現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

J.D.サリンジャー「最後の賜暇の最後の日」若者たち所収

2021-01-29 16:20:36 | 参考文献

 第二次世界大戦に出征する前日の、24歳の若者の一日を描いています。
 好きな本を読み、母親の手料理を食べ、一緒に出征する友人を家に呼び、10歳の妹を学校へ迎えに行き、父親の第一次大戦に出征した時の想い出話を批判し、みんなで食事をし、友人とダブルデートに出かけ、深夜に自分の部屋にはいない妹へ自分の願いを一人で語り、最後にそれまで隠していた出征を母親が感づいていたことを知ります。
 当時の日本とは出征通知の仕組みが違っているのか、本人以外は自分で言わない限りわからないようです(あるいは、志願兵なのかもしれません)。
 戦争を思い出話にする父親を柔らかに批判し、取り乱すと思って隠していた母親が彼の帰還を固く信じて平静でいるのを知って幸福な気持ちになる所に、いかにも平和主義者ながらリアリストのサリンジャーの特長が良く表れています。
 また、随所に「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)の構想が、ここでもすでに現れています(主人公と妹の関係はホールデンとその妹フィービーとの関係に似ていますし、友人はホールデンの兄のようです(名字がコールフィールドで、作家です))。
 

サリンジャー選集(2) 若者たち〈短編集1〉
クリエーター情報なし
荒地出版社
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J.D.サリンジャー「ソフト・ボイルド派の曹長」若者たち所収

2021-01-29 16:18:28 | 作品論

 サリンジャーの戦争体験を生かした作品群のうちのひとつです。
 戦争映画(ハンサムな主人公がカッコよく死んで、きれいな恋人や市長や時には大統領までが出席している盛大な葬式が執り行われます)がいかに嘘っぱちで、実際のヒーローは、ぶさいくで背が低くて声も悪く、まわりから少しもヒーロー扱いされず、特に女の子には絶対にもてないタイプだと、強く主張します。
 18歳だと偽って16歳で入隊して、まわりのタフそうな大人たちに囲まれて、途方に暮れていた新兵だった主人公に優しくしてくれたそんなもてないタイプだった上官(その時は見習曹長で、後に戦死する時には曹長に昇進しています)の死を告げた手紙を、妻に読んで聞かせます。
 曹長は、下着姿で泣いている少年に、ハンカチにくるんであった自分のたくさんの勲章(中には、少年でも知っているようなすごい勲章もありました)を下着のシャツに全部つけさせて、その上に上着を着させると、まだ外出許可がもらえない少年のために、あっという間に外出許可を取ってくれて、映画(チャップリン物)とレストラン(自分は少しも食べずに、少年にたらふく食べさせてくれます)へ連れて行ってくれます。
 その時、曹長は手ひどい失恋中(好きだった赤毛の女の子(映画館で偶然出会ってしまいます)が他の奴(おそらくハンサムなかっこいい男)と結婚してしまったばかりです)だったにも関わらず、少年にやさしくしてくれたのでした。
 曹長は、日本の真珠湾攻撃の時に、無謀にも食堂の大型冷蔵庫に隠れてしまった二等兵三人を、みんながとめるのも聞かずに安全な退避壕から出ていってて救った時に、ゼロ戦に機銃掃射されて無残な姿で戦死します。
 サリンジャー自身は、著書の写真で見るように長身でハンサムな、ホールデン・コールフィールド(「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)の主人公)のように女の子たちにもてたようなのですが、こうした女の子たちには絶対もてない、でも「男の中の男」のような登場人物(例えば、「笑い男」(その記事を参照してください)の団長)が大好きなようです。
 この作品では、さらに仕掛けがあって、こうした話を聞いて泣いてくれるようなありきたりでない女(妻のこと)と結婚するべきだと強く主張して、男性読者たちを二重にしびれさせます。

サリンジャー選集(2) 若者たち〈短編集1〉
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J.D.サリンジャー「マディスンはずれの微かな反乱」若者たち所収

2021-01-29 16:16:11 | 参考文献

 この短編も、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)の主人公であるホールデン・コールフィールドの物語です。
 実際に、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の第17章から第20章にかけての内容の、ごく断片的な下書きともいえます。
 これらの章では、大学進学のための寄宿制高校を、成績不良で退学になったホールデンが、サリーとのデートから家へたどり着くまで、酔っぱらいながらニューヨークの街を彷徨います。
 ここでは、ホールデンがそれらに順応するのを強烈に拒んでいる(そのために、自らのアイデンティティを喪失してしまいます)いわゆる「良家の子女」の典型的な人物が三人登場します。
 ホールデンのガールフレンドのサリーは、ホールデンのことは好き(たぶんに、ホールデンが裕福な家の子どもだということが、その理由に含まれていますが)なのですが、彼からの「すべてをなげうって駆け落ちしよう」という提案はやんわりと断る、しごく常識的な女の子(70年も前なので今よりもずっと保守的です)です。
 ホールデンのクラスの首席の男友達は、現状のエリートコース(将来は、アイビーリーグの大学を卒業して、医者か弁護士か大企業の経営者か何かになる)にこのうえなく順応していて、落ち着き払っています。
 もうひとりは、サリーの知り合いの、なんでも大げさに表現する典型的な俗物男です。
 この短編では三人ともまだ原型にすぎず、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」ではもっと肉付けされて、洗練もされて、読者に強烈な印象を与える存在になります。
 ただし、この作品の冒頭の部分では、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」にはない、ホールデンもサリーも、他の多くのこうした「良家の子女」と外見上は区別がつかないことを逆説的に表現している部分があって、これらの人物(ホールデンも含めて)の造形に関する作者の狙いを理解するのには役立ちます。

サリンジャー選集(2) 若者たち〈短編集1〉
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J.D.サリンジャー「マディソンはずれの微かな反乱」若者たち所収

2021-01-29 16:14:13 | 参考文献

 サリンジャーの代表作である「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)の第十七章の原型で、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の主人公のホールデン・コールフィールドが初めて登場する記念碑的な作品です。
 この短編が初めに発表されたのが1941年で、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の出版が1951年ですので、この短編の発想(そのまま大学に進んで卒業すれば将来が約束されている経済的に豊かな家庭の子弟が、すでにレールが敷かれている自分の人生に疑問を持って、アイデンティティを失ってしまいます)が、まとまった形(「キャッチャー・イン・ザ・ライ」)になるまでに、作者内部で十分に発酵される期間が必要だったことがわかります。
 その後1946年までの間に、サリンジャーは、一般にグラドウォラ=コールフィールド物語群(ジョン・F・グラドウォラあるいはホールデン・モリス・コールフィールドが主人公)という「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の断片になるような短編を断続的に発表していますが、それを「キャッチャー・イン・ザ・ライ」にまとめあげるまでには、さらに五年の月日を必要としています。
 また、こうした「現代的な不幸」(アイデンティティの喪失、生きている実感の希薄さなどで、「貧困、戦争、飢餓」に代表される「近代的不幸」に対比される、豊かになった社会での不幸)に一般的な若者たちが直面するのは、アメリカでは黄金の50年代と称される空前の繁栄期だった1950年代であったことを考えると、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が1951年に出版されたのは非常にタイムリーで、ベストセラーになるのは必然だったのでしょう。
  日本の若い世代が「現代的不幸」に直面するのは、高度成長時代を経た1960年代後半なので、日本で野崎孝による日本語訳の決定版(「ライ麦畑でつかまえて」)が東京オリンピック直後の1964年12月に出版されたのも同様にタイムリーで、やはりベストセラーになりました)。
 以上のように、サリンジャー自身は一般的な若者よりも10年以上も早くこうした「現代的不幸」に自分自身(1941年の時点ではまだ22歳)も直面していたわけですが、これは日本でも同様で、「現代児童文学」(定義その他は関連する記事を参照してください)におけるこの問題を描いた代表的な作家である森忠明も、彼がまだ小学生だった1950年代の終わりに「現代的不幸」に直面していたようです(関連する記事を参照してください)。
 サリンジャーは、この作品で、ホールデンの「現代的不幸」をくっきりと浮かび上がらせるために、こうした繁栄に浮かれている俗物のジョージ・ハリスン、ホールデンに理解を示しつつも女性らしくよりリアリスティックなガールフレンドのサリ、同じ環境を余裕をもって対応している優等生のカール・ルイスなどの典型的な人物を配しています。
 これらの登場人物は「キャッチャー・イン・ザ・ライ」にも出てきますが、より洗練された形にブラッシュアップされています。

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宮沢賢治「水仙月の四日」注文の多い料理店所収

2021-01-29 16:00:34 | 作品論

 賢治の数多くの短編の中でも、雪の世界を美しく描いた作品としては、「雪渡り」と共に双璧でしょう。
 描写自体もこの世のものと思えないほど美しいのですが、雪の中で行き倒れた子どもを救おうとする雪童子の心の美しさもそれに負けていません。
 水仙月とは賢治の作った造語なのですが、イーハトーブ(岩手県)で水仙が咲き始める時期とすると、三月から四月ごろでしょうか。
 待ち遠しかった春はもうすぐです。

注文の多い料理店 (新潮文庫)
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沢木耕太郎「クレイになれなかった男」敗れざる者たち所収

2021-01-29 13:34:14 | 参考文献

 ボクシングの東洋ミドル級チャンピオンだった、カシアス内藤との出会いと、同世代の人間としての奇妙な共感を、韓国で行われた彼からチャンピオン・ベルトを奪った柳済斗との四度目の対戦(いわゆる噛ませ犬としての試合のようです)の前後を舞台に描いたノンフィクションです。

 ご存知のように、数年後に著者自身がパトロンになって、内藤と世界タイトルマッチを追いかけた日々を描いた私ノンフィクション(著者自身が主人公ないしは重要人物として登場する、私小説のノンフィクション版です)の傑作「一瞬の夏」のきっかけになった作品です。

「調査情報」昭和48年9月号に掲載されて、昭和51年に文藝春秋から出版されました。

 当初は、編集者からは著者にふさわしくない題材だと反対されたようです。

 それを押しきって取材した、そういった意味では著者が初めて自分で選び取った題材だったのかも知れません。

 全盛期の内藤は、あの名トレーナー、エディ・タウンゼントに、自分が指導した選手の中では、世界チャンピオンになった海老原博幸や藤猛よりも、うまくて才能があったと言わせるほどのボクサーです。

 私自身も彼の全盛期を知る世代ですが、彼の圧倒的なスピードを生かしたアウト・ボクシングのうまさは覚えています。

 しかし、それと裏腹な打たれ弱さも記憶に残っています。

 不完全燃焼をしている同世代の人々(それには、70年安保における彼ら世代の敗北感も含まれているでしょう)の中で、内藤だけは「あしたのジョー」のように灰になるまで完全燃焼してほしいと願う、著者の痛切な思いが伝わってきます。

 しかし、内藤もまた不完全燃焼のままで終わります。

 そういった意味でも、内藤、そしてそれと共にあった著者は、世代の申し子なのかも知れません。

 なお、作品のタイトルは、商品としての惹句としては成功していますが、内容には適していません。

 なぜなら、内藤は決してカシアス・クレイを目指していたのではなく、強いて言えば、本名の「内藤純一」として世の中に認められたかったからです。

 また、クレイ自身も、その名前を捨てて、モハメド・アリになったのですから。

 

 

 

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