現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

本田和子「児童文学における「伝え」の問題」児童文学研究No.1所収

2021-10-23 17:53:03 | 参考文献

 1971年に、日本児童文学学会の紀要に掲載された論文で、児童文学の「伝達性」について、当時の作品(松谷みよ子「ふたりのイーダ」などの戦争児童文学を中心にしています)を分析しています。
 当時の児童文学は、現在よりも「大人の作者が書いて、子どもの読者が読む文学」という性格が強かったために、「表現性よりも伝達性の強い文学である」という主張(著者が挙げている例としては、鳥越信など)があり、それに対して、作者が特定の読者に語りかける形で成立した古典的な作品(ここでは、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」とリンドグレーンの幾つかの作品があげられていますが、有名なところではケネス・グレアムの「たのしい川辺」などもそうです)があるという理由で、「伝達の文学」ととらえるのは表面的だと批判しています。
 言葉の解釈に厳密な著者は、「伝達」(コミュニケーション)を、作者側から「伝える」(自動詞)と、読者側へ「伝わる」(他動詞)の二面からとらえる必要性を指摘しています。
 そう考えると、「伝達性」と「表現性」は対立する概念でなく、作品は作者の「自己表現」であると共に、読者によく「伝わる」表現でなければならないとしています。
 そうした観点で、七つの作品(松谷みよ子「ふたりのイーダ」、おおえひで「八月がくるたびに」、田中博「遠い朝」、早乙女勝元「火の瞳」、長崎源之助「ゲンのいた谷」、赤木由子「はだかの天使」、須藤克三「出かせぎ村のゾロ」で、最初の五作品は「原爆ないしは戦争体験」を、六作目は「発達障害児への関心と善意」を、七作目は「出かせぎ農村の現状」を「伝え」ようとしています)を例に挙げて、分析しています
 これらのすべての作品において、作者の「伝え」ようとする姿勢については、「求道的とすらいえるほどに真面目で」「作者をとりまく現実への真剣な関心が、これらの作品に溢れんばかりに反映されるのである」としています。
 一方で、「ふたりのイーダ」を除く六作品は、子ども読者に「伝わる」ための表現が不十分だとしています。
 第二から第五までの四作の戦争児童文学については、体験者(大人)は感動的で共感しやすい世界であるが、現代の子どもたちにとっては「歴史上の出来事」或いは「過ぎ去った時代を懐かしむ世代の追憶」としてしかとらえられないのではないかとしています。
 「ふたりのイーダ」に関しては、主人公の現代の少年の目を通して、読者も原爆や戦争の悲惨さを追体験できる表現がされていると高く評価していますが、一部の章では作者の生の体験が語られていて読者が追体験できないと指摘しています。
 そして、「作者の「伝え」の内容が、過去の事実に源をおくものである場合、その時間と空間をいかにして現代と重ね合わせていくか、という課題」があるとしています。
 残りの二作については、「「伝え」の内容を現在の時間枠に存在する事実にとっている」が、「事実を知らせる」という範囲を出ていなくて、それぞれの「事実」の当事者以外には、十分に伝わっていないとしています(これらについては、この論文では、詳しく分析・検討していないので、「改めて、より精細に論じる機会が必要である」としています)。
 再三、リリアン・スミスの「児童文学論」が引用されているように、著者の立場は、「子どもと文学」グループと同様に、英米児童文学に立脚しており、子ども読者にいかに「伝わる」かに重きを置いています(児童文学を、作者の自己表現としての文学よりも、子ども読者にとっての文学を重視しています)。
 しかし、「子どもと文学」の「おもしろく、はっきりわかりやすく」という主張が独り歩きして、「おもしろさ」や「わかりやすさ」ばかりが重視されている現在からながめると、「伝え」るべき事実の重要性も無視しているわけでなく、作者と読者の間の「伝え」のギャップを解決しようとする意志が強く感じられました。

 

ふたりのイーダ (講談社青い鳥文庫 6-6)
クリエーター情報なし
講談社
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