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アイヌの葬式・火の神に旅立ちを依頼する・・アイヌと「日本」(5)

2016-03-06 | アイヌ


佐々木響氏著「アイヌと「日本」」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


               *****

             (引用ここから)


アイヌ民族の、和人とは決定的に違う「死霊」観を伝える文献資料がある。

アイヌ民族は、長い現代までの歴史の中で、言語や教育の領域で屈辱的にも和人としての立場を余儀なくされてきた。

だがこと宗教観だけは、キリスト教のアイヌ民族への伝道・布教などが近代の中であったにも関わらず、辛うじて民族的伝統を保持し続けてきた唯一の領域である。

例えば板倉源次郎の元文4年(1739)の「北方随筆」は、アイヌの死霊観をこう伝えている。

            ・・・

医業なきゆへ、疱瘡、麻疹、時疫病にて死亡の者多きゆへ、病を恐れ、死を忌事はなはだしく、病死あれば、父子兄弟といえども、捨て置いて、山中へ入り、死して後帰る。

死者の取り置きは、新しきアツシを着せ、新しきムシロに包み、山中へ送り、秘蔵せし物ども不残、ともに埋めて、家は焼き捨て、また改めて作りて居せり。ゆえに、壮年なれども死の用意はあらかじめ心がけおき、となり。

死者の妻はかぶりものをして、面を表わさざる事3年。

また再び嫁せず、もって女の心真実にして、嫉妬の念なく、夫に従う道、はなはだもって慎みあり。

                 ・・・


「アイヌ」民族は、極端に病気を恐れ、死を極度に忌み嫌った。

肉親といえども病を得れば山中に運び、死して後も山中に送る。

死者の出た家は、家屋を焼き捨て、改めて作り替えるという。




このアイヌに固有な生死・葬送観がいつの時点で成立したかは不明であるが、民族の発生する擦文期(8世紀~13世紀)まで、その原型は遡上されるに相違ない。

このアイヌの伝統的な生死・葬送観の原型が、日本的なそれとの文化接触を通して、徐々に独自の民族の
心、民族の霊魂観として体系化されていったのではあるまいか?


「アイヌ」の暮らしと心を再現しながら克明に綴られた、萱野茂氏の「アイヌ歳時記」を引いてみたい。

              ・・・

アイヌは今ここで死んだとしても、神の国、つまりこの大地の裏側に、こことまったく同じ土地があり、そこには先に死んでいった先祖たちが待っていると信じていた。

したがって「引導渡し」の時、たくさんのおみやげをもって神の国で待っている先祖たちのところへ行くようにすれば、先祖たちがあなたを快く迎えてくれるだろう、という意味の言葉がある。

神の国への先導役は送りの墓標で、その墓標の先端には、火の神様の分身とされている「消し炭」が塗られている。

「消し炭」は光を発すると考えられていて、死者は墓標の先の光で足元が照らされ、迷うことなく先祖の待っている神の国へ到着する。

すると神の国の者たちは、墓標の先に巻いてある四つ編みの紐を見て、身内であるか否かを識別して迎えるのである。

          ・・・

アイヌの葬送は、どのように行われたのだろうか?

萱野氏は昭和10年代の実例を回想されながら、次のように復元されている。

          ・・・

「引導渡し」

アイヌの葬式を主催するのは、「引導渡し」という近所の男性である。

葬式に必要な墓標を責任持って作った導師は、死体を前に、火の神への報告を兼ねて、自らの導師としての認知を求めて、静かな口調で次のように言う。


墓標を家の中へ 火の神のそばで

国土を司る神 

涙を持つ神 尊い御心に 遠慮をしようと  わたしは思って いるけれど

今日のこの日 先祖の風習 涙のしぐさで あるがゆえに いたらぬわたしだが お互いを大切にする 

それゆえに 祖父が作った墓標 

と言いましても 外の祭壇 祭壇のところに鎮座した神 樹木の神 神の勇者 霊力のある神を 私どもは
頼み 

樹木の神 その神々が 霊峰に  山懐に 大勢いるが 

その中でも  雄弁と 度胸と 薫りとともに 信頼され 授けられた神 えんじゅの木の神 神の勇者を

私どもは 信頼して これこのように 

先祖の墓標と 申しましても わたしどもアイヌ 人間自身が つくったものは 一つもない 

これこのものは アイヌの先祖 オキクルミ神が教えてくれた 

その手の跡を まったく同じに つくった墓標が この墓標だ 

墓標の上端に 火の神様 その印を 塗ってあり 墓標の下端に 祖母の印を 巻きつけた

それと一緒に 墓標の表面 名前も合わせて 書いてある 

立派な墓標 この墓標は 頼んだ神と まったく同じに 鎮座させた 

これこのものは 言うまでもないが ニスクレククルに 授けたのだ 

ここまでは わたしどもの 仕事であったが 

これから先は 火の神様が 墓標の神に 言い聞かされ 

それといっしょに 亡くなった 私の兄にも いってほしい とわたしは思い

遠慮とともに 尊い御心に 私の希望を 申し述べた

              ・・・
 
こう報告した後、今度は、

「墓標を作った当日、亡くなった本人に、立派な送りの神、墓標を作った報告」をする。

そしていよいよ葬式の当日、「火の神へ、死者が無事に先祖のところへ行かれるように、教えてやってほしい」と言う。

と同時に、死者に対して、火の神の言う話をよく聞き、先祖のところへ行くよう、導きつつ

この火の神への報告や依頼、そして死者への諭しは、実にていねいで細やかなものである。

最後の死者への諭しであり、送別の言葉として、こう語られるという。

              ・・・

今日のこの日が 

よい日として 選び恵まれ 

これこの通りに あなたの出発 

神の国へ 先祖の国へ 

行かれることに なっているが 

良い土産を 土産をたくさん お持ちになり 

さあ早く 先に行った あなたの妻 あなたの子供 

そこへ行くぞと そればかりを念頭に置かれ 

自分自身の 心を落ち着け 

あってはならないこと 化けて出るとかという話だ 

そこでわたしの兄上よ 

いつものことだが 首領であったあなたゆえに 

火の神さまの言う言葉に 耳を傾け 

送りの神 送りの墓標や もろもろの神とともに 

たくさんの人たちが あなたの出発を 見送るために ここへきて 見守っているよ。

                 ・・・

菅野氏は、紋別村山紋別の叔父が昭和6年に亡くなった時の記憶として、次のように回想されている。

                 ・・・

当時の二風谷村の棺桶は、板で作った寝棺であったのに、山紋別ではアイヌ風の葬式で、ござで包んだ遺体の二か所に縄を付けて、棒を通し、二人で担ぐ。

担がれた遺体の、前の方は揺れないが、足のほうは何となくぶらんぶらんと揺れるのを見て、その揺れ方が恐ろしくて忘れられない。

本物を見たのは、最初で最後であった。

ござで包んだ遺体を恐ろしいと思ったもう一つの理由は、昔話の中で、死んだ妻がござに包まれた遺体のままで、生きている夫のところへ来た話を聞いていたからである。

この葬式のことを「山へ掃き出す」と言って、アイヌは埋葬した場所には亡骸だけが残り、魂そのものは、先祖の国へ行っているものと信じていた。

従って、墓参という風習は日本人が来て、日本風の葬式をするようになってからのことである。



        (引用ここまで)

 ☆写真(下)は、過日東京で行われたカムイノミの準備の途中の情景を私が撮影したものです。本文とは関係ありません。


          *****


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2 コメント

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はじめまして (山猫)
2016-03-07 16:08:42
極寒の地に生きるアイヌ 農耕もままならない

狩猟民族 文字を持たない ネズミから狐を介して

発病する風土病 それでも民族は 生きる

人間の生きる知恵はすばらしい 知識を拡充しました 
返信する
コメントありがとうございました。 (veera)
2016-03-12 06:22:23
山猫さま

コメントどうもありがとうございました。

はじめまして。

ほんとうに、人間の生きる知恵はすばらしいですね。
ネズミも、キツネも、熊も、サケも、人も、生きる知恵をわかちあっているように思いますね。
返信する

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