坐禅をして至るところは【今の自分の様子】です。
それを「仏道」と言っています。
しかし「仏道」というと、どうしても自分以外のところに「道」とか「法」とかいうものがありそうな気がするのです。
それを「迷い」と言っています。
本当は「迷い」というものは、どこにも【ありません】。
関山国師は、「本有円成仏 (ほんゆうえんじょうぶつ) 何としてか迷倒の衆生となる」という遺言を残されました。
私達衆生いかに、絶えず外に向かって目を向けているか、ということに注意を喚起しておられるお言葉です。
自分自身で「習学」になっているのではないかということを、本当によく注意をして脚下を照顧して頂きたいと思います。
「八万四千の法門」も、歴代の覚者の御言葉も、それらはすべて「月を標す指」です。
それに従っていかなければ、どうしても月を見ることは出来ません。
しかし見てしまったら、もう必要はないのです。
それが「本来の自分に戻った」ということです。
そういうことからも、
「修行の行き着くところは、今の自分でなければいけないんだ」
ということを肝に銘じて頂きたいと思います。
それを「仏道」と言っています。
しかし「仏道」というと、どうしても自分以外のところに「道」とか「法」とかいうものがありそうな気がするのです。
それを「迷い」と言っています。
本当は「迷い」というものは、どこにも【ありません】。
関山国師は、「本有円成仏 (ほんゆうえんじょうぶつ) 何としてか迷倒の衆生となる」という遺言を残されました。
私達衆生いかに、絶えず外に向かって目を向けているか、ということに注意を喚起しておられるお言葉です。
自分自身で「習学」になっているのではないかということを、本当によく注意をして脚下を照顧して頂きたいと思います。
「八万四千の法門」も、歴代の覚者の御言葉も、それらはすべて「月を標す指」です。
それに従っていかなければ、どうしても月を見ることは出来ません。
しかし見てしまったら、もう必要はないのです。
それが「本来の自分に戻った」ということです。
そういうことからも、
「修行の行き着くところは、今の自分でなければいけないんだ」
ということを肝に銘じて頂きたいと思います。