活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

法としての根源6

2019年03月20日 | 法理

それを道元禅師は「法としての根源」ということについて「学道用心集」

の中で「その法、為体(ていたらく)模索することを得ず、求覓(ぐみゃく)

することを得ず」とお示しになって居ります。


「探ろうと思っても尋ねようと思っても何処にもその根(種)は有(在)りま

せん」ということなのです。


「活動体」は何にも無い処から活動しているのです。


今でもこうして、机に向かってペンを執っていると何も無い処から「声」

が聞こえます。


何処かに有(在)って始まったのではないのです。


「声」は人間(にんげん)が後から考えて分かったことです。

「事実(声その物)」を後から人間がそういうことに認定したのです。


法としての根源5

2019年03月19日 | 法理

更に道元禅師は「学道用心集」の中で「将に見んとすれば白雲万里」と

はっきりとお示しになって居られます。


「今までの見解(けんげ)を持ってそういうことを見ようといっても、

とても及ばないですよ」と。


「此の物(身体機能)」は、音がすれば用があろうとなかろうと自然(じねん)

に入るように出来ているのです。


「その活動体」を見ようといってもどういう訳でそうなるのかと尋ねても

分からないのです。


分からないのですけれども必ずそう有(在)るのです。

知らず識らずに行われている様子なのです。


法としての根源4

2019年03月18日 | 法理

何故そういうことがいえるのかというと、「自分の見解(けんげ)考え方」

というものからきれいに離れた真相を自分で見付けたからです。


「此の物(身体機能)」は自分たちの考え方で扱う道具ではなかったという

ことに気が付いたからです。


その様子を道元禅師は「学道用心集」の中で「若し證の眼を回らして行の

地を顧みれば一翳(いちえい)の眼に當る無く」とはっきりお示しになって

居ります。


悟った時の自分の様子を顧みると、ものを見るということでも、見るものと

見られるものという二つのものが有(在)るのではないのです。


それですから、眼に邪魔になるものはないのです。

思いの上でも何にも邪魔になるものは有(在)りません、ということを表現

なさっているのです。


法としての根源3

2019年03月17日 | 法理

本来私たち衆生の状態というものは、悟ったからといって変わるものは

一つもないのです。


このことを「悟了同未悟(ごりょうどうみご)」といっています。


そのことを道元禅師は「学道用心集」の中で「いはんや、行の招くところ

の者は證なり、自家(じけ)の宝蔵、外(ほか)より来らず、證の使ふところの

者は行なり、心地の蹤跡(しょうせき)あに回転すべけんや」とはっきり

お示しになって居ります。


ただ実物をみて「ああ、そうなのだ」と自信が付くだけです。


その自信が付いてみれば今まで考え方で行っていたのが考え方ではなくて

如何したわけか、如何思った訳でもないのに「今こういう状態が有(在)る、

それだけで終わっていた」のです。


法としての根源2

2019年03月16日 | 法理

外に出てみて下さい、諸々の環境に接した時、接しようと思ったのでは

ないのです。


知(識)らないのですが環境というものが「有(在)」るのではないでしょうか。


環境といいますが、みんな「此の物(身体の機能ー眼・耳・鼻・舌・身・意)」

の様子なのです。


ですから、本当は環境ということも無いのです。


そういうことが如何してこの様に「区別」が付いたのかといえば、

「物心ついた時点」でそうなったのです。


「此の物(身体機能)」を考え方に移行したからです。

考え方としてものを捉えたからです。


そして今の様な「問題」が起きる(生じる)のです。





法としての根源1

2019年03月15日 | 法理

すべてのものは如何したわけか、如何思った訳でもないのに皆「有(在)る」

のです。「六根(機能)」は、「縁」に従ってどんなにでも成るのです。


このことは「考え方」ではありません。

考え方ではない作用を「永遠」をいいます。


ですから「人間(にんげん)は、一番最初に不知不識に出来た」のです。

「人は不知不識に生まれて来たのです」。


それは「法」です。

それが「法としての根源」です。

それが「永遠として有(在)る」のです。


ここに「机」が有(在)ります。

この「机」は考えたから自分に有(在)るのでしょうか。


貴方が必用無いと思っても有(在)るのではないでしょうか。

人間的な手段や方法を何も用いなくても「見えては消え、思えては消え」

そしてそれが限りないのです。


そういうように私たち衆生は生活をしているのではないでしょうか。


法(道)を考える4

2019年03月14日 | 法理

現今では物事は、はっきり証明出来なければ収まらない世の中になって

した。


「仏法(仏道)」の「空、無」ということも最初から有(在)ったわけでは

ありません。


おシャカ様が私たち衆生に「法(道)」というものを分かってもらいたい為

に、「空」或いは「無」ということを立てたのです。


これを「化城(けじょう)」といわれています。幻のお城を創作したのです。


ですから「結果」に至れば「法(道)、悟り、修行」といわれるものは

「不必要」であったということに気付く訳です。


しっかり目標を設定して修行をして頂きたく思います。


法(道)を考える3

2019年03月13日 | 法理

要は自分自身の法(道)に気付くということです。


ですから「おシャカ様の歩まれた道」「おシャカ様の示された法則」に

踵をあわせて行くことによって「法(道)」を学ぶのではありません。


或いは、おシャカ様以降の歴代の祖師といわれる覚者の示された「法(道)」

を行じることでもありません。


「仏祖の法(道)を自分の法(道)」として、そういう教えに従って修行する

ことによって「成る程、自分とおシャカ様、或いは歴代の覚者のお示しに

なる所の法(道)と自分自身が寸分違わないものである」ということを自分

自信で実証していかなければならないのです。


 


法(道)を考える2

2019年03月12日 | 法理

この頃では最初から「法(道)」という定まった物が宇宙の何処かに存在する

という立場に立って色々な論説が為され、その為に「法(道)」の論争が

行なわれるようになっています。


しかし「法(道)」というのは私たち衆生が「自分自身も法(道)その物である」

ということに気付く為に、おシャカ様が衆生教化(しゅじょう きょうけ)

を目的として立てられたものなのです。


「仏法(仏道)」というのは「おシャカ様の法(道)である」ということです。


法(道)を考える1

2019年03月11日 | 法理

おシャカ様以前には宇宙の真相を正しく示さる人はいませんでした。


物には「法則」が有(在)って、その「法則」に従って全ての物が活動して

いるということを、人類で始めて実証されたお方がおシャカ様なのです。


もともとあった「法則」を「私自身も法則その物であった」と自らが実証

なさったということなのです。


もともと有(在)った「法則」というものも「自分自身」なのです。


ですから、「法(道)」という言葉は有(在)っても実際には見ることが

出来ません。


それを「実相無相(実相は無相なり)」というのです。