似て非なる 修行(今の事実に徹する) は、たくさんありますが、「仏道」というのは
「本来、迷っていないことを知る」ということ以外にありません。
迷いを無くそう、あるいは、今の自分の状態は自分自身で見てもあまりよろしくないから “修行” によってもっと満足出来るような自分に変えていこう、と考えてしまうと「習学」になってしまいます。
よく考えて見てください、六根 (眼、耳、鼻、舌、心、意) のうちの、何処に満ち足りない処があるかということです。
足らない処は何処にもありません。
それでいて何か満足しきれないものがあるということになると、「妙体」という以外、何も言いようがないということになるわけです。
人生の問題とか、宇宙の問題というのは、全部【「人」というものを土台とした考え方】です。
ものがわからないとか、どうなるだろうかというのは、全部「人」というものを立てた上での考え方ですから、分かるはずがないのです。
何故ならば、もともと「人」というものは、存在しないからです。
存在すると思っているのが間違いなのです。
間違いの上に立った考え方というのは、【全部間違い】です。
そういうことを【法理】として十分納得した上で、修行 (今の事実に徹する) をして頂きたいと思います。
「本来、迷っていないことを知る」ということ以外にありません。
迷いを無くそう、あるいは、今の自分の状態は自分自身で見てもあまりよろしくないから “修行” によってもっと満足出来るような自分に変えていこう、と考えてしまうと「習学」になってしまいます。
よく考えて見てください、六根 (眼、耳、鼻、舌、心、意) のうちの、何処に満ち足りない処があるかということです。
足らない処は何処にもありません。
それでいて何か満足しきれないものがあるということになると、「妙体」という以外、何も言いようがないということになるわけです。
人生の問題とか、宇宙の問題というのは、全部【「人」というものを土台とした考え方】です。
ものがわからないとか、どうなるだろうかというのは、全部「人」というものを立てた上での考え方ですから、分かるはずがないのです。
何故ならば、もともと「人」というものは、存在しないからです。
存在すると思っているのが間違いなのです。
間違いの上に立った考え方というのは、【全部間違い】です。
そういうことを【法理】として十分納得した上で、修行 (今の事実に徹する) をして頂きたいと思います。