「まじりものの無い結果」はどうなるか。
そこに「人格」というものが出て来るのです。
坐禅ばかりに成ったら自分というものはありません。
自分というものが無くなれば、「一切のものが自分と同化せざるを得ない」のです。
例えば隣家の人が私の眼の中に入っています。
私が隣家の人の眼の中にも入っているのです。
それはなぜかというと「自分というもの」が無いからです。
「自分というもの」をいつ頃からか認めてしまったので、坐禅に因ってその「自分というもの」を同化(殺す)するのです。
それから後は自分というものがありませんから「向こうが自分と同じものに成ってしまう」のです。