「上ヘマイリマス」
どこからか女の人の声がして、エレベーターのドアが閉まった。
「あっ!」
あわてて「1」のボタンを押した。
でも、間に合わなかった。地域住民センターの四階の図書館で借りたばかりのクイズの本を、歩きながら夢中になって読んでいたせいだ。
エレベーターは、すぐに上へ向かって動き出してしまった。
(上には何があるんだろう?)
ぼくは、この建物の四階より上には、行ったことがなかった。
ピンポーン。
あっという間に、五階に着いてしまった。音もなく、エレベーターのドアが開いた。目の前には、青い上っ張りを着て、両手にモップとバケツを持ったおばさんが立っている。掃除係の人だろうか。
「……」
なんだか、ぼくが降りるのを待っているようだ。ぼくはペコリとあたまを下げると、用もないのについエレベーターを降りてしまった。
ズンチャカカ、ズンチャカカ、……。
すごいボリュームで、音楽がひびいている。
すぐ前は広いホールになっていて、十数人のおじさんやおばさんたちが、社交ダンスを踊っている真っ最中だった。
「1、2、3。1、2、3。はい、そこでターンして」
まん中に立っているまっかなドレスのおばさんが、手拍子をしながら叫んだ。他のみんなは、ドタバタとお互いの位置を変えようとしている。
「いてて」
「あっ、ごめんなさい」
あわてて相手の足をふんづけたり、ころびそうになったりしている人たちもいた。場内は、みんなが体勢を立て直そうと大騒ぎになっている。
「ふふふっ」
おもしろそうなので、ついエレベーターの下りのボタンを押すのを忘れてしまった。
ズンチャカカ、ズンチャカカ、…。
「はい、1、2、3」
ようやく立ち直ったみんなは、まじめくさった顔をして、ホールをグルグルまわっている。
「ボク、どこに行くんだい?」
ダンスがもっと見やすいようにと、壁にそって歩き出した時、いきなりうしろから声をかけられた。
振り返ると、白いランニングシャツ姿をしたはげ頭のおじいさんが、こちらに向かってニコニコしている。手には、小さな包丁と豆腐のパックを持っていた。
「いえ、ちょっと、…」
ぼくは、思わず口ごもった。特に、この階のどこかに行こうとしているわけではない。ダンスを見ようとしているだけなのだ。
ズンチャカカ、ズンチャカカ、……。
向こうのホールでは、あいかわらず、ヒラヒラのレースがたくさんついたドレスや蝶ネクタイの人たちが、グルグルまわりながら踊っている。
反対のこちら側には、ランニングシャツに古ぼけたズボンのおじいさんが、包丁と豆腐のパックを持って立っている。
なんだか、すごく変な組み合わせだ。
「見物すんなら、こっちにきな。ホールの中はじゃまになっから」
おじいさんは、こっちにむかって手まねきをしている。ぼくは、ゆっくりとそちらに近づいていった。
おじいさんがいる所は、そこだけ独立した小さな部屋になっている。入り口には、「湯沸かし室」って書いてあった。
中をのぞくと、正面に大きな湯沸かし器が取り付けられている。さらに、ステンレスの流しと小さな炊飯器、それに一口だけのガスコンロもあった。コンロには古ぼけたなべがかかっていて、野菜がグツグツ煮えている。
「よし、いいあんばいだ」
おじいさんは手のひらの上で器用に豆腐を切ると、ドサドサッとなべの中に入れた。
なんだか、こっちもおもしろそうだ。ダンスはひとまずおいといて、おじいさんが料理を作るのを見ていることにした。
今、ぼくが来ている所は、JR駅前の五階建てのビル。一階と二階はにぎやかなショッピングセンターで、三階以上は地域の住民センターになっている。
三階が区役所の出張所で、四階は図書室。ここ五階には、案内板によると、カルチャーセンターや会議室があるらしい。
「できた、できた」
おじいさんは、コンロの火を消してなべをおろした。
「ボク、そいつを持ってきてくれんか」
ぼくは炊飯器をかかえて、おじいさんの後に続いた。
フロアの奥は、会議室や実習室になっている。
おじいさんは、なべを持ってどんどん先へと歩いていく。ぼくも炊飯器を持って、その後について歩いていった。
おじいさんは、第三会議室という看板が出ている部屋の前で、立ち止まった。
ドアには、「避難所」って書いた紙がはってある。四隅のセロテープのひとつがはがれて少し丸まり、黒のマジックの文字は消えかかっていた。
ドアを開くと、大きな箱や折りたたみ椅子などがゴチャゴチャに置かれて、まるで物置のようになっている。
「こっち、こっち」
おじいさんが手まねきしている窓のそばに、ぼくの背の高さぐらいのダンボールで、四角く区切った所がある。
近づいてみると、それが「部屋の中の部屋」だということがわかった。こちら側のダンボールの壁に、四角くくりぬいた小さな「ドア」が作ってあったのだ。
「できだぞお」
おじいさんが外から声をかけると、
「まあまあ、ごくろうさん」
女の人の声がして、いきなり「ドア」が内側から開いた。
「お客さんだ」
おじいさんは、腰をかがめて「部屋」に入っていく。
ぼくが続くと、びっくりするほど小さなおばあさんが、中にチョコンとすわっていた。三年生のぼくよりも、まだ小さいくらいだ。
「おやおや、ボク、いらっしゃい」
白髪頭のおばあさんは、ニコニコしながらていねいにおじぎをした。
「こんにちわ」
ぼくも、あわててピョコリと頭を下げた。
おじいさんは、小さな折りたたみのテーブルの上になべを置いた。ぼくもそのテーブルの横に炊飯器をおろした。
おばあさんは、古い茶ダンスの引き戸をあけて、おちゃわんやおはしを出している。プーンと、かびくさいようななつかしいようなにおいがした。前に一緒に暮らしていた、ぼくのおばあちゃんの部屋の茶ダンスと同じにおいだった。
そのときだった。
ガチャ。
いきなり、うしろで大きな音がした。
ぼくがびっくりして立ちあがると、ダンボールの壁越しに、会議室のドアから男の人が一人入ってくるのが見えた。
ズンチャカカ、ズンチャカカ、……。
男の人が、そのままドアを開けっ放しにしているので、ホールからのダンスの音楽がいっそう大きく響いてくる。
男の人はぼくをジロリとにらむと、奥へ行ってゴソゴソと何かを捜しはじめた。
そのへんは、何か物置場にでもなっているみたいだ。
しばらくして、ようやく探している物が見つかったのか、男の人は、今度はぼくの方は見向きもしないで、ドアをバタンと閉めて出ていった。
それにつれて、ホールからのダンスの音楽は小さくなった。
でも、おじいさんとおばあさんは、平気な顔をしてごはんのしたくを続けている。まるで、今起こったことは違う世界のことか何かのようだった。
ぼくもようやく安心して、「部屋の中の部屋」に腰を下ろした。
「ボク、いっしょに食べてかない?」
おばあさんが、さそってくれた。いつのまにか、テーブルの上には、お茶碗とおはしが、三人分並べられている。
「ううん、いりません。もうお昼は食べたから」
本当はまだ食べてなかったけれど、そう答えておいた。先生やおかあさんからは、知らない人にもらった物を食べたりしないようにいわれている。それに、だいいちぼくの分はあるのだろうか。おじいさんは、おばあさんとの二人分しか用意していなかったはずだ。
「まあまあ、遠慮しないで。と、いっても、なんにもないけどね」
おばあさんは、さっさとぼくの分もごはんをよそっている。フアーッと、おいしそうなごはんのゆげが立ちのぼった。なべの中身は、野菜と豆腐だけだった。肉も魚も入っていない。あとは、テーブルの上に、つくだにとつけものが少しずつ並んでいるだけだ。
それでも、おじいさんとおばあさんは、おいしそうにごはんを食べはじめた。
「いただきます」
ぼくも小さな声でいって、お茶碗を手に取った
それから、しばらくしてからのことだった。
「おかあさん、避難所って、何?」
ぼくは、台所でおかあさんにたずねた。
「えっ、なあに?」
朝ごはんを作っていたおかあさんが、こちらを振り返った。
「今朝のマンガに出てた」
ぼくは玄関へ出て行って、下駄箱の上から朝刊をとってきた。
「ほら、これ」
うしろのページの四コママンガを、おかあさんに見せた。ぼくは、毎日このマンガだけは読んでいる。
「ああ、地震のね。ほら、家が壊れちゃったりして、臨時に避難している場所のことよ」
「ふーん、図書館の上にもあるんだよ」
「図書館って。駅前の地域センターの?」
「うん」
「うーん。そういえば、ずっと前の台風で被害が出た時に、あそこが避難所になったような気もするけど。でも、もうとっくになくなっているはずよ」
おかあさんは、ふしぎそうに首をひねっていた。
その日の学校の帰りに、ぼくはまたあの「避難所」をたずねていった。
エレベーターで五階に着くと、今日はダンスはやっていなかった。ホールは、将棋をさしている男の人たちが少しいるだけで、ガランとしている。
「湯沸かし室」をのぞくと、おじいさんは今日はトーストを作っていた。
どうやら、
(足の具合が悪いんよ)
って、いっていたおばあさんにかわって、いつも食事のしたくをしているらしい。
「こんにちわ」
ぼくは、ペコリと頭を下げた。
「おや、ぼく。今日も来てくれたのかい」
おじいさんがこちらに振り返ってニッコリした。なんだか、口のあたりがフガフガしている。もしかすると、入れ歯をはめていないのかもしれない。
おじいさんは、魚を焼く網の上にパンを置いて焼いているところだった。ガスコンロを弱火にして、じっくりと焼いている。ぼくのうちでは、パンはオーブントースターで焼いていた。でも、「湯沸し室」には、オーブントースターは見あたらなかったから、いつもこうして焼いているらしい。
おじいさんは、パンが焼きあがると、マーガリンを薄くていねいにぬって、上から砂糖をまぶした。
ぼくは、そのふうがわりなトーストができあがるのを、ジーッとながめていた。
「ボク、今日もいっしょに食べないか?」
おじいさんが、テーブルの上にトーストと牛乳の入ったコップを並べながらいった。
「ううん、もう給食、食べてきたから」
今日は、本当におなかがいっぱいだった。
「ボク、これなら食べるかい?」
おばあさんが、茶筒からキャラメルを取り出して、ぼくにすすめてくれた。
「ありがとう」
包み紙をむこうとすると、しけっているのか、しっかりとはりついちゃっている。つめではがそうとしたけれど、少しだけ白く残ってしまった。
そばで二人がじっと見ているので、気にしないふりをして口にほうりこんだ。
おばあさんは、安心したようにニッコリとした。
キャラメルは口の中で少しガサガサしたけれど、甘くておいしかった。
「ボク、荷物はそっちに置いときな」
おじいさんにいわれて、背負ったままだったランドセルを、窓際におろした。そこだけ、窓の高さに合わせて、ダンボールが少し低く切り取られている。
窓の両側には、古いカーテンがぶら下がっていた。
でも、よく見ると、右と左とでは、カーテンの柄が少し違っている。
窓際に積まれた新聞の山の上に腰掛けて、あらためて「部屋」をながめてみた。
ぼくの勉強部屋よりも、ずっと小さい。たたみ四枚ぐらいのスペースしかないだろう。反対側の隅には、二人のふとんがたたんで積み上げてある。それ以外の家具は、折りたたみテーブルと茶ダンスがあるだけだ。テレビもない。ただ、古ぼけた小さなラジオが、窓枠の所にのせてあった。
その日以来、学校の帰りにおじいさんとおばあさんをたずねるのが、ぼくの日課になった。五時の「家に帰りましょう」のチャイムがなるまでの一時間か二時間を、二人とおしゃべりしたり、窓辺でラジオを聞きながらのんびりひなたぼっこしたりしている。
団地の横のスーパーでレジのパートをしているおかあさんは、六時過ぎにならないと家に戻らない。今までは、それまでの間を、図書館や児童館ですごしていた。もっと前、ぼくのおばあちゃんが一緒に暮らしていたときには、「おばあちゃんの部屋」で遊んでいたけれど。
おかあさんが前にいっていたように、ここのおじいさんとおばあさんは、去年の台風の時のがけくずれで家がこわされてしまって、この「避難所」にやってきていた。その時は、会議室や実習室だけでは足りなくて、ダンスをやっていたホールにも、たくさんの人たちが避難していたのだそうだ。
でも、他の人たちはどんどんいなくなって、今では二人だけがポツンと取り残されている。
「若い人たちは、いくらでもやり直せるからなあ」
おじいさんが、少しさびしそうにいった。
「いまさら、どこかに行けって、いわれてもねえ」
おばあさんも、ためいきをついた。前に住んでいた所は、もともと地主に立ち退きをいわれていたし、家を立て直すお金もなかった。
区役所からは、
(遠く離れた場所の区営住宅へ行け)
って、いわれているらしい。
「あそこは、絶対に離れん」
おじいさんは、その時だけは、別人のような恐い顔をして、地主や区の悪口を言い出した。
おばあさんの説明によると、いまだに区や地主ともめていて、なかなか行く場所が決まらないのだそうだ。それに、区役所のすすめる区営住宅の場所の近くには、知っている人が誰もいなかった。
「この年になって、知らないご近所の人たちと暮らすってのもねえ」
おばあさんはそう言うと、もうさめてしまった湯飲みのお茶をひとくち飲んだ。
二人には、子どもも他の身寄りもいないようだった。
「宝くじって、一度に何枚買うのが一番得だか、知ってるかい?」
ある日のこと、おじいさんがぼくにたずねた。
その日も、学校の帰りに二人の所によって、テーブルに宿題をひろげてやっていた。
「うーん、……」
たくさん買う方が得するような気がするけれど、自信がない。
「あんな、正解は何枚買っても一緒。宝くじの売り上げの中から賞金にまわされるんのは、だいたい四割ぐらいなんだ。だから、一枚買っても、百枚買っても、たとえ一万枚買ってもな、そこからいくらもどってくるかの確率は、やっぱし四割。こういうのを期待値って、いうんだけどな」
「ふーん?」
「また、そんなこといって。ボクには、むずかしすぎるよねえ」
おばあさんが口をはさんだ。
「だから、買うのは一枚でもいいんだけんど。前後賞ってのもあんだろ。それで、連番で三枚買いてえんだ」
「連番って?」
「おお、続き番号のことさ。だけんど、なかなか三枚だけじゃ、売ってくんねえんだよな。『連番は十枚から』って、売り場の奴に馬鹿にされちまう。売ってくれても、しぶしぶのことが多くってな」
おじいさんは、不満そうに顔をしかめてみせた。
「それで、この人な。わざわざ渋谷まで、宝くじ買いにいくんよ」
ぼくにお茶を入れながら、おばあさんはニッコリした。茶色い前歯の間がすいている。
おじいさんによると、渋谷のハチ公前の売り場のおばさんは、三枚だけでも、十枚セットをばらして、気持ちよく連番を売ってくれるのだそうだ。それで発売日には、いつも必ずはるばる渋谷の売り場まで、買いに行っているらしい。
「えっ、それなら、電車賃の方が、高くついちゃうんじゃない?」
ぼくがそういうと、おじいさんはニッコリして定期のような物を見せてくれた。
「これがあれば、七十歳以上の年寄りは、バスと都電と都営地下鉄はロハなんだ」
「ロハって?」
「おっ、そうかそうか、ボクにはわからんか。ロハってのは、タダってこった」
おじいさんは、紙に、只(ただ)という字を書いてみせた。
「カタカナで縦にロハって書いて、漢字の只って字になるんだ」
「ふーん」
おじいさんは、古いノートを取り出してきて見せてくれた。
いつもながめているのだろう。表紙が薄汚れている。
……
六月十四日 第354回全国自治宝くじ
六月十七日 第249回東京都宝くじ
六月二十一日 ……
どうやら、これからの宝くじの発売日が書いてあるらしい。
「へえーっ! 宝くじって、こんなにしょっちゅう売ってるんだ」
「そうなんよ。だから、せわしくって、いけねえ」
そういいながら、おじいさんはなんだかうれしそうだった。
週に二、三回、バスや都営地下鉄を乗り継いで、わざわざ遠回りしながら渋谷まで宝くじを買いに行くのが、おじいさんの「仕事」のようになっているらしい。
それにひきかえ、おばあさんの方は、リューマチで足もとがあぶないので、遠出はできなかった。おじいさんに手を引かれながら、ショッピングセンターの中を散歩するだけにしている。おじいさんがいないときに、ぼくも何度か手を貸してあげたことがあった。おばあさんは、すいている時間を選んで、ショッピングセンターの中をゆっくりと一周する。食料品売り場、日用品売り場、電気製品売り場、……。
一階も二階もすみずみまで歩きまわるけれど、いつも何も買わなかった。
「ボク、こっちも見てごらん」
おじいさんは、ノートの別のページを開いた。
第347回全国自治宝くじ
一等 60組873024
二等 ……。
そこに書かれていたのは、宝くじの抽選結果のようだった。
そのページだけではない。
前のページにも、その前のページにも、今までの抽選結果が、細かい字でびっしりと書き込まれている。
「ふふ。この人な、宝くじの予想が趣味なんよ」
おばあさんにわらわれても、おじいさんは平気な顔をしている。
ここには新聞を配達してくれないので、発表結果を見るために、いつも駅まで新聞を拾いに行っているのだという。
「山ほど新品が捨ててあって、もってえねえんだ」
おじいさんは、少しはずかしそうにわらった。
おじいさんは、予想のやり方を、ぼくに説明してくれた。
「宝くじの抽選ってのは、0から9までの数字が書いてあるグルグルまわってる輪に、きれいな若い子が機械じかけの弓で矢を放ってやるんだ。それがあたったとこが、そのケタの番号ってわけだ。どの番号も、あたる確率は一緒ってことになってる。でも、機械の具合かなんかで、あたる確率が微妙に違ってるんだなあ。だから、おれは抽選結果をためておいて、各ケタごとに、どの数字が一番出てるかを調べてんだ。そいで、その数字を組み合わせて、くじを買うってわけだ」
「ふーん」
ぼくが感心していると、
「ほら、ボク。こいつは、他の人にはないしょだぜ」
おじいさんがそっと見せてくれたページには、ケタごとに、今までにあたりがたくさん出た順番に数字がならべてある。
一番あたりが出ているのは、十万のケタは3。
一万のケタは7。
千のケタは…。
熱心にしゃべっているおじいさんと、それをニコニコしながら聞いているおばあさん。
そんな二人を見ていると、なんだか不思議なうれしさで、頭のすみがジーンとしびれてきた。
「このやり方で、四等の一万円が当たったことがあるんだぜ」
おじいさんが、胸をはっていった。
「すごーい!」
「もう十年も前のことだけどね」
からかうように口をはさんだおばあさんを、おじいさんはにらみつけている。
「ボクんちじゃ、宝くじなんか、興味ないんだろ」
「ううん。うちでも、おとうさんが、『五億円くらい、あたらないかなあ。そしたら、すぐに会社をやめちゃうのに』って、よくいってるよ」
「へーっ。ジャンボってわけだ」
「そう。それで、おかあさんに『じゃあ、宝くじを買ったら』って、いわれるんだけど、一度も買ったためしがないんだ」
「おれは、五億円なんていらねえ。一千万円か二千万でいいんだ」
「あたったら、どうするの?」
「もちろん、こんな所とはおさらばさ。あの家を建て直して、ばあさんとやり直すんだ。でも、その前にな、思いっきりどなってやるんだ」
そこでおじいさんは、ひといきいれると大声で叫んだ。
「大あたりーっ!」
ぼくがびっくりしていると、
「鐘があるといいんだけどね」
おばあさんがニコニコしていった。
「鐘って?」
「ほら、福引きの特等のときに鳴らすやつさ。ジャラン、ジャランって」
と、おじいさんが説明した。
「こいつは、前に年末の大売り出しの時に、特等をあてたことがあるのさ」
「いい音だったねえ」
おばあさんは、うっとりと目を細めている。
「賞品は?」
「そう、たしか、ミシンだったかねえ」
「えーっ、変なの」
「うーん。昔のことだから」
「ぼくが生まれるより前?」
「もちろん。もしかすると、ボクのおとうちゃんが生まれる前かもしれないねえ」
おばあさんはそういうと、少しさびしそうにわらった。
「これが次の奴だ」
おじいさんが、はじがやぶれかかった黒いさいふから、大事そうに宝くじを取り出した。
第348回全国宝くじ。一等の賞金は二千万円。前後賞がないせいか、一枚きりしか買ってなかった。
「34組の378970。ほらな、おあつらえむけの番号が買えたってわけだ」
おじいさんが、満足そうにうなずいている。
「34組の3、7、8、9、7、0。うん、ぜんぶ一番あたる番号だね」
ぼくも、ノートの予想番号を見ながらくりかえした。
次の日、先生の研修日なのでいつもよりも早く地域住民センターへ行くと、二人の「部屋」には誰もいなかった。
(ショッピングセンターに、散歩にでもいってるのかな?)
ぼくはランドセルを背負ったまま、エレベーターで一階までおりた。
夕ごはんの買物にはまだ少し早いのか、食料品売り場はすいていた。
おいしそうな物があふれるように積まれた棚の間をぬいながら、ぼくは二人をさがし始めた。
(いた!)
肉売り場の方に、おばあさんがいるのが見えた。
でも、おじいさんの姿が見えない。いつもなら、二人でしっかりと手をつないでいるのに、今日はおばあさんだけが、つえをついて立っている。
(あっ、そうか)
その時、急に思い出した。今日は、宝くじの発売日だったのだ。今ごろは渋谷からの帰りで、東京のどこかでバスにゆられているのだろう。
おばあさんに近づいていくと、試食品のソーセージを食べているところだった。
(おばあさん)
声をかけようとして、ハッとして立ち止まってしまった。おばあさんが、あまりにもおいしそうな顔をして、ソーセージを食べていたからだ。食べてしまうのをおしむかのように、ゆっくりゆっくりと口を動かしている。
おばあさんは食べおわると、ようじをていねいにゴミ箱にすてて向こうへ歩き出した。
「やあねえ。あのおばあさん、毎日来るんだから」
試食コーナーのそばをとおったとき、店員のおばさんが、顔をしかめてそばの人にいうのが聞こえた。
その時、なぜか胸がキューンとしめつけられるような感じがした。まるで、自分のおばあちゃんが、そういわれたような気がしていた。
そして、ぼくの家の二階の部屋のことを思い出した。そこは、今でも「おばあちゃんの部屋」ってよばれているけれど、去年、おばあちゃんがもと住んでいた町に戻ってしまってからは一度も使われていない。 ぼくはおとうさんと一緒に、お正月におばあちゃんの家に遊びに行ったけれど、どういうわけかおばあちゃんは一度もこちらに来たことはなかった。
(その部屋に、二人で引っ越しって来てもらうわけにはいかないのだろうか?)
つえをつきながらゆっくりと歩いていくおばあさんの背中を見ながら、ぼくはそんなことを考えていた。
「あはははっ」
いつものように、ドジな4コママンガの主人公をわらっていた。
(あっ、そうだ!)
ふと思いついて、前に避難所のおじいさんが教えてくれた、宝くじの当選発表が載っているページをめくった。
第348回全国宝くじ。
この前、おじいさんが見せてくれた宝くじの発表だ。
(一等の番号は、……)
ぼくは、じっと新聞をのぞきこんだ。
34組378970
( えっ! まさか?)
おじいさんが見せてくれた、あの宝くじの番号だ。
一等賞金二千万円。おじいさんの夢が、とうとうかなったのだ。これで、二人は「避難所」をぬけだして、自分の家に戻ることができる。
ぼくは新聞をにぎりしめたまま、すぐに部屋から玄関へとび出していった。
きっと、二人はまだこのことを知らない。少しでも早く教えてあげたかった。
「どこへ行くの! もうすぐ朝ごはんよ」
うしろから、おかあさんがどなっているのが聞こえてきた。
「あとで食べるから」
ぼくはうしろにむかっていうと、外へかけだしていった。
いつもなら歩いて十分はかかるのに、ずっと走ってきたから、今朝はあっという間に着いた。
でも、一階のショッピングセンターの入り口には、まだシャッターが降りている。
正面のエレベーターのボタンを押した。
これもだめだ。ランプがつかない。まだ、動いていないようだ。
あたりをキョロキョロしていると、非常階段の緑のサインが目に入った。
かけよってノブに手をかけると、かぎはかかっていない。ぼくは重いドアを開けて、一気に非常階段をかけのぼり始めた。
ビルの横に取り付けられたらせん階段を、グルグルまわりながらのぼっていく。息が切れて何度も立ち止まりそうになったけれど、なんとか五階までたどりついた。
金属製のドアを開けて中へ入り、うす暗い廊下をつっぱしって、第三会議室へ。
(あれ?)
ドアにはってあった「避難所」の紙がなくなっている。四すみのセロテープの跡だけがかすかに残っていた。
(とうとうはがれちゃったのかな)
そう思って、ドアのノブに手をかけた。
(えっ?)
かぎがかかっている。今までは、一度もそういうことはなかった。
ドンドンドン、ドンドンドン。
ドアを、何度もおもいっきりノックした。
でも、とうとう中からは返事がなかった。
三階の市役所の出張所まで下りていったが、そこもまだ閉まっていた。
正面の時計は、まだ八時二十分をすぎたところだ。
(何時に開くのだろう?)
ぼくは、足踏みするような思いで、時間が早く過ぎるのを願った。
八時四十五分になって、ようやく三階の区役所の出張所が開いた。
ぼくは、すぐに窓口に駆け寄った。
「あのー、五階の……、会議室にいた……」
なんとか、二人のことを聞き出そうとした。
でも、窓口のおじさんは、めんどうくさそうな顔をするだけで、何も教えてくれなかった。
「それより、学校はどうしたんだい?」
壁の時計を見ると、とっくに学校が始まる時刻をすぎている。
いじわるそうな顔をしたおじさんににらまれて、とうとうそれ以上は聞けなくなってしまった。
出張所を出ると、もう一度今度はエレベーターで五階に上がってみた。
いつのまにか、第三会議室のかぎはかかっていない。
ドアを開けて中に入ってみた。
でも、二人の「部屋の中の部屋」は、すっかりなくなっていた。テーブルやいすが何列もならべられて、きちんと会議室の形になっている。まるで、ずっと前からそうだったかのようだ。二人が住んでいたようすは、あとかたもなくなっていた。
(いったい、どこへ行ってしまったんだろう?)
窓から外をながめながら、ぼくはぼんやり考えていた。外からは、びっくりするぐらい強い初夏の日差しがさしこんでいる。
(急に行き先が決まって、出ていったのだろうか?)
(前に住んでいた所へ戻れたのだろうか?)
(それともあの区営住宅だろうか?)
考えれば考えるほど、頭の中が混乱してくる。
どこかに、ぼくにあてた手紙か何かがないだろうかと思って、「部屋」があった窓のあたりをさがしてみた。
でも、何も手がかりはなかった。
もしかすると、区役所の人たちに片づけられてしまったのかもしれない。
その時、まだ右手に、新聞をにぎりしめたままだったことに気がついた。
宝くじの当選発表のページを、またひろげてみた。
一等 34組378970
何度見直しても、おじいさんが見せてくれた宝くじの番号だ。
(そうだ!)
この宝くじがあるかぎり、どこへ行っても、
(やり直したい)
って、いっていた二人の夢がかなうかもしれない。
そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなるような気がした。
「大あたりーっ!」
そっと、口の中でつぶやいてみた。
いつものランニングシャツ姿で、その何十倍もの大声でどなっていたおじいさんの姿が目にうかんでくる。そして、その隣でおばあさんがニコニコしながら、大きな鐘をジャランジャランと力いっぱいならしているような気がするのだった。