「成住壊空 (じょうじゅう えくう)」とは、成り立て、しばらく姿があって、そしてそれが壊れて空(くう) になる、ということです。
一日の中にも、一分の中にも【すべてのものが無くなり、すべて又移り変わっていく】、そういうことが繰り返しなされているということです。
概念としては、「因縁諸生 (いんねん しょしょう) の法」なのです。
毛筋ほども自分の認めようがない、移り変わっているということです。
ですから、迷いの時がある、悟りの時がある、苦しい時がある、楽に坐れる時がある。
すべて、「様々な様子が」【その事だけで終わっている】ということです。
苦は苦、楽は楽、迷いは迷い、悟りは悟り、【その他何もありません】。
それが分かるには、指導者はある時は「祗(只)管 打坐」(しかん たざ) をして下さい、又ある時は「公案功夫」(こうあん くふう) をして下さい、と言っているのです。
「功夫」というのは、大切なものを求めて、自分の両手でしっかり抱き抱えているようなものです。
「功夫」を忘れるとか「功夫」をしていないというのは、そういうものを何処かに忘れてきてしまうことです。
【功夫と坐禅は一つのもの】ですから、そういう時は「坐禅」が行われていないということになります。
ですから、「思い出した時に功夫があったり、坐禅があったりしてはいけない」ということです。
一日の中にも、一分の中にも【すべてのものが無くなり、すべて又移り変わっていく】、そういうことが繰り返しなされているということです。
概念としては、「因縁諸生 (いんねん しょしょう) の法」なのです。
毛筋ほども自分の認めようがない、移り変わっているということです。
ですから、迷いの時がある、悟りの時がある、苦しい時がある、楽に坐れる時がある。
すべて、「様々な様子が」【その事だけで終わっている】ということです。
苦は苦、楽は楽、迷いは迷い、悟りは悟り、【その他何もありません】。
それが分かるには、指導者はある時は「祗(只)管 打坐」(しかん たざ) をして下さい、又ある時は「公案功夫」(こうあん くふう) をして下さい、と言っているのです。
「功夫」というのは、大切なものを求めて、自分の両手でしっかり抱き抱えているようなものです。
「功夫」を忘れるとか「功夫」をしていないというのは、そういうものを何処かに忘れてきてしまうことです。
【功夫と坐禅は一つのもの】ですから、そういう時は「坐禅」が行われていないということになります。
ですから、「思い出した時に功夫があったり、坐禅があったりしてはいけない」ということです。