現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

児童文学的リアリズムについて

2021-10-17 18:03:42 | 考察

 ライトノベルなどを論ずる時に、マンガ的リアリズムという用語が使われることがあります。
 それは、一般社会を描写する自然主義的リアリズムではなく、すでに膨大に蓄積されているマンガやアニメに依拠した世界を描写したリアリズムのことです。
 それと同じように児童文学にも、児童文学的リアリズムがあります。
 数百年に渡って蓄積された膨大な児童文学に依拠した世界を描写したリアリズムです。
 一番分かりやすい例は、民話や伝説を再話して創作された作品(松谷みよ子の「龍の子太郎」(その記事を参照してください)など)でしょう。
 民話や神話以外にも、グリム童話やアンデルセン、イソップなどの古典の作品世界は、多くの児童文学作品で半ば無意識に用いられています(雪の女王のイメージ、狐はずるいといった動物キャラクターなど)。
 最近の魔法ブームの大本は、トールキンの「指輪物語」でしょうが、すでにその原点は知らずに、孫やひ孫のように依拠している作品(児童文学に限らず、ゲームやアニメなども)が夥しい数、存在します。
 もっとも、トールキン自体、神話の世界に依拠しているのですが。
 こういった古典の世界をもとに創作するのは問題ないのですが、最近の作品(特にディズニーなどの世界的にヒットしたもの)に依拠して創作すると、著作権などの問題を引き起こす恐れがあるので注意が必要です。

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渡辺茂男「子どもの文学とは?(前半)」子どもと文学所収

2021-10-17 14:12:10 | 参考文献

 石井桃子と分担する形で、この大きな命題を担当しています。
 著者は、以下の小見出しの部分を執筆しています。
「ちびくろ・さんぼ」
「いちばん幼いときに」
「お話の年齢」
「昔話の形式」
「子どもの文学で重要な点は何か?」
 「子どもと文学」の中で、最も突っ込みどころが満載で、出版当時もいろいろな批判を浴びましたし、後年になってその視野の狭さやここで述べた内容が技術論に偏っていたことによる現代児童文学(特に幼年文学)に与えた悪い影響も指摘されました。
 著者を個人攻撃するつもりはありませんので、フェアになるように著者について簡単に紹介いたします。
 著者は、後年、私の大好きな「ミス・ビアンカ」シリーズや「エルマーの冒険」シリーズを初めとした魅力的な英米文学をたくさん翻訳し、「寺町三丁目十一番地」という優れた作品も創作し、慶応大学教授として図書館学を中心に後進の教育にもあたった児童文学者です。
 しかし、この文章を書いたときは、アメリカでの留学と図書館での実習から帰国したばかりで、「子どもと文学」を作った「ISUMI会」にも途中から参加しています。
 メンバーの中では一番若く、途中参加で日本の児童文学にも疎かった(逆に当時のアメリカの図書館の強い影響下にあった)と思われる青年に、この一番肝ともいえる部分(あるいはそう考えていなくて、「子どもの文学で重要な点は何か?」という命題自体を軽視していたのかもしれません)執筆させたのですから、文責はメンバー全体にあると考えていいでしょう。
 そして、そのことが、「英米児童文学」(かれらは欧米と書いていますがほとんどイギリスとアメリカだけです)の強い影響と、それを日本の児童文学にダイレクトに適用する限界を示しているのかもしれません。
 また、以下に、内容に含まれている差別やコンプレックスや偏見を指摘していますが、それは著者や他のメンバーたちが特に差別主義者であったかとか、視野が狭かったかということではなく、当時の日本人の一般的な(というよりはやや進歩的な人たちだったからかもしれません)考えがそうだったということだと思われます。

「ちびくろ・さんぼ」
 この作品自体が、黒人差別だということで、現在はほとんど絶版になっています。
 この問題については、それだけで本になっています(詳しい内容やこの問題に対する私の意見については、それに関する記事を参照してください)。
 まず、この本がイギリスやアメリカで「三びきのクマ」や「シンデレラ」などと並ぶほどの名士になっていると書いていますが、著者は黒人の子ども読者がこの作品をどのように読んでいるかは無視しているのではないかとの疑念がわいてきます。
 次に「ちびくろ・さんぼ」の内容を説明していますが、それらについては関連の記事を参照してください。
 最後に、病院での実験(五冊の本の反応を比較する)を紹介し、この本が一番「子どもが気にいった」として、その理由として「登場人物の心理、倫理性、教訓性など、抽象的な要素は弱く、具体性、行動性、リズム、スリル、素材の親近性、明るさ、ユーモアなどの要素が強い」としています。
 まず、このような「子どもが気にいった」という評価基準を、あたかも優れた児童文学の基準であるかのようにする書き方は問題が多いと思われます。
 例えば、子どもに、「コーラと、フルーツジュースと、野菜ジュースと、牛乳と、水」を与えて、「どれが気にいった」かで優れた飲料を決めるようなものです。
 この例が極端だとすれば、「ゲームと、アニメのDVDと、コミックスと、図鑑と、児童書」でも構いません。
 子どもたちにとっての、その時の状況や目的によって、「どれが気にいった」かなどは変わるものであり、絶対的なものではありませんし、多数決で決めるものでもありません。
 また、「登場人物の心理、倫理性、教訓性など、抽象的な要素」は、子どもの本にはまったくいらないのではないかとのミスリードを起こして、子どもの本の範囲を不必要に限定してしまう恐れがあります(現に多くの後進の作家(特に幼年文学)に悪い影響を与えました)。

「いちばん幼いときに」
 ここに書かれていることはおおむね正論なのですが、当時の日本の児童文学の問題点が具体的に書かれていないので、たんなるイギリスのマザーグースや日本のわらべ歌や昔話と比較しての批判だけになってしまっています。

「お話の年齢」
 題名とは関係なく、ふたたび、昔話のわかりやすさについて述べられているだけで、「お話の年齢」という題名に込められた著者の意図が不明です。

「昔話の形式」
 昔話の構造がモノレール構造で、「はじまりの部分」、「展開部」、「しめくくりの部分」で構成されていることが、ノルウェイの民話「三匹のやぎ(現在は「三びきのやきのがらがらどん」というタイトルで親しまれています)」を用いて詳しく説明しています。
 その分析は正論なのですが、それを「子どもの文学」全体にあてはめようとするのが無理なので、「幼年文学」と限定すればおおむねあてはまります。
 おそらく、この前の「お話の年齢」で、そのことをきちんと書けばよかったのでしょう。

「子どもの文学で重要な点は何か?」
 こんな書くのも恐ろしいような大テーマを、「素材とテーマ」、「プロット」「登場人物の描写」、「会話」、「文体(表現形式)」などに分けて、主に書き方について検討しています。
 このために、「子どもと文学」は、「技術主義偏重」「内容のないステレオタイプな作品(特に幼年文学)を量産した」と批判を受けました。
 「子どもと文学」全体では「子ども」の年齢を特に明示していないのですが、石井桃子の担当部分では「二歳から十二、三歳まで」と書かれているので、ケストナー(8歳から80歳)や宮沢賢治(アドレッセンス中庸、詳しくはその記事を参照してください)や現在の児童文学の定義(赤ちゃんからヤングアダルトまでの未成年者全体)と比べるとそれでもかなり狭い(特に上限が低い)ようです。
 著者の文章の対象年齢はさらに低く、現在で言えば「幼年文学」ならばあてはまることが多いようです。
 内容について、特に問題があると思われるのは、「素材とテーマ」の部分に集中しています。
「死であるとか、孤独であるとか、もののあわれを語ることがどんなに不適当なものであるかは、欧米の児童文学の歴史がはっきりと証明してくれます。」
 このことが、「現代児童文学」が人生や人間(子どもたちも含む)の負の面を取り扱うことをしなくなることにつながり、こうしたタブーが「現代児童文学」で破られるのは1970年代になってからでした(皮肉にも、海外ではこうしたタブーはこの文章が書かれた時にはすでになく、ハンガリーのモルナールが「主人公の死や彼が死を賭して守った空き地の喪失」を描いた「パール街の少年たち」を書いたのは1907年ですし、ドイツのケストナーが「両親の離婚」を描いた「ふたりのロッテ」(その記事を参照してください)を書いたのは1949年です(ただし、この作品はユーモラスなハッピーエンドなので、シリアスに描いた作品の嚆矢は、1966年(この文章よりは後ですが)に書かれたロシア(当時はソ連)のフロロフの「愛について」(その記事を参照してください)でしょう。こうしてみると、「子どもと文学」の視野が、欧米と称しつつ、いかに英米児童文学に限定されていたかがよくわかります)。
「悲惨な貧乏状態を克明に描写したものや、社会の不平等をなじったものも、(中略)ストーリ性のない観念的な読み物となっていることが多く、どうしても子どもたちをひきつけることはできません。」
 皮肉にも、「子どもと文学」が出版されたちょうど同じ年(1960年)に出版された山中恒「赤毛のポチ」は、「悲惨な貧乏状態を克明に描写したもの」で、なおかつ「社会の不平等をなじったもの」でしたが、「ストーリ性のない観念的な読み物」ではなかったので、大人読者だけでなく子ども読者にも広く読まれました(その後の社会主義的リアリズムの児童文学作品で「赤毛のポチ」を超える物は生まれませんでしたが、その可能性は否定されるべきものではありません)。
「時代によってかわるイデオロギーは ―たとえば日本では、プロレタリア児童文学などというジャンルも、ある時代には生まれましたが― それを
テーマにとりあげること自体、作品の古典的価値(時代の変遷にかかわらずかわらぬ価値)をそこなうと同時に、人生経験の浅い、幼い子どもたちにとって意味のないことです」
 この文章に対しては、児童文学研究者の石井直人が「現代児童文学の条件」(その記事を参照してください)という論文の中で、「プロレタリア児童文学は、子どもたちの「人生経験」の場に他ならない生活の過程をこそ思想化しようとしたのではなかったのか、また、イデオロギーではないはずの「古典的価値」が批判された(「ちびくろ・さんぼ」が人種差別と批判されたことを指します)ことは時代の変遷に関わらない思想などありえないことの証ではないのか」と、批判しました。
 この批判は至極もっともですし、さらに言えば、それまでの日本の児童文学の読者対象が中産階級以上の子どもたちに限られていたのを、労働者階級の子どもたちにも開放した「プロレタリア児童文学」の歴史的な意義を無視して批判していることで、「子どもと文学」のイメージしている「子ども」が、実は英米の中流家庭の子どものようなものであったことが、図らずも暴露されているように思われます。


子どもと文学
クリエーター情報なし
福音館書店









                                                                   




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