Ed's Slow Life

人生終盤のゆっくり生活をあれやこれやを書き連ねていきます。

全て無かったことにしてしまう日本・・・

2014年08月18日 | Weblog

            

8月15日は日本の”敗戦”記念日である。「終戦」という云い方は戦争に負けた
ことを素直に認めたがらない当時の責任者たる政治家・権力者たちの誤った云
い方である。その裏には、事実を認め真面に反省するべきことから逃げ、隠蔽
しようとする意図が隠されている。


毎年この時期になると、戦争の悲惨さを思い出し、不戦の誓いを新たにし、戦
没者の慰霊に花を手向けるという集会が全国各地でおこなわれる。そのこと自
体は大切なことであり異論はないけれど、参加者は次第に老齢化し、若い世代
に真の意志がしっかり受け継がれていっているのか甚だ疑わしい。つまり、安倍
政権が強引に推し進めようとしている軍事国家への回帰という最近の危険な動
きに対して、若い世代があまり嫌悪感を表していないように思えるからである。


日本では、戦争の悲惨さ、恐ろしさ、非条理が常に自分たち、つまり当事者(加
害者)の側からの視点が専らであり、加害者としての視点が欠けてしまっている。
これは日本では戦後一貫して歴代自民党政権が意図してきた誤った(嘘の)歴
史認識を教育の場に持ち込んで来たせいであろう。教科書検定制度のもと正し
い歴史は曲げられたり隠蔽され、アジア各国への侵略戦争であったにも拘らず、
侵略ではなかったと言い張る反省なき嘘の歴史教育を続けてきた、その弊害で
ある。


日本と同じ敗戦国となったドイツの場合は、ユダヤ人を虐殺した過去のナチス
政権時代の過ちを確り認識して、若い世代の教育に今もって反映させている。
だからドイツの若者に彼らの”終戦記念日”を訊ねると、ドイツが降伏した5月
8、9日ではなくて、アウシュヴィッツ収容所が解放された1月27日をもって終
戦記念日と考えている、という答えが返ってくる。そこには過去のナチス・ドイツ
が犯した大罪を確り受け止めて意識し、それを若い世代への教育を通して常に
反省していることを世界に向けて宣言している。


翻って日本ではどうか? 戦後政府はあの戦争が一体何のためだったのか、
そして誰が主導してきたのか、という最も大事な”検証”を行なわず(あるいは
隠蔽してしまい)、310万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えたことへの責任と
反省を明確にしてこなかった。戦犯として連合国による東京裁判で有罪となっ
た戦犯人の処刑と服役、戦後の近隣緒国に対する国家損害賠償が済んだあと
は、全ての責任を果たしたかのような積りになっている。


そこにはドイツのように、二度とあの忌まわしい戦争を起こさない、という日本国
自身の真摯な反省と強い覚悟が感じられない。曖昧にうやむやの内に全てを片
付けてしまい、何事もなかったかのように振る舞っている。


今また日本が安倍政権のもとで、急速に戦前の軍国主義へと向かいつつあるの
は、そうした過去の過ちの検証と反省を怠ってきたせいなのだと思う。戦争の実
体がどのようなものか、いかに理不尽で無残なものかということに、想像する働
かせず、まるでヴァーチャル・ゲームような感覚で、”日本を守るためには戦う”
などと安易に政治家の嘘に同調してしまう人たちのなんと多いことか・・・


何事につけ、最も責任の重いはずの為政者たち権力者たちが責任を取らない
日本という国の「無責任体質」はそのまま今もあらゆることに事に息づいていて、
福島原発事故の責任も、国策として推進してきた政治家、企業、利権業者、官僚
の誰一人として責任を問われていない。


危険な放射能を広範囲にばら撒き、海を汚染し、農地を汚染し、故郷を追われ、
生活の基盤を根こそぎ奪われてしまった被災地の数十万人の方々は、今や”国”
から見捨てられようとしている。日本という国は過去の悲惨な経験から何も学び
はしなかったのだ。