「自分というものを考えるから、相手というものが生じてしまう」のです。
「自分というものが無くなれば隔て(距離)が取れて打っ通しです。
そういう自覚が起こらざるを得ないのです。
坐禅をすると、その境界(きょうがい)が得られるのです。
口では説明することは出来ません。
ですから自分自身で冷暖自知をしなければならないのです。
そこまで来るには若干の時間がかかります。
それがなかなか、生易しいものではありません。
「そのものそれ」が分からないので、十年、二十年、三十年かかった人も在るのです。