夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

短歌雑想

2017-09-24 22:54:57 | 日記
去る五月六月は何かと忙しく、結社の歌誌に投稿しようにも歌想が湧かず、しかたがないので、一日の大半を研究室で過ごすしかなくなっている日常を逆手にとって詠んだ歌をようやくのことでひねり出し、どうにか歌数を揃えて送っていた。

  ここが今のわが世界なり大山と中海の見ゆるこの研究室が
  徹宵して研究室よりながむれば大山の峰のほのか明るし
  論証に苦しみをれば夜の闇を切り裂くごとき時鳥の声


先日、結社のある方から絵葉書がきて、「最近の御歌から、論文執筆のご苦労がしのばれ……どうぞお励みください」という、労いの言葉が書かれていた。
お心遣いを有難く思うと同時に、余計なことでご心配をかけてしまったことを申し訳なく思った。

私の歌は、自己の現実を必ずしもありのままに詠んでいる訳ではなく、現実をデフォルメし、かなりの脚色を加えて「作って」いる。
自分の実際の体験をもとにしてはいても、それは素材であったり触媒であったりして、歌のかたちになったときは、元の体験とは別次元のものになっている、というのが正直な認識である。
大げさに言えば、私は短歌を詠むたびに嘘をついているようなものである。
その(文学的)嘘を事実として受けとめてしまわれた方には、本当に申し訳ないと思う。

短歌というのは、わが体験、わが心情の真率なる表現という通念があるので、短歌に描かれた出来事=その人の体験という図式で受けとめられることは承知している。

ただ、私自身、挨拶としての短歌や、日常詠もよく詠んでおり、そこでは自分の体験や心情をそのまま詠むけれども、歌誌に投稿するような創作短歌には、ある程度、日常からの飛翔が必要なのではないかと思っているところがあって、これからも架構の〈われ〉を主人公にした虚実綯い交ぜの腰折れ短歌を作り続けていくことになるだろうと思う。

もし結社の方がこの記事を読んでくださっていたら、今後、私の短歌など虚構にすぎないと思って軽く見過ごしていただければ幸いです。