何故そういうことがいえるのかというと、「自分の見解(けんげ)考え方」
というものからきれいに離れた真相を自分で見付けたからです。
「此の物(身体機能)」は自分たちの考え方で扱う道具ではなかったという
ことに気が付いたからです。
その様子を道元禅師は「学道用心集」の中で「若し證の眼を回らして行の
地を顧みれば一翳(いちえい)の眼に當る無く」とはっきりお示しになって
居ります。
悟った時の自分の様子を顧みると、ものを見るということでも、見るものと
見られるものという二つのものが有(在)るのではないのです。
それですから、眼に邪魔になるものはないのです。
思いの上でも何にも邪魔になるものは有(在)りません、ということを表現
なさっているのです。