現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

「雨ニモマケズ」の謎

2021-01-24 11:38:22 | 作品

 ぼくが、まだ小学生の頃の話だから、もう二十年以上前のことになる。

 ガガンガガン、ガガンガガン、……。
 頭の上を電車が通る音がする。
(上り電車だ)
 シュンは、視線を改札口から奥にある階段へと移した。
 まず、集団の先頭を切って、シュンと同い年ぐらいの男の子がかけおりてきた。つづいて、制服やコートを着た高校生たちが、ガヤガヤおしゃべりしながらおりてくる。最後に、デパートの紙袋をさげたおばさんたちが、ゆっくりと歩いてきた。
降りてきたお客は、ぜんぶで十人ぐらいしかいなかった。駅の時計は、16時51分を示している。つとめ帰りの人たちがいないので、まだそれほど混み合っていなかった。
 改札口には、駅員が一人だけいる。最後の客が通り過ぎると、その駅員もいなくなった。
 四つ先のターミナル駅にある進学教室に、シュンが毎日通うになって、早くもひと月近くになる。
 いっしょにいっているケンタとの待ち合わせ時刻は、5時だった。ケンタは、いつもぎりぎりにやってきていた。いや、少し遅れてくることさえある。
 でも、シュンはいつも十五分前には到着していた。だれもいない家にいてもしかたがないし、たくさんの人たちがいきかう駅の構内は、気分がまぎれて好きだった。
 シュンが立っているのは、改札口の一番すみだった。
すぐそばには、携帯電話がない時代に、待ち合わせのために使われていた伝言用の古い黒板がおいてあった。深い緑色をしていてところどころそれがはげている。今日の日付だけがチョークでくっきりと書き込まれていた。その頃でも、伝言板のまわりだけは、人の流れからからも、時の流れからも取り残されたように、ひっそりしていた。まるでエアポケットか何かのようだ。
 降りてきた人たちの波がとぎれたとき、シュンはいつものように伝言板を読みはじめた。
『良平、遅刻するから先へ行くぞ。 剛』
『サヤちゃん、『コロラド』で待っています。 ヨーコ』
『レオのバカヤロー!』
『・・・・・・・・・』
 そんなに数は多くないが、まだ書き込みがされている。
伝言はみんな、思い思いに自分の言葉で書いてあった。シュンには、それだけではなんだかわからないものもある。きっと見る人が見れば意味がわかるのだろう。
 ガタンガタン、ガタンガタン、……。
 頭上では、下り電車が到着している。今度は上り電車と違って、大勢の人たちが改札口に押し寄せてくることだろう。

 下り電車から降りてきた人波が、ようやくとぎれた。
 シュンは、伝言板をもう一度はじめから順番に読んでいった。きちんと読みやすい字で書かれたものもあれば、力いっぱい書きなぐったものもある。
 一番最後まできたとき、
(おやっ?)
と、思った。
 そこには、ていねいな字でこう書かれていたからだ。
『雨ニモマケズ
 風ニモマケズ JU』
 どこかで、聞いたことがあるような気がする。
(なんだっただろう?)
シュンは、それが何かを思い出そうとしていた。
「おーす、シュンちゃん」
 いきなり声をかけられた。ふり返ると、ケンタがやってきていた。ジャンパーに手をつっこみ、急いでかけてきたのか、白い息をはいている。ケンタのほっぺたと半ズボンから出ている両足は、寒さで赤くなっていた。
二人は、すぐに今熱中している携帯ゲームの話をしながら、改札口の方へ歩きだした。

「2X+4Y=22。そして、X+Y=8」
 算数担当の門井先生が、黒板に書いた方程式について説明している。
 シュンは、今、方程式に夢中になっていた。
本当は、方程式は中学に入ってから習うのだが、この塾では受験対策として先月から教え始めている。
もともとシュンは算数が得意だったが、方程式の魅力にはすっかりまいってしまっていた。これを使えば、めんどうな旅人算も、時計算も、つるかめ算も一発なのだ。
(えーっと、Xイコール2マイナスY)
 だから、これを代入すると、……。
 シュンは、熱心にノートに計算していった。
「じゃあ、この問題は、 ……。吉村、おまえ、やってみろ」
 門井先生がシュンを指名した。
「はい。Xイコール5、Yイコール3です」
 シュンは、自信をもってこたえた。
「よし、いいぞ。 正解だ」
 門井先生が、笑顔でほめてくれた。
シュンはほこらしさで少し顔を赤くしながら、席にこしをおろした。

 翌日も、シュンはいつもの待ち合わせ場所に来ていた。やっぱりあの伝言板の前だ。
 今日も電車が着くたびに、たくさんの人たちが改札口を通りぬけていく。でも、その誰一人として、知っている人はいない。
 いつのまにか、シュンはまた伝言板をながめはじめていた。
「えっ?」
 シュンはびっくりしてしまった。一番最後に、こう書いてあったからだ。
『雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ JU』
 シュンは、いそいで昨日の文句をうかべてみた。
『雨ニモマケズ 
風ニモマケズ JU』
 たしかこうだった。
(今日のは、昨日の続きなんだ)
 有名な詩だったような気がする。
でも、誰の作品なのかまではわからなかった。
 ケンタがやってくるまでのあいだ、シュンはその文章をながめ続けていた。

 その晩、塾から帰ってからの遅い夕食の時だった。めずらしく帰りが早かったとうさんも、シュンといっしょに食べていた。
 おなかの虫がようやくひといきついたところで、シュンはとうさんに話しかけた。
「ねえ、おとうさん」
「うーん」
 生返事のとうさんは、ビールを片手にテレビのニュースを見ている。そこでは、レポーターがどこかの国の戦争のことを話していた。
「雨ニモマケズ、風ニモマケズって、なんだっけ?」
「えっ、なんだい?」
 とうさんが、ようやくテレビから目を離して聞きかえした。やっぱり、ちゃんと聞いていなかったんだ。
「雨ニモマケズ、風ニモマケズだよ」
「ああ、なんだ。宮沢賢治じゃないか」
 とうさんは、すぐに答えてくれた。
「宮沢賢治?」
 その人なら、シュンも聞いたことがある。たしか国語の教科書にも、『セロひきのゴーシュ』という童話がのっていた。授業の時に、たくさんの童話や詩をのこして、若くして亡くなったと教わった。

「あった、あった」
 シュンがお風呂上りにバラエティ番組を見ていると、とうさんが一冊の古い文庫本を持ってきた。
『宮沢賢治詩集』
 表紙にそう書かれている。本はほこりだらけで、ページは黄色くなりかかっている。ずいぶん長い間、読まれていなかったようだ。
 とうさんは手でほこりをはらうと、本をめくりはじめた。
「これだ、これ」
 とうさんがさし出したページに、その詩、『雨ニモマケズ』はのっていた。
『雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ
 ……』
 おとうさんが、声に出して読んでくれた。
 シュンにもわかるような、やさしいことばで書かれた詩だった。繰り返しに不思議なリズムがあって、シュンはしだいにその詩の世界に引き込まれていった。

 翌日、シュンは学校の図書館で何冊か本を借りて、宮沢賢治の他の作品も読んでみた。「春と修羅」のような詩集。「注文の多い料理店」のような童話集。
特に、「なめとこ山の熊」、「けんじゅう公園林」といった童話に強くひかれた。それらの作品には、世間一般の常識から考えると、なんにも役にたたないような主人公たちが出てくる。解説を読むと、賢治はかれらをデクノボーと呼んで愛していたようだ。
 いつのまにか、シュンの中にも、賢治の描くデクノボーへのあこがれが強まっているのに気がついた。
世間での評価からはまったく無縁だが、まわりの人や動物たちからは深く愛されている純粋な人たち。
 今まで、シュンは、大人になったら、弁護士か、医者になろうと思っていた。それには、とうさんの考えが影響していたかもしれない。
「ただの勤め人はつまらないぞお」
 それが、サラリーマンのとうさんの口癖だった。
 でも、弁護士や医者になるには、司法試験や医師国家試験に受かる必要があった。
そのためには、東大のようないい大学に進んでおくと有利だ。いい大学に進むためには、有名な私立の中高一貫校に受からなければならない。さらに、有名な私立の中高一貫校に受かるためには、塾でいっしょけんめいに勉強する必要がある。
今までは、ばくぜんとそんなふうに思っていた。

 その日、シュンはいつもよりも少し早く駅に行くことにした。先まわりしておいて、JUの正体を突き止めたかったからだ。昨日もおとといも、JUの書き込みは伝言板のいちばん最後だった。もしかすると、シュンが来る直前に書いていたのかもしれない。
 駅の構内は、いつものように大勢の人たちで混み合っていた。
(やったあ!)
 シュンは思わず小さくガッツポーズをしていた。期待どおりに、JUの伝言がまだ書かれていなかったからだ。
 シュンは、キオスクの横に場所を移した。そこから、掲示板を見張ろうというのだ。
(どんな人かなあ?) 
 JUの字は、きちょうめんでていねいだった。その感じからすると、若い女の人のようだ。高校生か、大学生か、あるいは若いおかあさんかもしれない。
 シュンは、そういった人たちが通りかかるたびに、期待をこめて見つめていた。
 でも、なかなか伝言板の前に人は立ち止まらない。
やっと伝言板の前に女の人が立った。
(JUか?)
 シュンはキオスクのものかげから、じっとようすをうかがった。
 思ったより、年を取った人だ。シュンのおかあさんぐらいの年令かもしれない。なんだか少しがっかりしたような気分だった。
 女の人は、何かを伝言版に書き込んでいる。
 書き終わった女の人が立ち去ったとき、シュンはそっと伝言版に近づいた。
 そこに書かれていたのは、
『礼子さん、遅くなるので先に行っています。 芳江』
 JUではなかったのだ。なんだか、ホッとしたような気分だった。

 ケンタとの待ち合わせ時間が、だんだん近づいてきた。
(JUは、今日は来ないのかなあ)
と、シュンは思い始めていた。
 と、そのとき、掲示板の前に、シュンと同じぐらいの女の子が立った。私立の子なのだろうか、紺の制服を着ている。赤いランドセルを背負っているから、学校の帰りらしい。
(まさかなあ。この子はJUじゃないだろう)
と、シュンは思った。
きっと何か他の伝言を書くのだろう。
 女の子は、わりとすぐに何かを書き終わった。満足そうな表情を浮かべてそれをしばらくながめると、やがて立ち去って行った。ふっくらしたほほと、ピョコピョコはねまわるようなポニーテールが、シュンの印象に残った。
 女の子がいなくなるのを待ちきれないようにして、シュンは伝言板にかけよった。
 そこに書かれていたのは、
『慾ハナク
 決シテイカラズ
 イツモシズカニワラッテヰル JU』
 意外にも、JUはシュンと同じ小学生の女の子だったのだ。

翌日、シュンは昨日よりもさらに早く伝言板の所へ行った。予想どおりに、JUは今日もまだ伝言を書いていない。
 シュンは少しためらっていたが、やがてチョークを手にした。
『一日ニ玄米四合ト
 味噌ト少シノ野菜ヲタベ SY』
 シュンは手についたチョークの粉をはたきながら、すばやくキオスクの横へ移動した。
 しばらくして、JUが現れた。今日も、紺の制服に赤いランドセルだ。
 JUは前に立ち止まって、じっと伝言版をみつめていた。書こうと思っていたことがすでに書かれているのを見て、びっくりしているようだった。あわてたように、あたりを見まわしている。
 でも、やがてチョークを手に取ると何かを書き出した。
 書き終わっても、JUはしばらくあたりをキョロキョロとさがしていた。誰かを探している大きな黒い瞳。一瞬、目が合いそうになって、シュンはあわててキオスクの陰に隠れた。
 やがてJUは、何度も振りかえりながら立ち去っていった。
 JUの姿が見えなくなると、シュンは急いで伝言板にかけよった。
『アラユルコトヲ
 ジブンヲカンジョウニ入レズニ JU』
 急いで、かばんからあの宮沢賢治詩集を取り出した。
(合っている!)
 正確に詩の続きが書かれていた。どうやら、JUはこの詩を完全に暗記しているらしい。

『問1 今、時計の針は七時をさしています。次に長い針と短い針が重なるのはいつでしょうか?』
 門井先生が、黒板に大きく問題を書いた。時計算だ。
 でも、方程式を使えば、かんたんにとけてしまう。
(えーっと、長い針のスピードをXとすると、……)
 シュンは、答案用紙にスラスラと計算式を書いていった。
 答は、……。
 その瞬間、シュンの頭の中にJUの姿が浮かんだ。伝言板の前に立ちすくんでいる。JUはどんな思いで、宮沢賢治の詩を伝言板に書いているのだろう。
 今日、学校の図書館で、シュンは宮沢賢治について調べていた。
 37年間の短い生涯の間に、賢治は驚くほどたくさんのことに挑戦している。
詩人、童話作家、教師、農業技師、宗教家、……。
 身を削るようにしていろいろなことにチャレンジした賢治に、シュンは強くひかれていた。シュンにとって、初めての憧れの人といってもいいかもしれない。
 『雨ニモマケズ』は、賢治が死の床で手帳に書きつけたものだった。デクノボーにあこがれながらもデクノボーになりきれずに死んでいった賢治。そんな思いが、『雨ニモマケズ』には書かれていたのだろう。
(JUにも、賢治やデクノボーへの憧れがあるのだろうか?)
 シュンは、それを聞いてみたい気がした。
「吉村、どうした?」
 門井先生が、不思議そうな顔をしてみていた。
「あっ、いいえ。何でもありません」
 シュンは、あわてて問題の世界へ戻っていった。

 翌日も、シュンは早めに駅に着くと、すぐに伝言板に続きを書いた。
『ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ SY』
 そして、いつものキオスクの横から伝言板の方を見ていた。
 やがてJUがやってきた。
伝言板にすでに詩の続きが書かれていても、今日は特に驚いた風もなく、すぐに伝言板に何かを書いている。 
書き終わると、あの黒い大きな瞳でまたあたりをみまわした
 でも、やがて満足そうな表情を浮かべて去っていった。
 シュンは完全にJUがいなくなったことを確認してから、急いで伝言板に近づいた。
 そこには、
『野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ JU』
と、書かれていた。
 やっぱり今日も、正しく詩の続きが書かれていたのだ。やっぱりJUは完全に暗記している。
シュンも、JUと同じく満足そうな笑みを浮かべた。
 ケンタがやってくるまでには、しばらく時間があった。その間、シュンは宮沢賢治とJUのことを考えていた。

その後も、二人は交互に「雨ニモ負ケズ」を書いていった。
 翌日、シュンが書いたのは、
『東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ SY』
 すると、JUは少しもためらわずにすらすらと続きを書いた。
『西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ JU』
 その次の日に、シュンがそれに続けて、
『南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイイトイヒ SY』
と、書くと、JUは、
『北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ JU』
と、続けた。
そして、その翌日は、
『ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ SY』
『ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ JU』
 交互に「雨ニモマケズ」を伝言版に書いていくのは、完全に二人だけの秘密の習慣になっていた。

 二人が交互に書き始めてから六日目。
とうとう最後の日が来てしまった。今日のシュンの分で、「雨ニモマケズ」はすべて書き終わってしまうのだ。
 この日、シュンはかばんには塾のテキストを入れずに駅に向かった。塾はさぼるつもりだった。こんなことは通い始めてから初めてのことだ。
 シュンは、今日こそJUと話してみたかった。宮沢賢治のこと。なぜ伝言板に「雨ニモマケズ」を書いていたのか。そして、もちろんJU自身のことも聞きたかった。
 いや、 それだけでなく、もっとたくさんのことを、この未知の少女と話し合ってみたかった。それはシュンにとっては、塾へいくことなんかより、ずっとずっと大事なことのように思えたのだ。
 駅に着くと、いつものようにたくさんの人たちが行き交っていた。その中には、誰一人として知っている人はいない。でも、今日は、その一人一人が見知らぬ人のようには思えなかった。ふとしたきっかけで、JUの時と同じように心をかよい合わせることができるかもしれない。そう思うと、通り過ぎていく人々が、まったくの他人のようには感じられなかった。そして、そう考えただけで、心の中がほんわかとあたたまってくるのだった。
 シュンは伝言板の前に立つと、いつもよりも力をこめてていねいに最後の部分を書いた。
『サウイフモノニ
ワタシハナリタイ SY』
 書き終わっても、シュンはしばらくそれを見つめていた。やりとげた満足感にまじって、なんだか終わってしまうのがおしいような複雑な気分だった。
 やがて、シュンはキオスクの横のいつもの場所に移った。そして、静かにJUがやってくるのを待った。
 前を通り過ぎる人たちをながめながら、ぼんやりと考え始めていた。
(ぼくがみんなのためにできることって、なんなのだろう?)
 勉強して私立中学に合格する。さらに勉強して、有名な大学に進む。もっと勉強して、司法試験か、医師国家試験に合格する。いつものように、そんなことが頭に浮かんだ。
そのあとは?
 シュンには、それからどうしたらいいのか、ぜんぜんわからなかった。
でも、なぜかもっと大事な事があるような気がしてならなかった。
しばらくすると、いつものようにJUがやってきた。詩が書き終わってしまったことを確認している。そして、今日は何も書かずにいつまでもそこに立ち止まっていた。いつかのように、誰かをさがすようにキョロキョロしている。あの大きな黒い瞳で。
 やがて、シュンは思い切ってキオスクの横を離れると、少しずつ、でも確実にJUに近づいていった。

      

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