現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

大江健三郎「「「言葉」を書き写す」「自分の木」の下で所収

2019-11-07 16:19:24 | 参考文献
 古典などの文章を、自分で書き写すことの大切さを述べています。
 その効用としては、その時わからないことも印をつけておいて後で読み直すと理解できることがあることと、書き写したことはいつまでも忘れないことをあげています。
 実例にあげている古典は、杉田玄白の」解体新書」と新井白石の「折たく芝の記」です。
 現在では、大学の授業で板書されたこともスマホで写す学生が多いようなので、すっかり廃れてしまっていますが、かつては書き写すことが、勉強の基本だった時代が長く続きました。
 私はこれが大の苦手で、私のノートは一年たっても白紙のままのことが多かったです。
 それは、私がひどい悪筆で、後で読んでも自分でも何が書いてあるのかわからないし、他人に見られるとひどく笑われるので、だんだん筆記をやめてしまったせいです。
 友人たち(特に女性)の美しく書き写され、色鉛筆やカラーマーカーも使って整理されたノートを見て、羨望というよりは驚愕したことを今でも覚えています。
 社会人になってしばらくして、ワープロが実用化された時は、本当に嬉しくて、世界で初めて実用化されたワング社の英文ワープロが導入されたときも、富士通の日本語ワープロも、社内での立ち上げ役を買ってでました。
 家でも、当時は値段がまだ高かったのですが、1987年に東芝のワープロ(今のデスクトップPCよりも大きかったです)を購入し、1995年に有名なWindows95が搭載されたIBMのパソコンを購入するまで使い続けました。
 著者も文中で認めているように、読んだり書き写したりすることが彼にはすごくむいていたのでしょう。
 一方、著者の奥さんは、幼いころに母親に繰り返し読み聞かされた宮沢賢治の童話の世界を、今でも絵に描くことが苦もなくできるそうです。
 要は、その人が一番向いている方法を見つけ出して、それを使って勉強するのが一番の早道のようです。
 


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井上ひさし「聖ピーター銀行の破産」モッキンポット師の後始末所収

2019-11-07 16:17:11 | 作品論
 モッキンポット師シリーズの第3作です。
 主人公たち貧乏学生は、今までは主にカソリックの信者たちの好意に甘えて脱線を繰り返していたのですが、ついに禁断を犯してしまいます。
 修道士たちに、直接迷惑をかけてしまうのです。
 しかも、ご法度のギャンブル(私製のパチンコ遊びです)なので、カソリックの人たちからの反発もあったのではないかと思われます。
 作者としては、聖職者も煩悩からは逃れられないことを描きたかったのだと思いますが、最近のカソリックの聖職者たちのスキャンダルから比べると、かわいい内容です。
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林美千代「幼年文学とは」子どもと楽しむはじめての文学所収

2019-11-06 18:48:09 | 参考文献
 1999年に出版された幼年文学のブックガイドに、「幼年文学とは何か」を示すために書かれた論文です。
 ジャンル、グレード、<子ども>、表現、内容、物語の受容について、先行の書籍や論文を引用してうまくまとめられています。
 ここでいう幼年童話は、三歳ぐらいから小学校二年生ぐらいまでを対象としています。
 ただ、この本の出版時から子ども読者が本を受容する力がさらに落ちている現状を考えると、三年生ぐらいまで含めてもいいかもしれません。
 「幼年文学」の特徴として、「児童文学」がかかえている大人である作者と子どもである読者という関係が、よけいに顕在化する点があげられます。
 児童文学者のケストナーは、自分の作品を「八歳から八十歳」の子どものために書いていると述べましたが、「幼年童話」の場合は読者の受容力の問題があるのでそう単純にはいきません。
 ただ、あまりに「幼い子にもわかるもの」と意識すると、世の中にあふれている安直な幼年ものに堕する恐れがあります。
 その兼ね合いをどうつけるかが、一般の「児童文学」よりも難しい分野です。
 また、「幼年童話」は一般の「児童文学」よりも媒介者(両親、教師、図書館の司書など)の存在が明確です。
 それには、読み聞かせをする場合も、たんに子どもに本を手渡す場合もあるでしょう。
 どちらにしろ、子どもが本に出会うまでに大人が介在する余地が、一般の「児童文学」より大きいのです。
 そのため、「幼年文学」を出版する側は、「文字教育」を意識する度合いが大きいと思われます。
 それはまた、文字を覚える年齢の子どもたちの親や教師たちの要望でもあります。
 そのため、内容よりは読みやすさ、わかりやすさが優先されがちになっているようです。
 また、「幼年文学」は、「児童文学作家」にとって、残された聖地でもあります。
 かつて八十年代に「現代児童文学」を書いていた人たちのその後の方向は、大きく四通りに別れます。
 まず第一に、そのまま「現代児童文学」を書き続けて、本が売れなくて最後は自費出版までして頑張り続けている人たちです(丘修三、皿海達哉など)。
 次は、エンターテインメントの書き手になった人たちです(那須正幹、あさのあつこ、後藤竜二など。ただし、彼らはブランド力も出版社に対する影響力もあるので、いわゆる「現代児童文学」の出版も続けられます)
 次は、一般文学(L文学(女性を主人公にした女性作家と女性編集者による女性読者のための文学)が多いです)へ越境していった人たちです(江國香織、森絵都、上橋菜穂子など)
 そして、第四の方向が、「幼年童話」や「絵本の文章」の書き手になることなのです。
 「幼年童話」や「絵本」は「児童文学」の中において、出版点数も多くマーケットとして大きい(単価も高い)のです。
 しかも、前述したように媒介者の「教育的配慮」により、エンターテインメントの世界からもある程度守られています(ディズニー絵本やテレビ絵本などに一部は浸食されていますが)。
 こうして、現在でも「幼年童話」は量産されています。
 しかし、エンターテインメント作品と同様に、「幼年童話」も正しく評価されていない(批評の方法が確立していませんし、児童文学の賞の対象にもなりにくいです)ために、玉石混交でその大半は短期間に消費されるだけで、一般の「児童文学」以上に古典として残りにくい分野になっています。

子どもと楽しむ はじめての文学
クリエーター情報なし
創元社
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最上一平「あらわれしもの・明日の二人」

2019-11-04 09:31:03 | 同人誌
 過疎の集落の百三、四十年たつ古い家に二人で暮らす、明日九十五才になる(誕生日が一緒です)老夫婦の話です。
 からだの調子が悪い妻のために、家事や畑仕事いっさいを夫が引き受けています。
 ただ、料理だけは味付けがうまくいかず、おしゃべりな妻に時々「まずい」と冷やかされています。
 無口で人付き合いの苦手な夫が、最近元気のない妻を励まそうと、勇気をふるって、同じ集落の人にあんこの作り方を教わります。
 誕生日に、苦心のあんこたっぷりのぼたもちを頬張る二人の姿が印象的です。
 老夫婦、特に夫の普段の生活(草刈りや周辺の草花や山々の様子など)が、簡潔な美しい文章で綴られています。
 時々訪ねてきて二人の暮らしを助けてくれている長男の嫁との関係性の描き方も、過度に感傷的にならずに優れています。
 題名の「明日の二人」も、明るいラストにピタッとはまっています。
 今の児童文学の出版状況では、なかなか出版はされにくいと思われる、こうした文学性豊かな優れた作品を読むことができるのも、同人誌活動の醍醐味のひとつです。
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夏目漱石「こころ」

2019-11-02 17:05:29 | 参考文献
 この文豪の名作にコメントするつもりはありません。
 ただこの作品を久しぶりに読んだのは、キンドル(電子書籍リーダー、その記事を参照してください)で無料で簡単に読めたからです。
 キンドルストアの無料本のベストセラーの上位には常にランクされていますから、かなりの人数の人びとがあらためてこの作品に触れる機会を得たのでしょう。
 この作品に書かれている世界は、明治天皇が崩御されて明治が終わるころですから百年以上前のことです。
 そのころに書かれた作品が、風俗の違いこそあれ、今でも大きな違和感なく読めるのは、漱石の平明な文章によるところが大きいものの、書かれている内容に普遍性があるからでしょう。
 こういった近代文学の古典を読むと、文学の力というものを改めて感じることができます。
 これらの古典的な作品を身近に味わえるところに、電子書籍による読書という新しい風俗のひとつの意義があるのではないでしょうか。
 その点では、一部の例外を除くと、日本の児童文学の代表作の電子化は遅々として進んでいません。
 一方、英語圏の児童文学の代表作は、ほとんどが電子書籍になっていて、無料もしくは安価で手に入ります。
 日本の児童書の出版社が、児童文学作品を耐久財ではなく消費財と考えていることが、この点からも分かります。
 また、この作品の主人公や先生のような生き方(高等遊民)には、初めて読んだ中学生の時に強く憧れて、高校生や大学生の時にささやかながら実体験(当時の「高等遊民」の遊びは、最先端の演劇、映画、音楽、美術、文学などを追及することでした)しました。
 会社に勤めてからは、48歳までにHappy Retirementして高等遊民に戻りたいと考えていましたが、子どもが生まれたのが遅かったせいもあって実際にはだいぶ遅れてしまいました。
 今はようやくそういったものを追求できるのですが、現在ではかつての高等遊民の遊びの各分野とも、商業主義がひどく進んでしまっているので、それらの最新のものは追わずに古典や名作に親しむ方が無難なようです。

こころ (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社
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モーリス・センダック「かいじゅうたちのいるところ」

2019-11-01 17:38:38 | 作品論
 映画にもなった世界中で読まれている人気絵本です。
 1963年に出版されましたが、日本に紹介されたのは1975年です。
 私の読んだのは1998年4月28日69刷ですから、日本でもロングセラーになっています。
 主人公の少年マックスが家で大あばれして、おかあさんに怒られて部屋に閉じ込められてから、彼の不思議な大冒険が始まります。
 マックスが怪獣の王さまになるストーリー自体はそれほど波乱に富んだものではありませんが、センダックの描く怪獣たちの絵が迫力があり、画面構成の変化にも非常に工夫を凝らしてあって、主人公と読者の、意識と無意識の領域の変化を巧みに表していて、最後までページごとの主人公および読者の意識と無意識の変化を楽しめるつくりになっています。
 児童文学研究者の本田和子は、「境界にたって その3 「自己」の文学 ―― 無意識と意識のはざまに生まれるもの」(「子どもの館」18号所収、その記事を参照してください)という論文の中で、「この物語は、一人の少年の無意識への退行と、新たな統合を成就した上での意識への回帰を、あまりにも典型的に描き出していて説明の要もなく思えるほどである。」と評しています。
 この論文は1974年11月に発表されたもので、日本版が出る前なのでこの本の日本語の題名が違っていますが、すでに海外では評判になっていたようです。
 長文になるので細かい解説は引用しませんが、本田の心理学に基づいたこの絵本の解析は見事ですので、興味のある方は是非雑誌を図書館で取り寄せて読んでみてください。
 ご存知のように、この本は世界中で2000万部以上も売れたベストセラーになりました。
 本田が指摘しているように、意識と無意識が大人より不分明である子どもたちにとっては、両方の世界を象徴的に描いたこの本はすんなり受け入れられる作品なのでしょう。

かいじゅうたちのいるところ
クリエーター情報なし
冨山房
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