現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

ギルバート・グレイプ

2021-10-12 10:45:52 | 映画

 1993年のアメリカ映画です。
 アメリカのさびれた田舎町で暮らす閉塞した状況の青年を、若き日のジョニー・ディップが好演しています。
 主人公は、父の自殺をきっかけに過食症になって、鯨のように太ってしまって(何百キロもありそうです。アメリカなどではこうしたいろいろなタイプ(すごく太った、すごく痩せた、すごく背が低い、すごく背が高いなど)の俳優がいるようです)家から一歩も出ない母親、知的障害のある弟(レオナルド・ディカプリオが好演して、アカデミー助演男優賞にノミネートされました)、二人の妹をかかえて、小さな食料品店で働いて古い父親の手作りの家を修理しながら、懸命に生きています。
 そんな彼のせめてもの息抜きは、お得意さんの奥さんとの、配達の時の不倫です。
 二人の関係は夫に感づかれているようなのですが、ある日、その夫は変死(子どもプールでおぼれます)して、疑われた奥さんは子どもたちを連れて町を出ていきます。
 その一方で、主人公は、祖母と二人でアメリカ中をキャンピングカーで旅している、自由な生き方(それは主人公が一番望んでいるものです)をしている少女と知り合います(キャンピングカーを牽引している車が故障して、この町に足止めされています)。
 主人公は、彼女やその生き方に強く惹かれているのですが、やがて車がなおって町を出発する彼女を、自分の生き方を見つめ直しながらも知的障碍者の弟と二人で見送ります。
 急死した母の死体とともに古い家を燃やす(母の死体を運び出すのに軍隊やクレーンが必要になり、地域の人に笑われる(それは母親が一番恐れていたことでした)のを防ぐためです)ことが、主人公を拘束している現実から解き放つことを象徴しているようでした。
 そして、一年後、再びこの地を訪れた少女と再会するラストに、おおいなる救いを感じました。
 日本での公開後に、演劇をしていた若い友人(高校生でした)から見るのを勧められた映画の一つです(他には、「恋する惑星」(その記事を参照してください)などがありました)。
 困難な状況でもそれを投げ出さずに、その一方で自分の生き方を見つめ直している主人公の生き方は、格差社会の困難な状況にいる今の日本の若い世代にも共感を持たれると思います。

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ソウル・キッチン

2021-10-10 17:31:38 | 映画

 2009年公開のドイツ映画です。

 大衆食堂を経営するギリシャ系の青年と、その周辺の人々を描いています。

 移民に寛大な国であるドイツらしく、様々な人種の人々が登場します。

 主人公の兄(窃盗で服役し、仮釈放中)、恋人(祖母が大金持ちで、彼女も優秀で海外に派遣されます)、従業員の女性(兄の恋人になります)、シェフ(一流レストランをクビになっています)、理学療法士(ギックリ腰になった主人公を親身になって面倒を見て、新しい恋人になります)、いろいろな怪しげな友人たちなど、個性的な登場人物たちが、主人公にからんできます。

 ストーリー自体はかなりハチャメチャなコメディなのですが、全編にスタイリッシュな音楽と映像があふれていて、けっこう楽しめます。

 

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猪熊葉子「小川未明における「童話」の意味」日本児童文学概論所収

2021-10-09 15:46:57 | 参考文献

 近代童話の基礎を築いたといわれる巌谷小波が、将来の少年文学(児童文学と同義と考えていただいて結構です)が目指すべきであるとした「詩的お伽噺」または「情的お伽噺」を、1910年に発表した「赤い船」の中で初めて実現した作家と位置付け、その後の日本の児童文学において一つの伝統を形成していったとしています。
 しかし、未明の「童話」は、初期は自らが言うように「わが特異な詩形」にすぎず、1926年に童話に専心してからは濃厚な教訓臭が感じられると指摘しています。
 そして、それは、未明が、子どもの側に立って創作していなくて、彼の描いた子どもたちは「無知」、「感覚的」、「真率」といった概念に過ぎず、「真の子ども」ではなかったからだと批判しています。
 この論文は1976年に出版された本に掲載されたものですが、おおむね当時の「現代児童文学論者」(狭義の「現代児童文学」の定義については、関連する記事を参照してください)の共通認識に沿ったものでした。
 しかし、ここでいう「真の子ども」や「現実の子ども」もまた一つの概念に過ぎず近代(日本の場合は明治以降)に発見されたものであると、1980年に柄谷行人に「児童の発見」(「近代文学の起源」所収、その記事を参照してください)において批判を受けます。
 この柄谷の論文は、同年に翻訳が出たアリエスの「子どもの誕生」(その記事を参照してください)の影響下にあると思われますが、現在の児童文学研究者はおおむね肯定的に受け入れています。
 狭義の「現代児童文学」が終焉した(関連する記事を参照してください)現在においては、児童文学における「子ども」という概念は、ますます絶対的なものではなく、相対的なものになっていると思われます。

日本児童文学概論
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東京書籍
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安藤美紀夫・古田足日「対談 「現代児童文学の方法」について」日本児童文学1984年4月号所収

2021-10-08 11:12:07 | 参考文献

 冒頭で、「現代児童文学」の始まりのひとつと言われる1953年の「少年文学宣言」をふり返って、当事者の一人であった古田は、「変革」という言葉に社会主義リアリズムの影響を認め、児童文学全体の変革という広い意味と、個の変革と社会の変革につながる児童文学という狭い意味(社会主義リアリズムの児童文学)の両方があったと述べています。
 当時と1980年代とでは、子どもの成長発達観に大きな違い認められると指摘しています。
 かつては「大人」は「子ども」の確固たる到達点であったのだが、1980年代にはそれが世界的に揺らいでいるとしています。
 それに至る過程で、すでに1960年代から1970年代にかけて、理想主義的な児童文学のあり方が揺らぎ始めてきたと指摘しています。
 それは、イニシエーション(通過儀礼)およびパラダイスロスト(楽園喪失)を描いた作品(例えば大石真の「教室203号」や那須正幹の「ぼくらは海へ」など)に現れてきているとしています。
 しかし、彼ら(特に古田)の議論の根底には、社会主義リアリズムのしっぽみたいなものをまだ引きずっていて、そこへのノスタルジアが感じられます。
 「現代児童文学」が否定した安易なメルヘン(特に幼年もの)への先祖帰りや、自分の作品を本にすることだけを目的にしている無思想な書き手の層を、「退廃」と批判していますが、彼ら自身も含めてそれらへの有効な対応策が出せなかったままに現在に至っています。
 社会性のある作品を望む一方で、プロットのおもしろさの重要性も強調していますが、それらを兼ね合わせたような作品創出方法については語られていません。
 最後に、戦争児童文学について、もう体験を語るだけではだめで、方法意識を明確にした作品が必要だという認識が示されて、対談は終了しました。
 偶然ですが、この対談の直後の1984年2月に、日本児童文学者協会の合宿研究会で、幸運にも今は亡き両先生と同室になり、一晩お酒を酌み交わしながら、この対談と同様のお話を生でうかがったのが懐かしく思い出されます。
 この対談からすでに四十年近くが経過しますが、今の状況において有効な「現代児童文学の方法」はどのようなものであるか? 両先生ならどのようにお考えになるか? という気持ちは、今でも持っています。

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本田和子「児童文学における時間と空間の問題」児童文学研究No.2所収

2021-10-07 16:32:53 | 参考文献

 1972年に、日本児童文学学会の季報に掲載された論文です。
 児童文学作品、特にファンタジー作品(ルイスの「ナルニア国物語」を中心に分析しています)における時間と空間の持つ意味について考察しています。
「ナルニア国物語」では、ナルニア国の数千年の歴史が、現実の時間(登場人物にとっての現実です)にして約半世紀の間に展開します(さらに言えば、読者にとっての現実の時間では、すべての巻を連続して読んだとしても、数日(全巻手元にあった場合)から数週間(図書館などを利用した場合)でしょう)。
 しかも、ナルニアでは千年以上経過していてもこちらでは一年の時間の流れであったり、逆にナルニアの十分がこちらの一週間であったり、まったく規則性はありません。
 つまり、ナルニアの時間とこの世界(くどいようですが登場人物にとっての世界です)の時間とは、完全に異なった「とき」を刻んでいます。
 以上のような特性は、作品世界の中に空想世界と主人公たちにとっての現実世界が存在するタイプのファンタジー作品ではほぼ共通します。
 さらに、著者は「ナルニア」の冒険を終えて帰ってきたときは、いつも出かけたその日の同じ時刻なのである」と指摘しています(作品によって必ずしもこのルールは厳密には適用されていませんが、一般的に空想体験に比べてはるかに短い時間の場合が多いでしょう)。
 著者は、これらを、「子どもたちにとって、熱中し、没頭し切ることの出来る「自己自身の世界の体験」は、ほんの数秒であっても、数か月、数年に値する体験なのである」と解釈しています。
 空間については、目に見え手で触れる世界(Outer Reality)よりも、ものの内側にある世界(Inner Reality)が、より広い世界であるとしています。
 そして、これら「時間」や「空間」の特性は、子どもたちが遊びに没入するときの時間や空間の認識と同じであるとしています。
 さらに、「読む」という行為自体も、たんに作者の「想像空間」をのぞいたり眺めたりするものではなく、読者自らがその世界になりきる(想像空間を形成する)ことであるとしています。
 このことは、非現実の世界を描くファンタジー作品に限らず、文学作品一般に当てはまることでしょう。
 私自身の体験でいえば、子どもの頃にケストナーの「エーミールと探偵たち」を読んでいた時の自分を思うと、そこに描かれていた世界を「のぞいたり眺めたり」していたのではなく、エーミールや仲間たちと一緒に悪漢を追っていたのです。
 つまり、1960年代の日本の男の子が、ドイツの子どもたちと一緒に、1930年代のベルリンの街を、時空を超えて走り回っていたと言えます。
 こうした、遊びに没入することができるのは、著者が他の論文(その記事を参照してください)でも指摘しているように、自分の内部と外部が不分明な子どもの特性でしょう。
 私自身の経験でも、読書に一番没入できたのは十代のころまでで、今では我を忘れて読みふけるような体験はごくまれです。
 その点、時間的、空間的に制限されている映画(しかも暗闇)や演劇などの方が比較的大人になっても没入しやすかったようです。
 さらに、大人でも、パチンコなどのギャンブルやゲームやスマホ、そして仕事などには、没入している人がたくさんいますが、これらには、人間を没入させるための巧妙な仕組み(報酬、罰、参画意識、承認欲求の充足など)が施されています(それぞれ巨大なビジネスですので、莫大なお金と時間をかけて練り上げられています)。
 著者は、文学作品の特性として文字を使用していることをあげ、「従って、子どもたちは、これを手がかりとして、のびのびと容易に、非現実の世界を作り出すことが出来る」としています。
 四十年以上前に著者がどこまで意識していたかはわかりませんが、「文字」という抽象度の高い媒体を通して、作者と読者がコミュニケーションをとる読書という行為が、現在ではかなり困難(あるいは限定的)になっていることも事実です。
 より抽象度の低い映画、マンガ、アニメ、ドラマ、ゲームなどの方が、「物語」を伝達するツールとしては受容が簡単です。
 かつては、これらには、時間的空間的制約(月に一度しか発売されない、映画館に行かなければならない、放送時間が決まっているなど)があり、そういった制約が少ない(過去に出版された本でも図書館や貸本屋で簡単に借りられる)本が、物語を消費するツールとして選ばれていたのです。
 しかし、テレビ放送(アナログ、ハイビジョン、ディジタル、4Kと進化しています)が始まり、マンガ雑誌が週刊になり、テレビや映画が録画(アナログビデオ、DVD、ブルーレイと進化しています)できるようになり、電子ゲーム(パソコン、据え置き型、携帯型、ネットと進化しています)が誕生して、前述した時間的空間的制約が軽減されていきました。
 決定的なのは、スマホの登場です。
 スマホにより、映画も、マンガも、アニメも、ドラマも、ゲームもすべて手元で見られるようになり、物語消費に対する時間的空間的制約(経済的な制約はありますがそれは巧妙に隠されています)がほとんどなくなりました。
 しかも、スマホは本来通信機器ですので、会話もメールも検索も行え、音楽、演芸、スポーツ鑑賞などの他の娯楽の媒体でもあります。
 これらは、画像や音声や動画がすべてディジタル化したことと、通信容量や半導体の集積度が飛躍的に向上したために実現しました。
 そして、その傾向は、半導体のムーアの法則が成り立つ限り、AIやVRの進歩とともに、さらに加速度的に続いていくことでしょう。
 厳密にいうと、文字情報はディジタル化した時に、音声や画像や動画よりも圧倒的に少ない容量で済むので、その特性を生かせば、読書という行為が生き延びる道(例えば、瞬時に安価に古今東西のあらゆるテキスト(文字情報)を、スマホに提供するサービスなど)はあると思うのですが、今のところ目立ったビジネスの動きはありません。
 著者は、「このような体験、すなわち、感性的認識の世界を超える内的世界での体験、そして大人の論理と秩序への接近を強制される現実体験を超えた自己自身の世界の確立は、子どもの発達にとって欠くべからざる部分と思われる。特に、子どもが自由に駆使しうる時・空間が極端に狭められ、子ども自らの要求や行動も、外的現実のレベルでのみ行われがちな現状況の中では、特にその意義が問い直されるべきであろう」と、最後に述べていますが、四十年以上たった現在では、その傾向はますます強まり、子どもたちが「文字」という抽象度の高い情報を「手がかりとして、のびのびと容易に、非現実の世界を作りだすことが出来る」読書という行為の重要性は増しています。
 

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スラムドッグ$ミリオネア

2021-10-06 16:41:24 | 映画

 インドのスラム街に生まれ育ったジャマールは、人気番組「クイズ$ミリオネア」に出演していました。
 司会者の挑発にも反応しないで、難解な問題の数々に冷静な対応するジャーマルは、とうとう最後の1問というところにまでたどりつきました。
 正解すれば、賞金は2000万ルピーです。
 18歳のジャーマルにとって、一生かかっても手にできない大金です。
 危機を感じた司会者は、1日目の収録が終わったところで警察に通報してジャマールを拘束させました。
 拷問を受けるジャマールは、これまで過ごしてきた人生を告白します。
 彼と兄のサリームは、幼い頃に母を亡くして孤児となりました。
 そんな二人が出逢ったのは、孤児の少女ラティカでした。
 彼らは自分たちを「三銃士」に見立てて、過酷な現実を生き抜いていきます。
 しかし、孤児たちを搾取する大人たちのもとから逃げ出す途中で、兄弟とラティカは生き別れとなってしまいました。
 ジャマールとサリームは、金を盗んだり観光ガイドのフリをして生き延びていきますが、やがてサリームは悪の道を歩みはじめます。
 そんな兄とは対照的な生き方をするジャマールの心の支えはラティカでした。
 彼女と再会したい彼は、「クイズ$ミリオネア」への出演を決意したのでした。
 そんなジャマールの身の上話を聞いて同情した警部は、彼を釈放しました。
「ファイナル・アンサー」を答えるため、テレビ局のスタジオへジャマールは戻りました。
 同じ頃、組織に監禁されていたラティカを救うため、サリームは自分の命を犠牲にしていました。
 最後の問題で、ジャマールは電話を使う「ライフライン」を使います。
 電話に出た相手は、なんとラティカでした。
 まるで運命のように、二人は再会を果たしたのでした。
 最後の難問にも正解して、ジャマールは2000万ルピーを獲得しました。
 彼の苦難に満ちたこれまでの人生は、ようやく報われました。
 アカデミー賞作品賞を初めとして数々の賞に輝いたヒット作品です。
 斬新な映像とスピードの速いストーリー展開を楽しめる、一流のエンターテインメント作品です。
 しかし、これが英語圏の映画の年間の最優秀作品だとなると、やはりアカデミー賞などの映画賞はすっかり商業主義化してしまっているんだんなと改めて思いました。
 近代化が進むインドの光と影に対するとらえ方も皮相的ですし、主人公の少年やその兄、恋人の描き方も断片的でよくわかりません。
 少年の半生によって偶然クイズの答え方がわかるというストーリーの進め方や、ラストの兄の自己犠牲によって少年と恋人が結ばれるというハリウッド好みのハッピーエンドも、いかにもご都合主義です。
 こういった娯楽性を前面に出した作品がこれだけ高く評価されるのは、映画に人が求めるものが娯楽中心に変わってきているからでしょう。
 それに関して言えば、文学(児童文学も含めて)に対して人が求めるものも、まったく同様です。
 

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古田足日「近代童話の崩壊」現代児童文学論所収

2021-10-05 15:38:32 | 参考文献

 1954年3月に早大童話会OBの同人誌である「小さい仲間」第5号に発表され、1959年に他の論文と一緒に出版された児童文学論です。
 その前年に早大童話会が発表し「現代児童文学」の出発点のひとつとなった「少年文学の旗の下に」(一般的には「少年文学宣言」として知られています)は、当時としては過激な宣言文ないしはアジテーションでした(それ以前に発表されていた「児童文学」のほとんどすべてである「メルヘン」、「生活童話」、「無国籍童話」、「少年少女読物」をバッサリとすべて切り捨てて、新しい「少年文学」を目指すべきであるとしています)ので、児童文学界では大論争が巻き起こりました。
「少年文学の旗の下に」は短い宣言文なので、観念的で舌足らずなものでしたから、その発表メンバーであった著者や鳥越信が中心になって、より詳しい内容を示す論陣を張りました。
 この「近代童話の崩壊」もその一環として発表されたもので、「メルヘン」の代表として小川未明の「赤いろうそくと人魚」を、「生活童話」の代表として岡本良雄の「あすもおかしいか」を取り上げて、それらの価値を認めつつも手法の限界について述べています。
 非常に観念的(この時点で、著者たちは彼らの立場に沿った具体的な作品を持っていませんでした。彼らの同志である山中恒の「赤毛のポチ」の連載がスタートするのは1954年7月で、完結して日本児童文学者協会新人賞を受賞するのは1956年、本になったのはさらに遅く1960年です)ですが、ようは現実の子どもを描き、社会の動きと連動して、社会変革の意志を持った作品でなければならないということのようです。
 彼らの主張(「散文性の獲得」「子どもへの関心」「変革への意志」)は、もう一つの近代童話批判の流れである石井桃子たち「子どもと文学」の主張である「おもしろく、はっきりとわかりやすく」とともに、「現代児童文学」の成立に大きく寄与していきます。
 このブログで繰り返し述べているように、「現代児童文学」はすでに終焉しています(一般には2010年と言われていますが、私見では1990年代半ばだと思っています)が、その遺志を継ぐ「ポスト現代児童文学」は、子どもたちや若い世代を取り巻く様々な問題に対する「変革への意志」を持った、おそらく一般文学の形態のものになると思われます。
 この論文の著者の古田足日先生は、2014年にお亡くなりになりました。謹んで先生のご冥福をお祈りいたします。
 

現代児童文学論―近代童話批判 (1959年)
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くろしお出版
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山本周五郎「樅の木は残った」

2021-10-03 11:36:28 | 参考文献

 幕府による仙台伊達藩のお取り潰しの陰謀に対して、苦闘する家老、原田甲斐の生涯を描いています。

 幕府の老中やそれにしそうされている藩の重役の様々な策略に対して、忍耐に忍耐を重ねて耐え忍びます。

 最後は、一切の責任を引っ被って死んでいき、そのおかげで藩は安泰になります。

 作者は、そこに男の美学を描きたかったのだろうだと思いますが、あまりにも代償が大きく(一族まで滅亡されます)、とても読み味が悪かったです。

 会社第一人間の多かった高度成長期には受け入れられた(NHKの大河ドラマを始めとして何度も映像化され、ベストセラーになっています)かもしれませんが、さすがに賞味期限が切れています。

 ただ、家老だけでなく、その部下たちや藩の様々な人たち、さらには市井の人々まで描ききる筆力はさすがのものがあります。

 

 

 

 

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古田足日「ロボット・カミイ」

2021-10-01 17:03:48 | 作品論

 1970年に出版された幼年文学の古典です。
 カミイは、仲良しの幼稚園児(ももぐみさんです)のたけしとようこが、ダンボールで作ったロボット(紙で作ったのでカミイという名前も、ベタな子どもらしいネーミングです)です。
 鋼鉄製(本人はそう思っている)のロボットのカミイは、力持ちで世界一強いはずなのですが、実は紙でできているので水に弱い(泣き虫なので自分の涙にも弱い)のです。
 カミイはわがままでいばりんぼなので、二人と一緒に行った幼稚園でも問題ばかりおこします。
 幼稚園児にとっての、自分よりもわがままで困った存在、そう、カミイはみんなの弟のようなものなのです。
 カミイとの行動を通して、お話の中の子どもたち(男の子と女の子のダブル主役なので、男の子読者も女の子読者も自分を主役にできます)も、そして読者の子どもたちも、自分の成長(おにいさんやおねえさんになったような気持ちになれます)を確認できることが、この作品の一番の魅力でしょう。
 それに、園内の小さな世界にとどまらず、みんなを助けるためにダンプカーにひかれて死んだカミイが、たけしとようこが破れたりしたところを補修するだけであっさりと復活して、最後はみんながダンボールで作ったチビゾウに乗ってロボットの国へ帰るというダイナミックなストーリーも備えています。
 作者は、実際に幼稚園に取材をしたり、教育実践を参考にしたりして、作品の幼稚園生活(書かれてから約五十年がたち、さすがに現在の幼稚園の実態にそぐわない個所もありますし、作品のジェンダー観(男の子と女の子の役割の固定化など)も古くなっていますが)にリアリティを持たせ、実際の園児たちの反応を確かめながら作品を膨らませています。
 作者の評論(特に初期のもの)は抽象的で難解なことが多く、高学年向きの作品には理が勝っている作品(「宿題引受け株式会社」(その記事を参照してください)など)もあるのですが、むしろ幼年文学(「おしいれのぼうけん」(その記事を参照してください)など)の方に生き生きとした優れた作品が多いように感じます。

ロボット・カミイ (福音館創作童話シリーズ)
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福音館書店
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