前回の、北東北と北海道とアイヌ、という視点で、
菅田正昭氏の「アマとオウ・弧状列島をつらぬく日本的霊性」という本を読んでみました。
著者はかつて、八丈島の先にある青が島という絶海の孤島の町役場の職員として赴任し、現在も島の研究をしている人です。
リンクは張っておりませんがアマゾンなどでご購入になれます。
菅田氏は、日本列島に生きてきた人々は共通の「縄文語」を持つ「縄文人」というくくりに入れて、その中の差異は方言であろうと考察しています。
アイヌ語は、日本の諸方言の一つであるとする考えです。
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(引用ここから)
縄文時代にこの弧状列島に住んでいた人たちが話していた言葉を「縄文語」と名付けたとしても、縄文時代は1万数千年もあるのだ。
しかも南北に長く連なったこの弧状列島で話されていた言葉が一様な「縄文語」であるとは、どうしても言えないだろう。
当然、「縄文人」も、一様の人種だったとは言えなくなる。
にも関わらず、言葉も人種も非常に近い存在だった、と言うことはできるかもしれない。
しばらく一緒に生活すれば、すぐに話せるようになったのではないかと思われる。
私は今日の「日本人」を縄文人の子孫、「日本語」を縄文人たちが話していた言語の系統をひく言語であると考えている。
言語学では、日本語もアイヌ語も系統不明の孤立語と考えられているが、その一方で、日本語は韓国・朝鮮語と近い関係があるとも言われている。
ところが、日本語とアイヌ語との関係は、日本語と韓国・朝鮮語よりも深いというデータもある(安本美典「新説・日本人の起源」)。
その意味では、一万数千年という縄文時代のどこかで、日本語とアイヌ語は同根の言語から発生し、その後独自に発達してきた、と言えなくもない。
そしてその源になった言語を「縄文語」とよぶことはできるかもしれない。
現在、日本語は大きく分けると、本土方言と琉球方言の二系統に分類することができる。
さらに本土方言は東部方言と西部方言、九州方言と、八丈方言の4つに分類されている。
もちろん、4大方言の中も、琉球方言の中も、細かく分けることができる。
八丈方言は八丈島と青ヶ島と、今は無人島になっている八丈小島の、いわゆる八丈三島=南部伊豆諸島だけで使われている言語で、国語学者・金田一春彦氏は、八丈方言の文法的特徴が「万葉集」の東歌に近似していることから「万葉集東歌方言」と名付けている。
すなわち、現在使われている方言の中で、八丈方言は東部方言(いわゆる東北弁の系統)、西部方言(いわゆる関西弁の系統)、
九州方言(いわゆる九州弁)と並ぶ日本4大方言の一つなのである。
また最近では、八丈方言は琉球方言(琉球語・沖縄語ともよぶ)に匹敵する、ひょっとするとそれ以上に「日本語」の古層を保存している方言だと言われてきている。
日本語の4大方言と琉球方言、アイヌ語は、弧状列島の言語として、ある程度は知っておく方がよいだろう。
特に日本諸語と大きく開いてしまっているアイヌ語の響きは、大切にしなければならない。
山本多助エカシ(エカシはアイヌ語で長老の意味)は、「イタクカシカムイ(言葉の霊・・アイヌ語の世界)」の中で、アイヌも和人も混血を繰り返しながら民族として形成されてきたと捉えている。
これはとても大切な視点だ。
彼は、自然児であるアイヌ民族も、単一民族だったとは言いかねると考えるのである。
彼はアイヌ語を日本語の祖語と見る。
日本語の原形とアイヌ語とは、古い時代には同一の言語であったと捉えている。
すなわちアイヌ語と日本語は共通の祖語から発達してきた言語と言える。
ただし、アイヌ語の方がより祖語に近いものを多く有していると言えるだろう。
そしてその関係はアイヌ人と日本人についても言える。
<イタク カシカムイ>、言うならば言霊のことである。
「イタク」の音韻は、恐山のイタコを想起させる。
イタコの神がかり、イタコの口寄せ。
すなわちイタコは言霊を吐き出す。
おそらくイタコのイタはウタと同根に違いない。
すなわち「歌」である。
神の言葉としてのウタ。
歌うように、訴えるように、神々や精霊の来歴を物語る。
そこには当然、言霊が宿っている。
そして「イタク」は沖縄のユタ(民間の巫女)にも通じる。
もちろん、ユタもイタコと同じく、神々の来歴を、歌うように、訴えるように物語る。
それは縄文精神の顕現だ。
イタクーイタコーウターユタは、おそらく同系の言葉に違いない。
日本語の斎く(いつく)という言葉も、イタクーイタコと同系の言葉ではないだろうか?
神々の声を聴くことができる聖なる場所での斎き。
そしてその斎く場所が固定化し、そこに人が集まるようになって物々交換の場になると、やがて「市」が立つ。
門前町はこうして始まったに違いない。
おそらく沖縄のウタキも、御嶽という漢字があてられているが、イタクーユタの系統の言葉ではないだろうか?
ウタキは神々の声を聞く場所なのだ。
山岳信仰ではないのだ。
縄文の言葉の破片を、私たちの言葉の中から探し出す作業は困難である。しかし、私たちも縄文人の子孫なのだ。そういう意識を
持てば、縄文の声が聞こえてくるはずだ。
縄文人の言葉の魂を見つけること。
縄文のこころをあらわした言霊。
自然界の持つ縄文の記憶。
自然が語ってくる縄文の言霊。
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