私達衆生は「空」だとか「平等」とかいうと、何かそれが仏法の大意、究極だと考え勝ちです。
仏法ということを、思ったり考えたりすることでも、既に【名称】に引っ掛かって、迷いの元になっているのではありませんか。
名称というのは、本当に始末に終えないものですけれども、やむを得ません。
仏法は「即今、即今」と言いますが、「今」という名称はあっても【実体】はありません。
ですから、「今」という名称を使って実体の無い「今」ということを自分のものにする以外にないのです。
仏道という道に従って究極に至らなければならないのです。
道の中にいながら、道を探し求めるというのは非常に矛盾した事ですけれども、それをやらなければならないのです。
余分なことなのです。
実に余分なことなのですけれども、それをしないと「今の自分」というものは本当に分かりません。
仏法ということを、思ったり考えたりすることでも、既に【名称】に引っ掛かって、迷いの元になっているのではありませんか。
名称というのは、本当に始末に終えないものですけれども、やむを得ません。
仏法は「即今、即今」と言いますが、「今」という名称はあっても【実体】はありません。
ですから、「今」という名称を使って実体の無い「今」ということを自分のものにする以外にないのです。
仏道という道に従って究極に至らなければならないのです。
道の中にいながら、道を探し求めるというのは非常に矛盾した事ですけれども、それをやらなければならないのです。
余分なことなのです。
実に余分なことなのですけれども、それをしないと「今の自分」というものは本当に分かりません。