始まりに向かって

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青森の縄文遺跡・三内丸山と、トーテムポール

2009-04-02 | その他先史文明

前回の記事の続きです。


こうして次に龍村監督はボブを、青森の縄文遺跡である、三内丸山遺跡に案内しました。


この遺跡は1992年に発掘が開始され現在も調査が続いています。

遺跡は5500年ほども前のものであり、1500年間平穏のうちに生活が続いたことが明らかになりました。

1500年間の膨大な遺跡からは、誰もが予想もしなかった大変高度な文化をもった縄文人の生活が明らかになり、縄文人=原始的な採取狩猟民というイメージを大きく塗り替えた画期的な発掘でした。

500人の住民が暮らしていたと想定される巨大な村は現在5ヘクタール発掘されていますが、まだ全体の7分の1と予測されています。

栗林を栽培しており、ごみも分類して捨ててあり、漆塗りのお皿なども出土し、およそ縄文時代のイメージからはかけはなれています。

最も大きなランドマークには、高さ10メートル、直径1メートルの栗の巨木を6本、4,2メートルの等間隔にまっすぐに打ち立てて大きな建物も作っています。

この大きな建造物を5000年も昔に、いったい何のためにどのようにして作り上げたのかも、全く分かっていません。


さて、この6本の巨木を見たボブは次のように語ったと、龍村氏は書いています。

*****


三内丸山遺跡で、ボブは発掘された6本の樹の柱は、我々の祖先を守護した6つの守護神(クラン)すなわち、白頭鷲、熊、シャチ、オオカミ、鮭、カエルのシンボル(トーテムポール)だと断言した。

装飾品として展示されているヒスイの首飾りは、生理中に霊力が高まりすぎた女性が手で直接ものに触れないために使った道具だ、と言った。

これらの説明は、考古学者の解説とは違っている。

しかしもし星野道夫が直観したように、そしてクリンギット族の神話が語るように、数千年前に南東アラスカの先住民と、東北地方や北海道に住んでいた縄文の人々との間に、現実のつながりがあるとするなら、このボブの体験と霊的直観から生まれた説明も単なる幻想として否定し去ることはできないような気がする。

三内丸山に生きた縄文の人々が持っていた樹に対する高度の技術は、もし彼らが必要としたなら、遠洋航海カヌーを作ることができたことを十分に示している。

しかしその技術を支えた道具のほとんどが樹などの有機物で作られていたために、すぐに自然の循環のサイクルの中に戻り、消えていった。

物質的な証拠がないかぎり、なかったことにする、という考え方では、どうしても捉えられないものなのだ。

魂の実在をリアルに感じることができるか否かを、ボブは問いかけているのだ。

   (龍村仁著「ガイアシンフォニー3番・魂の旅」より)


      *****


ここに述べられている、ボブの属するトーテムポールの文化は、石の文化に対する木の文化であり、消えてゆく文化であると言えると思います。

三内丸山も、1500年の繁栄を誇りながらも、4000年前、忽然と姿を消してしまいました。

考古学はこれからたくさんのことを発見し、重大な事実がたくさん明らかになることと思います。

でも、5500年前という途方もない昔を今につなぎ止める力をもつのは、魂の力であろうとボブは言っているのだと思います。


ボブは6本の巨木に、トーテムポールを見ました。

彼はトーテムポールが朽ち果て、森に還ってゆくことを望んでいるのです。

星野道夫の著書「森と氷河と鯨」から引用します。

   
      *****


20世紀になり、強国の博物館が世界中の歴史的な美術品の収集にのりだす時代が始まった。

クイーンシャーロット島も例外ではなかった。

多くのトーテムポールが持ち去られ始めるが、生き残ったハイダ族の子孫も次第に立ち上がってゆくのである。

彼らはその神聖な場所を朽ち果ててゆくままにさせておきたいとし、人類史にとって貴重なトーテムポールをなんとかして保存してゆこうとする外部からの圧力さえかたくなに拒否していったのだ。

「その土地に深く関わった霊的なものを、彼らは無意味な場所にまで持ち去ってまでして、なぜ保存しようとするのか?

わたし達はいつの日かトーテムポールが朽ち果て、そこに森が押し寄せてきて、すべてのものが自然の中に消えてしまっていいと思っているのだ。

そしてそこはいつまでも聖なる場所になるのだ。

なぜ、そのことがわからないのか?」

その話を聞きながら、目に見えるものに価値をおく社会と、見えないものに価値をおくことができる社会の違いをぼくは思った。

そしてたまらなく後者の思想にひかれるのだった。

夜の闇の中で、姿の見えぬ生命の気配が、より根源的であるように。
         
                  (同書より)


     *****



三内丸山の縄文遺跡については、日を改めてたくさん書きたいと思います。

ここでは、星野道夫と龍村監督とボブ・サムの魂の旅を追いかけることにします。

彼らは、次には和歌山の熊野三山に向かいます。

熊野三山の神社は、三本脚のヤタガラスを祀った神社です。
ヤタガラスは、日本のワタリガラスなのでしょうか?




公式HP 星野道夫
http://www.michio-hoshino.com/

公式HP 特別史跡・三内丸山遺跡
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/


wiki三内丸山遺跡より

三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は青森県青森市の郊外で発見された縄文時代前期中頃から中期末葉(約5500年前~4000年前)の大規模集落跡。

2000年に国の特別史跡に指定。遺跡跡には住居群、倉庫群のほか、シンボル的な3層の掘立柱建物が再現されており、資料館もある。
2005年8月現在、青森県教育委員会三内丸山対策室が調査を行っている。

この地に遺跡が存在することは江戸時代からすでに知られていたが、本格的な調査は新しい県営の野球場を建設する事前調査として1992年から行われた。

その結果としてこの遺跡が大規模な集落跡とみられることが分かり、1994年には大型建物の跡とも考えられている直径約1mの栗の柱が6本見つけられた。

これを受け同年、県では既に着工していた野球場建設を中止し、遺跡の保存を決定した。

その後、資料館を作り整備を行い、六本柱建物跡においては、柱の現物は他の場所に保存しレプリカを代わりにそこに置き、保存ドームを作るということなどを行った。

また、墓の道の遺構が非常に長く延びている事が分かったため都市計画道路も建設を中止した。

前期の集落は住居・墓・捨て場などから構成されている。

中期には、住居・大型掘立柱建物・掘立柱建物・貯蔵穴・土抗墓・粘土採掘穴・盛り土・道路などが、前期同様計画的に配置されている。

遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。

遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることなども分かり、さらにはヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土した。

それらは縄文時代の文化が従来考えられているよりも進んだものであることを示すものであった。

遺跡は他の近くの遺跡に繋がっている可能性が高く、未だに全容は把握しきれていない。

これほどの遺跡がなぜ終焉を迎えたのかは謎である。

一因としては、気候の寒冷化などが挙げられるが、それだけで遺跡全土を手放すとは考えづらく、栗の栽培を停止しなければならない何か特別な理由があったという見解も示されてはいるが、それが何であるかは分かっていない。

出土遺物は段ボールで数万箱に及んだと言われる。

土器、石器が中心であるが、日本最大の板状土偶などといった土製品や石製品も多く出土している。

また、この他にも北海道地域を中心とした交易で得たと推測される黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大珠などが出土している。


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