活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

仏道 2

2015年09月20日 | 仏教
似て非なる 修行(今の事実に徹する) は、たくさんありますが、「仏道」というのは

「本来、迷っていないことを知る」ということ以外にありません。

迷いを無くそう、あるいは、今の自分の状態は自分自身で見てもあまりよろしくないから “修行” によってもっと満足出来るような自分に変えていこう、と考えてしまうと「習学」になってしまいます。


よく考えて見てください、六根 (眼、耳、鼻、舌、心、意) のうちの、何処に満ち足りない処があるかということです。

足らない処は何処にもありません。

それでいて何か満足しきれないものがあるということになると、「妙体」という以外、何も言いようがないということになるわけです。


人生の問題とか、宇宙の問題というのは、全部【「人」というものを土台とした考え方】です。

ものがわからないとか、どうなるだろうかというのは、全部「人」というものを立てた上での考え方ですから、分かるはずがないのです。


何故ならば、もともと「人」というものは、存在しないからです。

存在すると思っているのが間違いなのです。

間違いの上に立った考え方というのは、【全部間違い】です。

そういうことを【法理】として十分納得した上で、修行 (今の事実に徹する) をして頂きたいと思います。

仏道 1

2015年09月19日 | 仏教
坐禅をして至るところは【今の自分の様子】です。

それを「仏道」と言っています。


しかし「仏道」というと、どうしても自分以外のところに「道」とか「法」とかいうものがありそうな気がするのです。

それを「迷い」と言っています。


本当は「迷い」というものは、どこにも【ありません】。

関山国師は、「本有円成仏 (ほんゆうえんじょうぶつ) 何としてか迷倒の衆生となる」という遺言を残されました。

私達衆生いかに、絶えず外に向かって目を向けているか、ということに注意を喚起しておられるお言葉です。

自分自身で「習学」になっているのではないかということを、本当によく注意をして脚下を照顧して頂きたいと思います。


「八万四千の法門」も、歴代の覚者の御言葉も、それらはすべて「月を標す指」です。

それに従っていかなければ、どうしても月を見ることは出来ません。

しかし見てしまったら、もう必要はないのです。

それが「本来の自分に戻った」ということです。


そういうことからも、

「修行の行き着くところは、今の自分でなければいけないんだ」

ということを肝に銘じて頂きたいと思います。


因縁生 (いんねんしょう)

2015年09月18日 | 法理

「因縁生 (いんねんしょう)」のものは、すべて無自性なのです。

中心がないのです。

因縁というと、何か最初に因縁を起こす元があるように考えるものです。


花と虫の例えを話すと、虫が花粉を運ぶと実を結ぶ、そういう媒介をするものを

「縁」と言っている人がいますが、そうではありません。

最初からそういうものが出てくる元がないのです。

それなのに、すべてのものがないままに縁になったり、

因になったりしているのです。



それを「因果一如 (いんが いちにょ)」と言っているのです。


「ものがなくて、どうして縁だけがあるのか」と思う人がいます。

すべてのものは、どこからともなく集まってくるのです。

集まってくるもの自体が、縁によってそうなってきているのです。

それを「縁起」と言っています。

ですから、実体がないのです。


自分の法

2015年09月17日 | 道元禅師
「この法は人人(にんにん) の分上にゆたかにそなはれり」

という、道元禅師のお示しがあります。


「法」というのは、何も知らない、一切為さざるところにおいて、はっきりとものが見える、聞こえる、味わえるという六根(眼、耳、鼻、舌、心、意) の働きのままのことです。

自分の中で何かを知るというような事がなくても、すべてがきちんとわかります。

はじめて見るものも、はじめて聞くものも、はじめて味わうものも、ちゃんとわかるということです。

そういう事を「この法は人人の分上にゆたかにそなはれり」と言っているのです。


仏道というのは、【おシャカ様の法】です。

これは、「法」そのものは【誰のものでもない】ということです。

ですから、それぞれの人が、みんなその人の法です。


それでは、何故、おシャカ様の法、あるいは道元禅師の法を求めなければならないのかということになります。


求めるのではありません。

そういうお方の話を承って(それを入り口として) 、人人の分上ゆたかにそなわっているところの「自分の法」を把握することです。


「おシャカ様や道元禅師のようにはなれない」という考えを持たれるのは間違いです。

何故ならば、「法」というのは【比べることが出来ない】ものだからです。

「自分の法」に【自分が目醒める】のです。


「分上にゆたかに」というのですから、それぞれの人そのものです。

小さい人は小さい、大きい人は大きい、それが「この法は人人の分上にゆたかにそなはれり」という事です。


同じく「威儀即仏法、作法是宗旨 (いいぎ そく ぶっぽう、さほう これ しゅうし) 」も、お坊さんだけに限られたものではありません。

「威儀即仏法」とは、みんなそれぞれの職業を持っている人のことです。

「作法是宗旨」とは、それぞれの決まりのなかの生活をしているということです。


これが、お坊さんだけのものであるかのように説き示されていることも、大きな間違いです。

ですから、出家の人、そうでない人にかかわらず、必ず 修証 (修行と悟り) は出来るということです。





四つの状態

2015年09月16日 | 仏教
「今の事実」「自分の今の様子」を振り返ってみると、習慣性が人にはあります。

そうなると、下記に掲げる四つの状態の一つに入ってしまいます。


1・ 言葉では言えるけど、内容が伴わない

2・内容は分かったけれども、どうしても言葉としてその状態を言い現せない

3・言葉も内容も全く分からない

4・自分の思う内容も、言葉に因って言える


又、修行の過程において、四つの状態が更にあることを、別の覚者は示されています。

順序に関係はありません。

これも究極に至る迄の途中の様子のことです。


1・自分はなくなったけれども、相手がある状態

2・相手はなくなったけれども、自分が残っている状態

3・相手も自分もあるという状態

4・自分も相手もなくなったという状態


「今の事実」「自分の今の様子」というものは、この四つの状態の【他にある】という事です。

今の私達衆生一人一人の状態が、この四つの状態【以外】の処にあるという事なのです。

迷悟 (めいご) に属せず

2015年09月15日 | 語録
生まれて来なければ、滅しもしないもの、「不生不滅 (ふしょうふめつ)」を、自然 (じねん) とか、天然とか、天真と言い表していますが、私達衆生もその通りです。

自分というものは、【始めも無ければ終わりも無い】ものです。

いつから始まって、いつに終わるというものはありません。


ところが、自分というもの (見) を立てて自分を見ると、「今は生きているけれども、やがて死ぬ」という、大変な迷いを生ずる 訳です。

自分が死ぬということは【一番大きな迷い】です。

「今生きている」ということも、【大変な迷いの中の考え】です。


「迷悟に属さない世界」に入ると、仏法もなければ、迷いも悟りもなければ、生き死にもないものです。

それが「天真」です。


会社の社長さんが、社長に成り切っている、商人が商人に成り切っている。

みんな、天真にして妙、【それだけ】のものです。

修行 (今の事実に徹する)とは、求めるものもなければ、捨てるものもない、付けるものもない、【それだけ】のひとになるために、するのです。


「迷悟に属せず」というのは、【超越している】ということです。


自分というものの、入る寸分の余地のない (思慮分別以前の) 、迷悟を超越し、迷悟に属さない世界の事を「祗(只) 管」 (しかん) と言っています。

つまり、私達衆生は、私という考えを入れずに、ただ【あるべきように】修行しなければなりません。

迷いと悟り 2

2015年09月14日 | 
「悟り」というものは、何かという問題が残ります。

そこで「覚者」は、「真を求むることを用いざれ、ただすべからく見を息(や) むべし」と言われました。

自分を立ててものを見たり、考えたりする事を息(や) めるという事です。

そうすれば、「このままでよかった (認むべき何ものも無い)」という確信が生まれるという事です。


鏡という例えは間違いやすいところです。

私達衆生も「鏡を見てご覧なさい」とよく言います。

しかし、鏡に向かった人は “鏡” を見る事は出来ません。

【自分を】見ているのです。


鏡と自分は絶対に離れていません。

きちんと自分の本来が見えます。

鏡の存在というのは、どこにもないのです。


悟るとか悟らないとかいう事に関わらず、そういう働きがきちんと定まっているという事です。

それを自分自身、気が付かないのです。

「悟り」というものは、そういうものです。

自分自身で持ち合わせていながら、【気が付かない】でいるのです。


だから、それは然るべき方法によって、必ず気が付く事が出来るのです。

それが【修行 (今の事実に徹する)】です。


迷いと悟り 1

2015年09月13日 | 
もともと、迷いも悟りもないものですけれども、【人の側に】迷悟というものがあるのです。

別の言い方をすれば、「只」には深浅はないけれど、人の側に深浅というものがあるという事です。

とにかく自分自身というものを忘れてみる必要があるのです。


「仏道をならうというは自己をならうなり、自己をならうというは自己を忘るるなり」の

「自己をならうなり」という自己は、本来脱落している自己という事です。

それを自分で【実証】しなさいと言っているのです。


「自己を忘るるなり」というのは、今かくのごとく見たり、聞いたり、考えたり、【自分だ自分だ】と思っている自分を忘れてご覧なさい、と言っているのです。

そうすると、迷いの世界と悟りの世界に明確に分かれます。

その事を本当に明らかにするために、修行(今の事実に徹する) をするのです。

そして、そういう事を明確にした人を「覚者」といい、「仏」といっている訳です。

見を息 (や) むべし

2015年09月12日 | 語録
「法理」として、だんだんわかってくると、最後には、いったい【何を悟るのか】という問題が残ると思います。

そこのところを覚者は「見を求むることを用いざれ、ただすべからく見を息(や) むべし」と、述べられております。


おシャカ様の境涯を悟るのではなく、ただ見を息(や) めなさい、ということです。

本来、「迷いと悟り」「凡夫と仏」というようなものはありません。


したがって、そういうものがなければ妄想もあり得ないし、相手として認めるべきものは何もないのです。

「“私” という、我見を立てる」から、すなわち、「自分を認めて真というものと隔てを立てる」からその様な考えに陥るのではないでしょうか。


「見性 (けんしょう)」と言いますが、実は【自分の心をはっきり見届ける】という事です。

不思議

2015年09月11日 | 仏教
人間には六根 (眼、耳、鼻、舌、身、意) という働きがありますが、私達は訓練してものが見えたり、聞こえるようになったのではありません。

生まれながらにして、ものが見え、聞こえ、味わい、匂いを嗅ぐことが出来ます。

そういう霊妙な働きを「不思議」といいます。


「不思議」というのは、人の考えの及ばない働きを持っているという事です。

ですから、その働きのままにしておけばよいのに、「意 (心)」だけが別になるものです。

そこで、「不安だから安心したい」 「不透明だから透明にしたい」と、様々な考えが浮かんできます。


不安は「安心しなければならない」という迷いから生じるのです。

様々の結果として、現在の不安があるのですから、結果に安住 (あんじゅう) して、不安のままに成り切る事に因って、不安が解消される、そのようにおシャカ様は示しておられます。