そのように、「仏法」というひとつのものに対して論を積み重ねていくと
最後に「私」という自我意識が残ります。
どんなにしても「自我意識(私)が仏法と別なものにしか思えないのです。
どうか、おシャカ様の道を借り、歴代の覚者の法を借りて、
「自分自身が法そのものであった」
ということに気が付いて頂きたいと思います。
その為に修行し、「実相は無相である」という
「信決定(しんけつじょう)」をして頂きたいと思います。
人の法を求めても何もなりません。
そのように、「仏法」というひとつのものに対して論を積み重ねていくと
最後に「私」という自我意識が残ります。
どんなにしても「自我意識(私)が仏法と別なものにしか思えないのです。
どうか、おシャカ様の道を借り、歴代の覚者の法を借りて、
「自分自身が法そのものであった」
ということに気が付いて頂きたいと思います。
その為に修行し、「実相は無相である」という
「信決定(しんけつじょう)」をして頂きたいと思います。
人の法を求めても何もなりません。