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アイヌと「日本」(3)・・擦文文化からアイヌへ・佐々木馨氏

2015-10-24 | アイヌ




ふたたび、東北と北海道とアイヌ、というテーマに視点を戻して、

佐々木馨氏著「アイヌと「日本」――民族と宗教の北方史」という本を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


この本は、2001年に上梓されていますが、最近のアイヌ文化研究の定石に則った著作ではないかと思います。

アイヌの人々は、決して単独に、孤立して、原住民として、生きてきたのではなかった、対外的な交流を主体的に行って、民族としてのアイデンティティを確立した、という考え方だと思います。




             *****

         
          (引用ここから)

「擦文文化」とアイヌ

古代における「えみし」観は、一般に「蝦夷(えみし)=まつらわぬ民」に端を発している。

それが11世紀の王朝国家期、すなわち安倍氏、清原氏、あるいは平泉藤原氏などによる統治の時代に、「えびす」なる過渡的呼称が顕著となる。

さらにその後、「えぞ(蝦夷)=アイヌ」という、ある種、民族学的差別感を合わせ持った、民族的呼称が成立するという具合に変遷する。

この「えぞ(蝦夷)=アイヌ」の等式的呼称は、12世紀のころに成立したとされ、居住範囲は、東北北端から北海道の地と限定される。

12世紀の鎌倉時代にあっては、「えぞ」とは「アイヌ」を指し、今日の北海道は「蝦夷が島」と呼ばれていたのである。

「えぞ(蝦夷)=アイヌ」が成立する以前の文化を、考古学的には「擦文(さつもん)文化」の時代と呼び、その期間はほぼ8世紀~12・13世紀とされる。

この日本考古学上においても、「続縄文時代」に接続する、特異な、優れて古代東北的にして北海道的な

「擦文文化」は、遺跡の分布状況が東北北端から北海道・道南部に集中していた。

こうした分布状況からして、「擦文文化」の直接的な担い手は、「えびす」すなわち、「えぞ=アイヌ」の前身であったのであり、それゆえ「擦文文化」は「アイヌ」文化の祖型であると言われる。

東北地方の「擦文文化」の遺跡の所在は、下北半島および津軽半島に集中しており、北海道・道南部との交流から考えて、「擦文文化」が「アイヌ」文化の祖型と言われるゆえんもここにある。

東北北部の「土師器(はじき)文化」の影響を受け、8世紀に成立し、12・13世紀まで存続したこの「擦文文化」の特徴は、

土器製法では、土師器製法を継いだ擦痕のある土器製法、

住居様式では、従来の円型竪穴に代わる、かまどを伴う隅丸型の竪穴住居、

金属製品や陶磁器の流入では、太刀、蕨手刀(わらびてとう・武器・装飾品)、鉄矢じり、鉄鎌、鉄斧(生産用具)、須恵器、珠洲焼が顕著であった。

「擦文文化」は大麦・あわ・そば・ひえなどの出土品から、一部農耕を伴っていたと考えられているが、主たる経済的基盤は、サケ・マス漁を中心にした漁労・狩猟であった。

「アイヌ=えぞ」の前身である「擦文文化人」が、一定の集団をなして生活していたことは、「諏訪大明神絵詞」の次の一文に散見できる。

             ・・・

日の本、唐子、渡党来此三類各三百三十三の島に群居せり。

今二島は渡島混す。その内にウソリツルコシマとマツマエダケという小島どもあり。

この種類は多奥州津軽外の浜に往来交易す。

夷一把というは六千人なり。

相娶る時は百千に及べり。

             ・・・

このように一把=6000人が単位で行動し、多いときには、その100倍、1000倍となる、ということが資料から判明する。

こうした集団が、近世の「アイヌ」社会におけるコタンの先駆であろう。

中世アイヌの人たちの生活実態を探ることは、上の集団性を除くと寄るべき資料もなく、困難である。

それゆえ、中世アイヌ社会と近世のそれとの間に決定的な社会変動がないことを前提にした上で、近世の一部文献から類推するしか、有効な道はない。


         (引用ここまで)

          *****



wikipedia「諏方大明神画詞」より

諏方大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)は、諏訪大社の縁起。

「諏訪大明神画詞」「諏訪大明神絵詞」「諏訪絵詞」「諏訪大明神御縁起次第」等とも表記される。

寺社の起こりや由緒を記した寺社縁起の1つで、長野県の諏訪地域に鎮座する諏訪大社の縁起である。

1356年(正平11年/延文1年)成立。全12巻。著者は諏訪円忠(小坂円忠)。

元々は『諏方大明神縁起絵巻』・『諏方縁起』等と称する絵巻物であった。

しかしながら早い段階で絵は失われ、詞書(ことばがき)の部分の写本のみを現在に伝え、文中には「絵在之」と記すに留めている。

著者の諏訪円忠は、神氏(諏訪大社上社の大祝)の庶流・小坂家の出身で、室町幕府の奉行人であった。

そのため足利尊氏が奥書を書いている。

成立に関しては洞院公賢の『園太暦』にも記されており、失われていた『諏方社祭絵』の再興を意図したものであったという。

現在は権祝本・神長本・武居祝家本等があり、権祝本が善本とされている。


              ・・・・・


>このように一把=6000人が単位で行動し、多いときには、その100倍、1000倍となる、ということが資料から判明する。
こうした集団が、近世の「アイヌ」社会におけるコタンの先駆であろう。


6000人の1000倍というと、600万人になります。

今、イメージされるコタンの趣きとは全く違いますね。

少なくとも、古代・中世、アイヌ(=蝦夷)は本当に勇猛な大集団だったのではないでしょうか?



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