「私自身」というのは、もともと実体の無いものです。
たまたま、お父さん お母さんの縁を借りて生まれたのです。
問題は、「自分はいつから自分になったか」、このことを徹底解明すると、【自分というかたまりは無い】はずです。
どうしても「私自身」という実体を認めることは出来ません。
私達衆生は【認識】を起こすことによって、自分を人と思い、他を人と思い、自他の区別をつけたのです。
自他の隔たり (距離) を持ったわけです。
安心、不安というのは同じことです。
自分と他という隔たり (距離) をつけるから不安が起きるのです。
【自分と他の隔たり (距離) が無くなること】を、仏教では「安心 (あんじん)」と言います。
ですから、本当に安心 (あんじん) をするとか、大満足をするということは、自他の隔たり (距離) が無くなった状態を言っているわけです。
仏法においてはそれを「見性 (けんしょう)」、性を見る と言います。
ただ間違えてはならないのは、よく「自分の性を見たから見性だ」と言いますが、【私だけ】が自分の本性 (ほんしょう) を見たということは【あり得ません】。
「見性」とは、【一切のものの本性を見る】ことです。
別の言葉で言えば、「一切のものは無自性 (むじしょう)」であることを、自分で、「実証 ー 事 (事実) においても、理 (理論) においても証明する」ことです。
悟りという言葉でも、解脱という言葉でも皆、距離 (隔て) がなくなった状態をそのように言い表しているということです。
私達衆生も、修行において大満足を得るために、自他の距離 (隔たり) を無くすように務めなくてはなりません。
迷いや、不安というのは、【自分が他を認めて、認識をおこすようになってから出来た】はずです。
それ以前は、何処にも存在していません。
ですから、仮に、「本来の自己の姿というものは何か」ということさえはっきり自分が実証すれば「安心 (あんじん)」というものが可能に成るということです。
たまたま、お父さん お母さんの縁を借りて生まれたのです。
問題は、「自分はいつから自分になったか」、このことを徹底解明すると、【自分というかたまりは無い】はずです。
どうしても「私自身」という実体を認めることは出来ません。
私達衆生は【認識】を起こすことによって、自分を人と思い、他を人と思い、自他の区別をつけたのです。
自他の隔たり (距離) を持ったわけです。
安心、不安というのは同じことです。
自分と他という隔たり (距離) をつけるから不安が起きるのです。
【自分と他の隔たり (距離) が無くなること】を、仏教では「安心 (あんじん)」と言います。
ですから、本当に安心 (あんじん) をするとか、大満足をするということは、自他の隔たり (距離) が無くなった状態を言っているわけです。
仏法においてはそれを「見性 (けんしょう)」、性を見る と言います。
ただ間違えてはならないのは、よく「自分の性を見たから見性だ」と言いますが、【私だけ】が自分の本性 (ほんしょう) を見たということは【あり得ません】。
「見性」とは、【一切のものの本性を見る】ことです。
別の言葉で言えば、「一切のものは無自性 (むじしょう)」であることを、自分で、「実証 ー 事 (事実) においても、理 (理論) においても証明する」ことです。
悟りという言葉でも、解脱という言葉でも皆、距離 (隔て) がなくなった状態をそのように言い表しているということです。
私達衆生も、修行において大満足を得るために、自他の距離 (隔たり) を無くすように務めなくてはなりません。
迷いや、不安というのは、【自分が他を認めて、認識をおこすようになってから出来た】はずです。
それ以前は、何処にも存在していません。
ですから、仮に、「本来の自己の姿というものは何か」ということさえはっきり自分が実証すれば「安心 (あんじん)」というものが可能に成るということです。
これで最終決着がついたと心底納得がいくものですか。
世の中には「無仏性」という宗教嫌いの人も居られます。
しかし宗教でも何でもそうですが「信仰」というものが厚くないと本当の物が貫けないのです。
この「信力(神力)」が足らないと、迷いが出て心が二つにも三つにも成ってしまうものです。
「仏性を具しておシャカ様と同体であると信じるのが本当の信仰です」
それから降って神を信じ、仏を信じるというのは「第二の信仰」なのです。共に坐禅修行が出来ますことに感謝申し上げます。 合掌
「今の事実(八方塞がり)のまま」に、一切自分の考えを交えないで坐って頂きたいと思います。
そのことを「功夫は功夫なり」と、道元禅師はいっておられるのです。
共に「仏道を成ぜんがため」に坐禅修行出来ますことに感謝申し上げます。 合掌