生まれて来なければ、滅しもしないもの、「不生不滅 (ふしょうふめつ)」を、自然 (じねん) とか、天然とか、天真と言い表していますが、私達衆生もその通りです。
自分というものは、【始めも無ければ終わりも無い】ものです。
いつから始まって、いつに終わるというものはありません。
ところが、自分というもの (見) を立てて自分を見ると、「今は生きているけれども、やがて死ぬ」という、大変な迷いを生ずる 訳です。
自分が死ぬということは【一番大きな迷い】です。
「今生きている」ということも、【大変な迷いの中の考え】です。
「迷悟に属さない世界」に入ると、仏法もなければ、迷いも悟りもなければ、生き死にもないものです。
それが「天真」です。
会社の社長さんが、社長に成り切っている、商人が商人に成り切っている。
みんな、天真にして妙、【それだけ】のものです。
修行 (今の事実に徹する)とは、求めるものもなければ、捨てるものもない、付けるものもない、【それだけ】のひとになるために、するのです。
「迷悟に属せず」というのは、【超越している】ということです。
自分というものの、入る寸分の余地のない (思慮分別以前の) 、迷悟を超越し、迷悟に属さない世界の事を「祗(只) 管」 (しかん) と言っています。
つまり、私達衆生は、私という考えを入れずに、ただ【あるべきように】修行しなければなりません。
自分というものは、【始めも無ければ終わりも無い】ものです。
いつから始まって、いつに終わるというものはありません。
ところが、自分というもの (見) を立てて自分を見ると、「今は生きているけれども、やがて死ぬ」という、大変な迷いを生ずる 訳です。
自分が死ぬということは【一番大きな迷い】です。
「今生きている」ということも、【大変な迷いの中の考え】です。
「迷悟に属さない世界」に入ると、仏法もなければ、迷いも悟りもなければ、生き死にもないものです。
それが「天真」です。
会社の社長さんが、社長に成り切っている、商人が商人に成り切っている。
みんな、天真にして妙、【それだけ】のものです。
修行 (今の事実に徹する)とは、求めるものもなければ、捨てるものもない、付けるものもない、【それだけ】のひとになるために、するのです。
「迷悟に属せず」というのは、【超越している】ということです。
自分というものの、入る寸分の余地のない (思慮分別以前の) 、迷悟を超越し、迷悟に属さない世界の事を「祗(只) 管」 (しかん) と言っています。
つまり、私達衆生は、私という考えを入れずに、ただ【あるべきように】修行しなければなりません。