカ様の御説になる「法」、歴代の覚者がお説きになる「坐禅」というのが、「病」になったり、「薬」になったりするものです。
「自己に参じる」ということがはっきりしている方は、「坐禅が薬」に成ります。
ところがおシャカ様のお言葉を参究している人には、「坐禅が病」になります。
ですから何時でも「自己の参じる物事は何か」という事をよく自分ではっきりと見つめていかないといけないのです。
いつも自分が「空(から)」になって、善い事も悪い事も、好きな事も嫌いな事も、全部捨てていって何時も「空(から)」になって坐る、修行するという事が「自己に参じる」ということです。
「法」というの物は、「誰の物」でもありません。
たまたま、おシャカ様が人類で初めて「法(その事)」に気付かれたというだけの話です。
ですから、最初に気が付かれたおシャカ様の教えに従って、インドの修行僧、中国の修行僧がそれに従って修行をされたのです。
昔は疑う事が少なかったので、「これをやっていればやれる」と言われれば「その通りにやれた」という事です。
今はなかなかそうはいきません。
「彼の人はそういう、この人はそういう、この本にはそういう事が書いてあった」ということで、そのことばかり気になり、当てつ比べつすることで、純一さを欠くことがあります。
ですから、人の言葉、人の文言(もんごん)に因って自分が左右されないように修行(坐禅)をして頂きたいと思います。
「理(理論)」に暗いと、指導を受けても、言われるだけではよく分からないものです。
ですから一応「理(理論)」に於いて「なるほど、それならひとつ思い切って坐ってみよう」という、そういう「信決定(しんけつじょう)」が出来れば、もう、八十パーセントは目的地に達していることと同じことになる訳です。
ですから、思い切って坐って頂きたく思います。
「今のこのままの処(状態)に手付かず」に、どのようにしてこのままの処(状態)で「じっと」耐えることが出来るかどうか」という事が問題なのです。
坐るとか坐らないかにかかわりなく、「結果(悟り)」を遠くの方に求めてそこに向かおうとしないで、精進して頂きたいと思います。