{宝永大地震と大噴火と浜岡原発」
再度“宝永噴火口”

「宝永大噴火」は約300年前の江戸時代は徳川綱吉の治世、宝永4年旧暦11月23日(1707年12月16日)に始まった噴火で、規模としては非常に大きなものだった。
「宝永地震」
噴火の始まる49日前の10月4日(10月28日)にマグニチュード8,6~8,7と推定される大地震が起きた。
この地震は定期的に巨大地震を起こしている遠州沖を震源とする東海地震と紀伊半島沖を震源とする南海地震が同時に発生したと考えられている。
その被害は、東海道、紀伊半島、四国に及び、死者2万人以上、倒壊家屋6万戸、津波による流失家屋2万戸に達したという。
その翌日辰の刻(8時頃)、富士宮付近を震源とする強い余震あり。この付近では本震より強く感じれれ、11月10日(12月3日)頃から山麓で地響きが始まる。
この4年前の元禄16年11月23日(1703年12月31日)発生した元禄地震の後にも12月29日(1704年2月4日)頃から山鳴りが始まったと『僧教悦元禄大地震覚書』
に記されている。
「噴火の始まり」
宝永地震の余震と宝永火口付近直下の浅い地震活動が続く中、11月22日(12月15日)の夜から富士山麓一帯では強い地震が数十回起こった。
23日(16日)の10時頃より南東斜面から白い雲のようなものが湧き上がり急速に大きくなっていった。噴火の始まりだ。
東斜面には高温の軽石が大量に降り家屋を焼き田畑を埋め尽くし、夕暮れには噴煙の中に火柱が見え、火山雷による稲妻が飛び交うのが目撃された。
(以上Wikipediaより)
宝永大噴火から約300年、「宝永火口」の歴史を振り返ると、富士山の麓にある「浜岡原発」がいかに危険な状態にあるかが分かってくる。

こちらの斜面には、まだ解け残りの雪が見られた。
東富士演習場の場所などを確認しながら下る。
東名から“山手トンネル”(まるでモグラの道だ!こんなトンネルができているとは知らなかった。)を抜けて東北道へ。

夕日ににじむ富士。
東北道に乗る頃には夕日が沈むころ。
運転をずっと引き受けてくれた相棒とは国見インターで別れ、我が家に着いたのは10時半。大変いい旅だった。
余分なことだが、退職して〇年。15歳も若い現職から声をかけられるとは平で終わった冥利に尽きる思い<emoji code="a001" />
再度“宝永噴火口”

「宝永大噴火」は約300年前の江戸時代は徳川綱吉の治世、宝永4年旧暦11月23日(1707年12月16日)に始まった噴火で、規模としては非常に大きなものだった。
「宝永地震」
噴火の始まる49日前の10月4日(10月28日)にマグニチュード8,6~8,7と推定される大地震が起きた。
この地震は定期的に巨大地震を起こしている遠州沖を震源とする東海地震と紀伊半島沖を震源とする南海地震が同時に発生したと考えられている。
その被害は、東海道、紀伊半島、四国に及び、死者2万人以上、倒壊家屋6万戸、津波による流失家屋2万戸に達したという。
その翌日辰の刻(8時頃)、富士宮付近を震源とする強い余震あり。この付近では本震より強く感じれれ、11月10日(12月3日)頃から山麓で地響きが始まる。
この4年前の元禄16年11月23日(1703年12月31日)発生した元禄地震の後にも12月29日(1704年2月4日)頃から山鳴りが始まったと『僧教悦元禄大地震覚書』
に記されている。
「噴火の始まり」
宝永地震の余震と宝永火口付近直下の浅い地震活動が続く中、11月22日(12月15日)の夜から富士山麓一帯では強い地震が数十回起こった。
23日(16日)の10時頃より南東斜面から白い雲のようなものが湧き上がり急速に大きくなっていった。噴火の始まりだ。
東斜面には高温の軽石が大量に降り家屋を焼き田畑を埋め尽くし、夕暮れには噴煙の中に火柱が見え、火山雷による稲妻が飛び交うのが目撃された。
(以上Wikipediaより)
宝永大噴火から約300年、「宝永火口」の歴史を振り返ると、富士山の麓にある「浜岡原発」がいかに危険な状態にあるかが分かってくる。

こちらの斜面には、まだ解け残りの雪が見られた。
東富士演習場の場所などを確認しながら下る。
東名から“山手トンネル”(まるでモグラの道だ!こんなトンネルができているとは知らなかった。)を抜けて東北道へ。

夕日ににじむ富士。
東北道に乗る頃には夕日が沈むころ。
運転をずっと引き受けてくれた相棒とは国見インターで別れ、我が家に着いたのは10時半。大変いい旅だった。
余分なことだが、退職して〇年。15歳も若い現職から声をかけられるとは平で終わった冥利に尽きる思い<emoji code="a001" />