本当に自信を持って「この修行をすれば、間違いなく究極に達する」ということはなかなか言えるものではありません。
出発はしたけれども、何処に終着点があるのかということです。
終着点は何処かというと、「今の自分」です。
今の、色々な事を考えたり、思ったり、グシュグシュしていたり、、、、そこしか行き着くところはないのです。
それを誰が「グシュグシュしている状態はよくない」と、決められるのでしょうか。
「グシュグシュしている状態」それしかないではありませんか。
分別をしている時は分別のまま、それしかないのですから、【そこ】に行き着く他はありません。
おシャカ様はちゃんと「煩悩 即 菩提」と、証明なさって自分でそれをきちんと見極めておられます。
それなのに、何故私達衆生は「今の自分」をうけがえないのでしょうか。
おシャカ様は何故私達衆生こんなグシュグシュした自分の状態を「菩提」と言われたのでしょうか。
これはあらゆる人が、
「人人 (にんにん) の分上に豊かにそなわれりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず、證せざるには得ることなし」
だからです。
ですから、ちゃんと古人の歩まれた道に踵を合わせて修行することによって、必ずその事が現れてくるということです。
やらなければ出来ません。
歩みを進めていかなければ、行き着くところには、到達出来ないということになるのです。
出発はしたけれども、何処に終着点があるのかということです。
終着点は何処かというと、「今の自分」です。
今の、色々な事を考えたり、思ったり、グシュグシュしていたり、、、、そこしか行き着くところはないのです。
それを誰が「グシュグシュしている状態はよくない」と、決められるのでしょうか。
「グシュグシュしている状態」それしかないではありませんか。
分別をしている時は分別のまま、それしかないのですから、【そこ】に行き着く他はありません。
おシャカ様はちゃんと「煩悩 即 菩提」と、証明なさって自分でそれをきちんと見極めておられます。
それなのに、何故私達衆生は「今の自分」をうけがえないのでしょうか。
おシャカ様は何故私達衆生こんなグシュグシュした自分の状態を「菩提」と言われたのでしょうか。
これはあらゆる人が、
「人人 (にんにん) の分上に豊かにそなわれりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず、證せざるには得ることなし」
だからです。
ですから、ちゃんと古人の歩まれた道に踵を合わせて修行することによって、必ずその事が現れてくるということです。
やらなければ出来ません。
歩みを進めていかなければ、行き着くところには、到達出来ないということになるのです。