現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

本田和子「児童文学における時間と空間の問題」児童文学研究No.2所収

2021-10-07 16:32:53 | 参考文献

 1972年に、日本児童文学学会の季報に掲載された論文です。
 児童文学作品、特にファンタジー作品(ルイスの「ナルニア国物語」を中心に分析しています)における時間と空間の持つ意味について考察しています。
「ナルニア国物語」では、ナルニア国の数千年の歴史が、現実の時間(登場人物にとっての現実です)にして約半世紀の間に展開します(さらに言えば、読者にとっての現実の時間では、すべての巻を連続して読んだとしても、数日(全巻手元にあった場合)から数週間(図書館などを利用した場合)でしょう)。
 しかも、ナルニアでは千年以上経過していてもこちらでは一年の時間の流れであったり、逆にナルニアの十分がこちらの一週間であったり、まったく規則性はありません。
 つまり、ナルニアの時間とこの世界(くどいようですが登場人物にとっての世界です)の時間とは、完全に異なった「とき」を刻んでいます。
 以上のような特性は、作品世界の中に空想世界と主人公たちにとっての現実世界が存在するタイプのファンタジー作品ではほぼ共通します。
 さらに、著者は「ナルニア」の冒険を終えて帰ってきたときは、いつも出かけたその日の同じ時刻なのである」と指摘しています(作品によって必ずしもこのルールは厳密には適用されていませんが、一般的に空想体験に比べてはるかに短い時間の場合が多いでしょう)。
 著者は、これらを、「子どもたちにとって、熱中し、没頭し切ることの出来る「自己自身の世界の体験」は、ほんの数秒であっても、数か月、数年に値する体験なのである」と解釈しています。
 空間については、目に見え手で触れる世界(Outer Reality)よりも、ものの内側にある世界(Inner Reality)が、より広い世界であるとしています。
 そして、これら「時間」や「空間」の特性は、子どもたちが遊びに没入するときの時間や空間の認識と同じであるとしています。
 さらに、「読む」という行為自体も、たんに作者の「想像空間」をのぞいたり眺めたりするものではなく、読者自らがその世界になりきる(想像空間を形成する)ことであるとしています。
 このことは、非現実の世界を描くファンタジー作品に限らず、文学作品一般に当てはまることでしょう。
 私自身の体験でいえば、子どもの頃にケストナーの「エーミールと探偵たち」を読んでいた時の自分を思うと、そこに描かれていた世界を「のぞいたり眺めたり」していたのではなく、エーミールや仲間たちと一緒に悪漢を追っていたのです。
 つまり、1960年代の日本の男の子が、ドイツの子どもたちと一緒に、1930年代のベルリンの街を、時空を超えて走り回っていたと言えます。
 こうした、遊びに没入することができるのは、著者が他の論文(その記事を参照してください)でも指摘しているように、自分の内部と外部が不分明な子どもの特性でしょう。
 私自身の経験でも、読書に一番没入できたのは十代のころまでで、今では我を忘れて読みふけるような体験はごくまれです。
 その点、時間的、空間的に制限されている映画(しかも暗闇)や演劇などの方が比較的大人になっても没入しやすかったようです。
 さらに、大人でも、パチンコなどのギャンブルやゲームやスマホ、そして仕事などには、没入している人がたくさんいますが、これらには、人間を没入させるための巧妙な仕組み(報酬、罰、参画意識、承認欲求の充足など)が施されています(それぞれ巨大なビジネスですので、莫大なお金と時間をかけて練り上げられています)。
 著者は、文学作品の特性として文字を使用していることをあげ、「従って、子どもたちは、これを手がかりとして、のびのびと容易に、非現実の世界を作り出すことが出来る」としています。
 四十年以上前に著者がどこまで意識していたかはわかりませんが、「文字」という抽象度の高い媒体を通して、作者と読者がコミュニケーションをとる読書という行為が、現在ではかなり困難(あるいは限定的)になっていることも事実です。
 より抽象度の低い映画、マンガ、アニメ、ドラマ、ゲームなどの方が、「物語」を伝達するツールとしては受容が簡単です。
 かつては、これらには、時間的空間的制約(月に一度しか発売されない、映画館に行かなければならない、放送時間が決まっているなど)があり、そういった制約が少ない(過去に出版された本でも図書館や貸本屋で簡単に借りられる)本が、物語を消費するツールとして選ばれていたのです。
 しかし、テレビ放送(アナログ、ハイビジョン、ディジタル、4Kと進化しています)が始まり、マンガ雑誌が週刊になり、テレビや映画が録画(アナログビデオ、DVD、ブルーレイと進化しています)できるようになり、電子ゲーム(パソコン、据え置き型、携帯型、ネットと進化しています)が誕生して、前述した時間的空間的制約が軽減されていきました。
 決定的なのは、スマホの登場です。
 スマホにより、映画も、マンガも、アニメも、ドラマも、ゲームもすべて手元で見られるようになり、物語消費に対する時間的空間的制約(経済的な制約はありますがそれは巧妙に隠されています)がほとんどなくなりました。
 しかも、スマホは本来通信機器ですので、会話もメールも検索も行え、音楽、演芸、スポーツ鑑賞などの他の娯楽の媒体でもあります。
 これらは、画像や音声や動画がすべてディジタル化したことと、通信容量や半導体の集積度が飛躍的に向上したために実現しました。
 そして、その傾向は、半導体のムーアの法則が成り立つ限り、AIやVRの進歩とともに、さらに加速度的に続いていくことでしょう。
 厳密にいうと、文字情報はディジタル化した時に、音声や画像や動画よりも圧倒的に少ない容量で済むので、その特性を生かせば、読書という行為が生き延びる道(例えば、瞬時に安価に古今東西のあらゆるテキスト(文字情報)を、スマホに提供するサービスなど)はあると思うのですが、今のところ目立ったビジネスの動きはありません。
 著者は、「このような体験、すなわち、感性的認識の世界を超える内的世界での体験、そして大人の論理と秩序への接近を強制される現実体験を超えた自己自身の世界の確立は、子どもの発達にとって欠くべからざる部分と思われる。特に、子どもが自由に駆使しうる時・空間が極端に狭められ、子ども自らの要求や行動も、外的現実のレベルでのみ行われがちな現状況の中では、特にその意義が問い直されるべきであろう」と、最後に述べていますが、四十年以上たった現在では、その傾向はますます強まり、子どもたちが「文字」という抽象度の高い情報を「手がかりとして、のびのびと容易に、非現実の世界を作りだすことが出来る」読書という行為の重要性は増しています。
 

「ナルニア国ものがたり」全7冊セット 美装ケース入り (岩波少年文庫)
クリエーター情報なし
岩波書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする