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「日本書紀」のエゾ征伐・・瀬川拓郎氏「アイヌ史における新たなパースペクティブ」(2)

2017-04-02 | アイヌ




簑島栄紀氏が編さんされた「アイヌ史を問い直す」という本の中の、瀬川拓郎氏の論文のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

瀬川氏は多数の単行本を出しておられますので、そちらもお読みください。



           *****

          (引用ここから)

●「マタギ」は縄文人の末裔か?

「マタギ」は、東北地方を中心に狩猟文化を伝承してきた農耕民だが、彼らにアイヌ語が伝わる事実が古くから注目されてきた。

それはセッタ(犬)、ハッケ(頭)、ワッカ(水)、ワシ(雪)、ツクリ(木)、サンペ(心臓)、トッピ(火付き)、カンド(天気)、トナリ(皮紐)といったものだ。

この事実は、〝彼らが縄文人の末裔として縄文語=アイヌ語を伝えてきたことを意味する″、と考えられてきた。

しかしこれも、単純な話ではなさそうだ。


「マタギ」は、基本的に日本語を話す本州「古墳時代」の農耕民の末裔であり、彼らが用いるアイヌ語は、借用語としてのアイヌ語であり、狩猟・毛皮加工の技術と一体で取り込まれた「続縄文文化」の残影とも考えられるのだ。


●「阿倍比羅夫」遠征の実像

北海道の「続縄文集団」が本州へ南下した目的を、筆者は本州・古墳社会が持つ鉄製品の入手のためだと考えている。

本州・東北北部に進出した「続縄文集団」は、仙台ー新潟まで北上してきていた「古墳集団」と、前線地帯で混住していたが、そこでは活発な交易が行われていたとみられる。

というのも、「続縄文集団」の南下と並行して、彼らの社会には鉄製品が多く流通するようになったからだ。


4世紀の「続縄文集団」の南下と同時に、「オホーツク集団」もサハリンから南下した。

彼らは舟の活発な利用と、漁猟・海獣漁など海洋適応を特徴とし、農耕や豚の飼育を行うなど、「続縄文集団」とは大きく異なる文化を持っていた。

大陸東北部の「韃靼(だったん)系集団」と関係が深く、青銅製装飾品など大陸製品が流通していた。

「アイヌ」とは異なる人々で、現在サハリン北部などに暮らす漁労民=「ニブフ」に連なる人々と考えられている。

彼らの南下も、古墳社会の鉄製品入手が目的だったのだろう。

この4世紀~9世紀末にかけて、北海道は「オホーツク集団」と「擦文集団」に二分されていたが、両者の関係は融和的ではなかった。



「オホーツク集団」が占める道北・オホーツク海側と、「続縄文集団」が占める道央・道南・太平洋側の間には、空白地帯が広がっていた。

さらに「オホーツク集団」は日本海を南下して、道南や下北半島まで往来していたが、その南下は、「続縄文集団」との接触を避けるように、島伝いに行われていた。


「日本書記・660年」のくだりには、王権が北方世界へ派遣した「阿倍比羅夫」の集団と、「オホーツク人」と考えられる集団との交易場面が記されている。

いずれにせよ、「縄文人」の末裔が占めてきた北海道と、本州・東北北部は、4世紀以降、古墳社会との交易をめぐって、民族的集団が入り乱れる混乱の渦中にあったのだ。


「比羅夫遠征」の中心記事である「日本書紀・3月」のくだりでは、「王権が派遣した「阿部比羅夫」の船団が、渡島(わたりじま)に至り、「渡島蝦夷」と共同で、沖合のヘロベノ島を拠点として、「渡島蝦夷」に危害を加えていた「アシハセ」を討伐する」、という内容だ。

「渡島」には「北海道」、同地の「蝦夷」には「続縄文集団」、「アシハセ」には「オホーツク集団」を当てるのが定説となっている。



「比羅夫」の遠征当時、「オホーツク集団」は最盛期を迎えていた。

「比羅夫」は、「オホーツク集団」から勝ち取った70枚という大量のヒグマの毛皮を持ち帰った。

この事実は、「オホーツク集団」が「続縄文集団」と同様、ヒグマを主たる交易品としており、さらにその規模は零細ではなかったことを示している。

「阿倍比羅夫遠征」とは、「オホーツク集団」による北方世界の混乱を収拾し、それまで本州・東北北部の「蝦夷」を介して行われていた北方産品の民間交易を、王権による官営交易へ転換しようとするものだったとみられる。


大和王権が、すでに7世紀代から北方世界の民族的状況を掌握していたとすれば、列島史のイメージは大きく塗り替えられてゆくことになろう。


     (引用ここまで・写真3・4は、我が家の日本地図より)

           *****

確かに、「阿倍比羅夫の蝦夷遠征」は日本史で習った記憶があります。

大和朝廷が出来たばかりの頃に、悲劇的なヤマトタケルなどと共に、西から東へ、朝廷から送り出されて、「アズマエビス」を平定しようとした人物、という印象があります。

よく考えれば、とても古い時代のことで、よく記録が残されていたものだと感心してしまいます。

「日本書紀」を書いた人々にとって、東北や北海道がどのように感じられていたのか、分かるような、分からないような気持ちがあります。

筆者・瀬川氏は、その「あいまいな印象」を、きちんと整理して、並べなおしておられるのだと思います。

「日本人」としてのわたし達の原点は、どこにあるのか?、、いつも考えることですが、この問題も、そのテーマに関する、大変興味深い資料であると思います。


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