先日、次期国政選挙に向けて「アイヌ民族党が結成された」、という報道がありましたが、アイヌ民族の方々は現実の政治の世界においてどのようなことを望んでいらっしゃるのでしょうか?
本州育ちのわたしは、アイヌと聞くと、どうしても金のしずく、銀のしずくのきらめく幻想的な世界を想起しがちですが、それでよいのだろうか?、わたしはどうすればよいのだろうか?、、と自分に問い続けている自分を感じています。
アイヌ文化研究者・児島恭子氏の「エミシ・エゾからアイヌへ」という本を読んでみました。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
*****
(引用ここから)
1899年の「北海道旧土人保護法」制定から1世紀後の1997年、通称「アイヌ文化振興法」が制定、施行され、アイヌ文化やアイヌの人々を巡る状況が画期的な段階になったことが“アイヌの現状”に大きな影響を与えている。
“北海道旧土人”とはアイヌのことであり、この“保護法”は戦後の日本ではほぼ有名無実と化していたが、日本人であるアイヌの人々を他の日本人と区別して特別に「保護」する根拠であった。
時代錯誤の響きを持つ“旧土人保護法”がまだあった当時、アイヌはそのために苦しんだが、その法律を知らない日本人は多かった。
廃止されて10年を経た今、その法律が存在したことはだんだんと歴史の彼方に退いている。
“旧土人保護法”は国内に異民族として存在することを否定した法であったのに対し、「アイヌ文化振興法」は異文化を持つ人々の存在を認めている。
そのため旧法の下では隠れていたアイヌという民族の存在が表に出て来て、活力あるアイヌ像が浮かんできている。
「アイヌ文化振興法」がアイヌを可視化している。
しかしアイヌ人口とされる数字はほとんど増えず、見えるアイヌは相変わらず氷山の一角にすぎない。
この10年で見える部分も激変した。
「アイヌ文化振興法」はアイヌの伝統文化を公的に認知し称揚している。
しかしその伝統文化保持者はこの世を去り、アイヌ文化を変化させようとする新世代が目立ち、
それに表面的に共感する日本社会もある。
いわゆるグローバル化の波がアイヌをめぐる環境にも及んでいる。
歴史はどうでもよくなっているのだろうか?
“エミシ”や“エゾ”は“アイヌ”か?
“エミシ”や“エゾ”は“ヤマト文化圏”に属する人々によって付けられた“夷狄(いてき)”としての名称であって、“アイヌ”を指すとは言えないとされるようになっている。
しかし東北地方に「アイヌ語地名」が存在することが、新たな「エミシ=アイヌ論」を生みだしている。
さらに「エゾ=アイヌ論」となると、古代史に留まらず、中世から現代までの途上に点々と現れる問題となっている。
近世には北海道のアイヌは“蝦夷(エゾ)“と呼ばれたが、逆に“蝦夷(エゾ)すなわちアイヌ”と言ってよいのかどうかは問題がある。
それでも“エゾの後身としてのアイヌ”の歴史を考えようとする立場の研究は近年増加している。
たとえば古代末期から中世の“蝦夷”は、財力を蓄えた奥州藤原氏や安東氏を交易相手として、渡党の主導を巡って言及されている。
“蝦夷”が海上を往来する交易民としてイメージされ、従来の日本史上では“辺境”とされてきた東北地方や北海道の日本海側といった地域に生彩を与えるだけでなく、
「環日本海」という捉え方で辺境の歴史を脱し、対岸の大陸を含んだ地域の歴史という空間的な広がりを持たされている。
アイヌの復権がなされつつある現在、かつてはより広い地域に住み、交易活動にいそしんできたという、和人に征服される以前の歴史的アイヌ像が作られ、無条件に「伝統的」アイヌ文化を「自然と共存するする理想的な文化」であるとして、その担い手であるアイヌの過去として“エゾ”を考える傾向があるように思う。
江戸時代にはアイヌは“蝦夷”と呼ばれていたが、自分達から“蝦夷”と名乗っていたのではない。
自分達のことはおそらく「アウタリ」とか「」(=私たち)と表現していただろう。
民族名称として「アイヌ」を使うようになった人々の自民族、自文化に対する意識は、近現代を通じて多様で、個人の中での変化も多くの人が経験している。
1990年までは「アイヌ」という言葉は差別に結びついてイメージされるため、避けられることが多かった。
1961年には「社団法人北海道アイヌ協会」が「社団法人北海道ウタリ協会」と改称された。
「アイヌ」という名称をアイヌ自身が避けて、「ウタリ」と言い、行政もそれを採用して公的用語として長く使われてきた。
「日本書紀」と「古事記」に「蝦夷」は計80か所以上書かれているが、「エミシ」と読むことが明記された個所はなく、他の読み方も書かれてはいない。
「エミシ」は8世紀において古歌の中に見える勇猛な集団であり、ただヤマト王権がより東方に向かった時に出会う敵であった。
「日本書紀」に蘇我蝦夷(エミシ)と表記されている有名な人物は「日本書紀」より前の文献では、“蘇我毛人”と書かれていた。
今普通に蘇我蝦夷(エミシ)と言っているのは、蝦夷=エミシであった記憶が続いているからなのだろうか。
そこで“毛人”とは何かという問題が出てくる。
“毛人”は“エミシ”と読むのだろうか?
ヤマト王権は勢力拡張の過程で遭遇した武力集団を“エミシ”と名付け、東国へ勢力を進展させていく時、東方の強者は“エミシ”であった。
“エミシ”は抵抗勢力であるが、結果として征服されない“エミシ”はいない。
王権に取り込まれるからには強者であればある程、王権は高められる。
“エミシ”の讃美はマジョリティーの側によって巧妙に讃えられた意味である。
「古事記」「日本書紀」には“蝦夷”をなんと読むべきか書かれていないが、8世紀前半の養老年間に「日本書紀」の講読が行われ、“蝦夷”を“エビス”と読んでいる。
奈良時代には「毛人」や「蝦夷」という名前の人がたくさんいた。
阿部朝臣毛人、小野朝臣毛人、 大鴨君蝦夷など、姓を見ると有力者の一族であることが分かる人々もいる。
9世紀まで“エミシ”あるいは“エビス”がヤマトの人名にも使われたのは、古典的な名称として人々の意識に残ったからである。
・・・
本書「後書き」より
「古代の“蝦夷”はアイヌか?」という問題は、アイヌが“謎の民族”であるというイメージとともに長い間繰り返し議論されてきた。
とはいっても、それは明治以降のことで、アイヌをアイヌとしてのその出身を科学的な探求の対象としたのは、まず欧米の人々であった。
アイヌはどこから来たのか?
アイヌ語はどの言語と関係があるのか?
という問題は19世紀に関心の的となった。
それを受けて日本でも新しい学問が発達すると、当時“滅びゆく民族”と喧伝されたアイヌが興味深く取り上げられた。
アイヌは「北海道土旧土人保護法」によって、消え去る運命ゆえに、保護されるべきものとされ、日本の中で独自の文化をもつ民族として存在し続けていることは無視されてきた。
本書脱稿後の2008年8月6日、国会では衆参両院本会議において、アイヌを「先住民族」と認める議決が採択された。
1997年から試行された「アイヌ文化振興法」ではアイヌが「先住民」であることの認定は行われなかった。
その後の、日本政府に対する数度にわたる国連の人権関連機関からの勧告、
直接的には2007年9月に国連総会において「先住民族の権利に関する国連宣言」が採択された際に日本政府も賛成したことと、
2008年7月の北海道洞爺湖サミット開催が時期的な契機となったといわれている。
内実が問題だが、現在のアイヌを巡る社会的な状況は大きく変わってきており、アイヌの新世代の登場は輝いて見える。
そのような現在に置いて、アイヌ民族のことを知るために、“エミシ”、“エビス”、“エゾ”と言った名称にこだわることにどういう意味があるのだろうか?
はるか以前から、“エミシ”や“エゾ”という異民族の存在は日本の歴史の中で認識されてきた。
為政者は異民族の異質性を排除することで、日本という国や日本人という国民を成り立たせようとしてきた。
ある場合にはその存在を都合よく利用してきたのだった、現在に至るまで。
そのような態度は歴史的に蓄積され、一人一人が受けた教育の中、獲得した教養の中に沁み渡っている。
“エミシ”や“エゾ”という言葉を手掛かりにしてアイヌ観を説きほぐしていくーーそれは現在の私たち一人一人にとって、アイヌに寄り添う姿勢の基礎となるものである。
その作業はまだまだ先がある。
(引用ここまで)
*****
本書を一言でまとめるとすると、上記に引用させていただいた「あとがき」にある、筆者の以下の言葉になると思います。
>“エミシ”や“エゾ”という言葉を手掛かりにしてアイヌ観を説きほぐしていくーーそれは現在の私たち一人一人にとってアイヌに寄り添う姿勢の基礎となるものである。
私はこの筆者にお会いしたことがあるのですが、ここに言われている[アイヌに寄り添う]という言葉を、決して安易には用いない、学者としての節度を保った方であると感じました。
ヤマト民族は、アイヌ民族に対して、節度を保ち、礼節ある態度で接するべきである、というのが、この方とお話しして、心から共鳴したことでした。
関連記事
[ブログ内検索]で
アイヌ民族党 1件
アイヌ 15件
先住民族サミット 6件
アイヌ語 5件
などあります。(重複しています)
本州育ちのわたしは、アイヌと聞くと、どうしても金のしずく、銀のしずくのきらめく幻想的な世界を想起しがちですが、それでよいのだろうか?、わたしはどうすればよいのだろうか?、、と自分に問い続けている自分を感じています。
アイヌ文化研究者・児島恭子氏の「エミシ・エゾからアイヌへ」という本を読んでみました。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
*****
(引用ここから)
1899年の「北海道旧土人保護法」制定から1世紀後の1997年、通称「アイヌ文化振興法」が制定、施行され、アイヌ文化やアイヌの人々を巡る状況が画期的な段階になったことが“アイヌの現状”に大きな影響を与えている。
“北海道旧土人”とはアイヌのことであり、この“保護法”は戦後の日本ではほぼ有名無実と化していたが、日本人であるアイヌの人々を他の日本人と区別して特別に「保護」する根拠であった。
時代錯誤の響きを持つ“旧土人保護法”がまだあった当時、アイヌはそのために苦しんだが、その法律を知らない日本人は多かった。
廃止されて10年を経た今、その法律が存在したことはだんだんと歴史の彼方に退いている。
“旧土人保護法”は国内に異民族として存在することを否定した法であったのに対し、「アイヌ文化振興法」は異文化を持つ人々の存在を認めている。
そのため旧法の下では隠れていたアイヌという民族の存在が表に出て来て、活力あるアイヌ像が浮かんできている。
「アイヌ文化振興法」がアイヌを可視化している。
しかしアイヌ人口とされる数字はほとんど増えず、見えるアイヌは相変わらず氷山の一角にすぎない。
この10年で見える部分も激変した。
「アイヌ文化振興法」はアイヌの伝統文化を公的に認知し称揚している。
しかしその伝統文化保持者はこの世を去り、アイヌ文化を変化させようとする新世代が目立ち、
それに表面的に共感する日本社会もある。
いわゆるグローバル化の波がアイヌをめぐる環境にも及んでいる。
歴史はどうでもよくなっているのだろうか?
“エミシ”や“エゾ”は“アイヌ”か?
“エミシ”や“エゾ”は“ヤマト文化圏”に属する人々によって付けられた“夷狄(いてき)”としての名称であって、“アイヌ”を指すとは言えないとされるようになっている。
しかし東北地方に「アイヌ語地名」が存在することが、新たな「エミシ=アイヌ論」を生みだしている。
さらに「エゾ=アイヌ論」となると、古代史に留まらず、中世から現代までの途上に点々と現れる問題となっている。
近世には北海道のアイヌは“蝦夷(エゾ)“と呼ばれたが、逆に“蝦夷(エゾ)すなわちアイヌ”と言ってよいのかどうかは問題がある。
それでも“エゾの後身としてのアイヌ”の歴史を考えようとする立場の研究は近年増加している。
たとえば古代末期から中世の“蝦夷”は、財力を蓄えた奥州藤原氏や安東氏を交易相手として、渡党の主導を巡って言及されている。
“蝦夷”が海上を往来する交易民としてイメージされ、従来の日本史上では“辺境”とされてきた東北地方や北海道の日本海側といった地域に生彩を与えるだけでなく、
「環日本海」という捉え方で辺境の歴史を脱し、対岸の大陸を含んだ地域の歴史という空間的な広がりを持たされている。
アイヌの復権がなされつつある現在、かつてはより広い地域に住み、交易活動にいそしんできたという、和人に征服される以前の歴史的アイヌ像が作られ、無条件に「伝統的」アイヌ文化を「自然と共存するする理想的な文化」であるとして、その担い手であるアイヌの過去として“エゾ”を考える傾向があるように思う。
江戸時代にはアイヌは“蝦夷”と呼ばれていたが、自分達から“蝦夷”と名乗っていたのではない。
自分達のことはおそらく「アウタリ」とか「」(=私たち)と表現していただろう。
民族名称として「アイヌ」を使うようになった人々の自民族、自文化に対する意識は、近現代を通じて多様で、個人の中での変化も多くの人が経験している。
1990年までは「アイヌ」という言葉は差別に結びついてイメージされるため、避けられることが多かった。
1961年には「社団法人北海道アイヌ協会」が「社団法人北海道ウタリ協会」と改称された。
「アイヌ」という名称をアイヌ自身が避けて、「ウタリ」と言い、行政もそれを採用して公的用語として長く使われてきた。
「日本書紀」と「古事記」に「蝦夷」は計80か所以上書かれているが、「エミシ」と読むことが明記された個所はなく、他の読み方も書かれてはいない。
「エミシ」は8世紀において古歌の中に見える勇猛な集団であり、ただヤマト王権がより東方に向かった時に出会う敵であった。
「日本書紀」に蘇我蝦夷(エミシ)と表記されている有名な人物は「日本書紀」より前の文献では、“蘇我毛人”と書かれていた。
今普通に蘇我蝦夷(エミシ)と言っているのは、蝦夷=エミシであった記憶が続いているからなのだろうか。
そこで“毛人”とは何かという問題が出てくる。
“毛人”は“エミシ”と読むのだろうか?
ヤマト王権は勢力拡張の過程で遭遇した武力集団を“エミシ”と名付け、東国へ勢力を進展させていく時、東方の強者は“エミシ”であった。
“エミシ”は抵抗勢力であるが、結果として征服されない“エミシ”はいない。
王権に取り込まれるからには強者であればある程、王権は高められる。
“エミシ”の讃美はマジョリティーの側によって巧妙に讃えられた意味である。
「古事記」「日本書紀」には“蝦夷”をなんと読むべきか書かれていないが、8世紀前半の養老年間に「日本書紀」の講読が行われ、“蝦夷”を“エビス”と読んでいる。
奈良時代には「毛人」や「蝦夷」という名前の人がたくさんいた。
阿部朝臣毛人、小野朝臣毛人、 大鴨君蝦夷など、姓を見ると有力者の一族であることが分かる人々もいる。
9世紀まで“エミシ”あるいは“エビス”がヤマトの人名にも使われたのは、古典的な名称として人々の意識に残ったからである。
・・・
本書「後書き」より
「古代の“蝦夷”はアイヌか?」という問題は、アイヌが“謎の民族”であるというイメージとともに長い間繰り返し議論されてきた。
とはいっても、それは明治以降のことで、アイヌをアイヌとしてのその出身を科学的な探求の対象としたのは、まず欧米の人々であった。
アイヌはどこから来たのか?
アイヌ語はどの言語と関係があるのか?
という問題は19世紀に関心の的となった。
それを受けて日本でも新しい学問が発達すると、当時“滅びゆく民族”と喧伝されたアイヌが興味深く取り上げられた。
アイヌは「北海道土旧土人保護法」によって、消え去る運命ゆえに、保護されるべきものとされ、日本の中で独自の文化をもつ民族として存在し続けていることは無視されてきた。
本書脱稿後の2008年8月6日、国会では衆参両院本会議において、アイヌを「先住民族」と認める議決が採択された。
1997年から試行された「アイヌ文化振興法」ではアイヌが「先住民」であることの認定は行われなかった。
その後の、日本政府に対する数度にわたる国連の人権関連機関からの勧告、
直接的には2007年9月に国連総会において「先住民族の権利に関する国連宣言」が採択された際に日本政府も賛成したことと、
2008年7月の北海道洞爺湖サミット開催が時期的な契機となったといわれている。
内実が問題だが、現在のアイヌを巡る社会的な状況は大きく変わってきており、アイヌの新世代の登場は輝いて見える。
そのような現在に置いて、アイヌ民族のことを知るために、“エミシ”、“エビス”、“エゾ”と言った名称にこだわることにどういう意味があるのだろうか?
はるか以前から、“エミシ”や“エゾ”という異民族の存在は日本の歴史の中で認識されてきた。
為政者は異民族の異質性を排除することで、日本という国や日本人という国民を成り立たせようとしてきた。
ある場合にはその存在を都合よく利用してきたのだった、現在に至るまで。
そのような態度は歴史的に蓄積され、一人一人が受けた教育の中、獲得した教養の中に沁み渡っている。
“エミシ”や“エゾ”という言葉を手掛かりにしてアイヌ観を説きほぐしていくーーそれは現在の私たち一人一人にとって、アイヌに寄り添う姿勢の基礎となるものである。
その作業はまだまだ先がある。
(引用ここまで)
*****
本書を一言でまとめるとすると、上記に引用させていただいた「あとがき」にある、筆者の以下の言葉になると思います。
>“エミシ”や“エゾ”という言葉を手掛かりにしてアイヌ観を説きほぐしていくーーそれは現在の私たち一人一人にとってアイヌに寄り添う姿勢の基礎となるものである。
私はこの筆者にお会いしたことがあるのですが、ここに言われている[アイヌに寄り添う]という言葉を、決して安易には用いない、学者としての節度を保った方であると感じました。
ヤマト民族は、アイヌ民族に対して、節度を保ち、礼節ある態度で接するべきである、というのが、この方とお話しして、心から共鳴したことでした。
関連記事
[ブログ内検索]で
アイヌ民族党 1件
アイヌ 15件
先住民族サミット 6件
アイヌ語 5件
などあります。(重複しています)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます