佐々木馨氏の「アイヌと「日本」」を読んでみました。
語彙がたくさんあるので、ウィキペディアで整理をしています。
次はwikipedia「擦文文化」です。
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(引用ここから)
「擦文時代」より
擦文時代(さつもんじだい)とは、7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて北海道を中心とする地域で擦文文化が栄えた時期である。
本州の土師器の影響を受けた擦文式土器を特徴とする。
後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとってかわられた。(詳細は「蝦夷#えみし」の項を参照)
この時代、9世紀(平安時代前期)までは擦文文化と並行してこれとは異質なオホーツク文化が北海道北部から東部のオホーツク海沿岸に広がっており、その後13世紀(鎌倉時代後期)まではその系譜を継ぐトビニタイ文化が北海道東部にあって、擦文文化と隣り合っていた。
トビニタイ文化はオホーツク文化に擦文文化が取り入れられたものだが、後期には擦文文化との違いが小さくなった。そこで、トビニタイ文化を擦文文化に含める考えがある。
時代と分布
擦文式土器の使用の始まりは6世紀後葉から7世紀はじめ(飛鳥時代に相当)にあり、ここから擦文時代が始まる。
前代の続縄文時代には、土器に縄目の模様が付けられたが、擦文時代には表面に刷毛目が付けられた。
これは土器の表面を整えるため木のへらで擦ってつけたものと考えられており、これが擦文の名の由来である。
この土器の表面調整技法は同時期の本州の土師器にも使用されており、この点にも土師器からの強い影響が窺える。
土器型式では北大II式までは続縄文土器であり北大III式から擦文土器に含まれる。
擦文土器は、
前代の続縄文土器の影響が残る時期のもの(6 - 7世紀、飛鳥時代)
土師器の影響を最も強く受け東北地方の土師器に酷似する時期のもの(7世紀後半 - 8世紀、奈良時代ころ)
擦文文化独特の土器に刻目状の文様が付けられる時期(9世紀、平安時代前期以降)
のものに大別される。
独特の刻目状の文様の土器を狭義の擦文土器とする研究者も存在する。
擦文文化からアイヌ文化への移行についてははっきりしたことがわかっていない。
これは、確認された遺跡の数の少なさのせいでもあるが、土器が消滅して編年が困難になったせいでもある。
11世紀から13世紀(平安時代後期から鎌倉時代後半)に終末を迎えたようである。
分布は現在の北海道を中心とする地域であるが、10世紀から11世紀にかけて(平安時代中期)青森県地方を中心とする北緯40度以北に擦文文化圏が広がったとする見解が複数の研究者から指摘されている。
生活
擦文時代の集落は、狩猟や採集(狩猟採集社会)に適した住居を構え方をしていた。
たとえば、秋から冬にかけてサケ、マスなどの獲物をとる時期には、常呂川や天塩川などの河口の丘陵上に竪穴住居の大集落、つまり本村を構え、他の時期には、狩猟などを営む分村を川の中流より奥に集落を作ったと考えられている。
擦文文化の人々は、河川での漁労を主に、狩猟と麦、粟、キビ、ソバ、ヒエ、緑豆などの栽培植物の雑穀農耕から食料を得ていた。
わずかだが米も検出されており、本州との交易によって得ていたと考えられる。
擦文時代には鉄器が普及して、しだいに石器が作られなくなった。
普及した鉄器は刀子(ナイフ)で、木器などを作る加工の道具として用いられたと考えられている。
他に斧、刀、装身具、鏃、釣り針、裁縫用の針など様々な鉄製品が用いられた。
銅の鏡や中国の銅銭も見つかっている。
これら金属器は主に本州との交易で入手したが、北方経由で大陸から入ってきたものもあった。
製鉄は行わなかったと見られるが、鉄の加工(鍛冶)の跡が検出されている。
また青森県五所川原窯で作られた須恵器が、北海道各地から出土している。
擦文文化の人々は方形の竪穴式住居に住み、川のそばに大小の集落を作って暮らしていた。
前代の続縄文時代後半の住居は検出された例が極めて少なく、実態は不明である。
擦文文化から本州の人々と同じくカマドが据えられるようになった。
伸展葬の土坑墓が一般的な埋葬形態である。
8世紀後半から9世紀(奈良時代から平安時代前期)には、北海道式古墳と呼ばれる小型の墳丘墓が石狩低地帯(石狩平野西部と勇払平野)に作られた。
東北地方北部の終末期古墳と類似しており、東北地方北部との多様な交流関係が窺える。
一方で10世紀半ばから12世紀はじめ(平安時代中期から平安時代後期)にかけて、北東北地方から樺太にかけて環濠集落・高地性集落が多数見られることから、
これを防御性集落とし、「蝦夷(えみし)」から「蝦夷(えぞ)」への転換時期とする見解が出されている。
文献史料
北海道の擦文時代は、道外の飛鳥時代から鎌倉時代後期にかけての時期に相当する。
『日本書紀』にある7世紀後半(飛鳥時代)の阿倍比羅夫の航海をはじめとして、六国史には渡島(わたりしま)の蝦夷(えみし)との交渉記事が多数ある。
渡島の所在をめぐってはこれまで諸説あったが、近年では北海道とみなしてよいとする意見が多い。
もしその通りだとすると、渡島蝦夷は擦文文化の人々ということになる。
(引用ここまで)
(写真(下)はわたしがイベントで作った鹿笛です)
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前に、東北地方のマタギの狩猟について調べていた時に、マタギの熊狩りは、アイヌよりも古い伝統をもつ
、と書かれていたことに驚いたことを思い出します。
「先住民族アイヌ」ということばも、軽々には使えない、ということだけは、たしかだと思います。
それは、わたしたち一人ひとりの中には、自分が思っているよりはるかに深い、古代の血が息づいているのではないか、という思いにもつながります。
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