活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

心縁の相1

2019年04月20日 | 法理

「もの其のもの」は思っても及ばないものです。

只(唯)その働く力を見出せばよいのです。

何も説明は要りません。


「心」でないものはないのですから「其のものが心の證明に成っている」

のです。


「心縁の相」というとき、心の相手というものは無いのです。

皆「心」なのです。


向こうの縁も相手もみな「心」なのです。

「心の外」に別の姿が有(在)るのではありません。


即ち「心の姿」が別に有(在)るものでは無いのです。



物其の物

2019年04月19日 | 法理

「物其の物」は手の付けようがないように出来ているのです。

一杯一杯のものなのです。


言うことも思うことも熱いというも、これが熱くならないのです。

嬉しいと思っても、悲しいものが嬉しくはならないのです。


「そのまま」と言っても、早自己の分別になり二つになります。

「そのものの実相」に遠ざかることになるのです。


各々(おのおの)分に応じて只働くのが一番です。

只働くところの価値が「心経の結果」です。


一心 2

2019年04月18日 | 般若心経

それでは我々は迷っているのです。

行かんとすれば即ち行き、坐せんとすれば即ち坐するではありませんか。

 

衆生そのままと見れば衆生という邪見があるのです。

要するに「名」は便宜上つけたばかりで「名」というものは、ものにはないのです。

 

「難波の芦は伊勢の浜荻」

伊勢の浜荻は難波の芦という役で、芦そのものに「名」はないのです。


一心 1

2019年04月17日 | 般若心経

凡て「見」ということは、その物と二つになります。

一心なれば見るものと見られるものがないのです。

 

常に変化して止まないところに一心の妙味があります。

「常見」の起こされない処です。

 

変化しつつ、心はいつも変わらないものなのです。

何もないものと見れば「断見」、仏を見れば「仏見」となります。

 

「見」は迷いなのです。「邪見」なのです。

「仏」というのは「ほどける」ということです。

 

あなた方は何ものか。

そこに悟れるものがあれば「自然(じねん)」にほどけるのですが、悟る

ものがなければそれは「仏」ではありません。

 

ただ名をつける「仏」というのは「邪見」です。「仏見」です。


「無」を説く2

2019年04月16日 | 般若心経

そのままを守るというのが「心」なのです。

外に求めるから迷いなのです。

外道なのです。


耳でものを聞き、鼻でものを嗅ぐということ、口でものを食べるということ、

心にものを思うということは皆「心」なのです。


皆「心」ですから、その上に説明も研究も要らなくなるのです。

只、働けばよいということになるのです。


「無」を説く1

2019年04月15日 | 般若心経

覚者は「分別即自己」を絶滅するために「無」を説いたのです。

分別が迷いを生ずるのです。


道歌に「分別を分別せずば、分別も分別ながら分別はなし」と。

かくて「無」の字を説いて分別ながら分別を取って、分別を無分別 光として

使う処を忘れては「断見」になるのです。


とにもかくにも迷うのは「心」なのです。

即ち私たち衆生が朝から晩まで活動する、そのことが即ち「心」なのです。


「い(イ)」の字

2019年04月14日 | 般若心経

大辞典に拠れば「い(イ)」という字は「人」を偏とする時の貌です。

「人偏(にんべん)」といいます。


ですから偏は「我」です。

旁(つくり)は「宇宙」です。


先般「此方」で論考しましたが、何もかも総がかりで来なければ「聞く」

という「事実」は現われないのです。


それほどに「聞く」ということは大きな力を持っているのです。

「摩訶般若(まかはんにゃ)」です。


ですから、「空」です。

「実体」はありません。


「偏」ばかりでは「い(イ)」の字は出来ません。

「旁」ばかりでも「い(イ)」の字は出来ないのです。


そこから体得して私たち衆生は「般若心経」の真髄を得なければならない

のです。


「心」という字6

2019年04月13日 | 般若心経

また曰く「またその字を一劃宛 離してみればただ筆の跡のみなり」と。


この「心」というものに「実体」があるのでしょうか。

「コ」の字の時「ロ」なし。

「ロ」の時「コ」は逃げています。


「心」という字は一角ずつのものが集まって四面になって「心」の字になるだけの

話です。


これは「心」という「字体」を現わしたもので「心」という「実体」はありません。

ただこれ筆の跡のみなのです。


「心」という字5

2019年04月12日 | 般若心経

道歌に「心こそ 心迷いは 心なれ 心のこまに たづなゆるすな」と。


聞き間違いという話がありますが、間違ったものを「我が心」と覚えて

いるから「迷う」のです。


すべて「心」の聞き間違いです。

得手勝手な解釈です。


そこのところを天桂禅師は「此の心の字をよくよく知って見よ紙に顕わし

たる墨の色にて ころころと唱えてもただ語音の響きのみなり」と。


「心」という字4

2019年04月11日 | 般若心経

どうしても「心」というものは分からないのです。


どうしてわからないのだろうというも「心」です。

古人はどうしてわかったのだろうというも「心」です。


それが分からない「心の働き」で是非善悪の判断も分かるようになる

ものですから、「働き」がこの「心」の字の神様です。


「心」という字の上から「働き」をとってしまえば何もないのです。