それを道元禅師は「法としての根源」ということについて「学道用心集」
の中で「その法、為体(ていたらく)模索することを得ず、求覓(ぐみゃく)
することを得ず」とお示しになって居ります。
「探ろうと思っても尋ねようと思っても何処にもその根(種)は有(在)りま
せん」ということなのです。
「活動体」は何にも無い処から活動しているのです。
今でもこうして、机に向かってペンを執っていると何も無い処から「声」
が聞こえます。
何処かに有(在)って始まったのではないのです。
「声」は人間(にんげん)が後から考えて分かったことです。
「事実(声その物)」を後から人間がそういうことに認定したのです。